森下賢樹(もりした・さかき)
プライムワークス国際特許事務所代表弁理士。パナソニック勤務の後、シンクタンクで情報科学の世界的な学者の発明を産業化。弁理士業の傍ら、100%植物由来の樹脂ベンチャー、ラストメッセージ配信のITベンチャーなどを並行して推進。「地球と人にやさしさを」が仕事のテーマ。
初めて「屋台村」に書きます。知財に関する「真面目な」話もたまにしますが、ふだんはエッセーでお許しください。
日本は特許出願数が世界一だった期間が約40年もありました。その是非なんて、私にはわかりません。むしろ、なんでそんなにまで特許出願が日本人の体質に合ったのか。これについては、ときどき考えます。
◆ポイントは「ほんの少し変えただけなのに」
私は、日本文化が本質的に「本歌取りの文化」だからではないか、と思っています。
平安時代を中心に、いろいろな和歌集ができました。歌を詠む手法のひとつに、「本歌取り」があります。優れた歌を下敷きに、表現をなぞりつつ新しい世界観を表出する、というところでしょうか。例えば、
「苦しくも降りくる雨か三輪が崎 佐野のわたりに家もあらなくに」(万葉集)
を本歌とし、
「駒とめて袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮」(新古今集)
後者は私が敬愛する定家の秀歌です。「雪」と「雨」、「佐野のわたり」、「あらなくに」と「かげもなし」あたり、とてもよく似ていますね。しかし、全体の世界観はだいぶ違います。前者は雨音を背景としたつらさが中心ですが、後者は音のない雪景色の中で、むしろ余裕まで感じさせる詩情が中心です。
これ、本歌取りとしては、最良の例でしょう。平安時代の人たちは、定家の歌をみて、「なるほど、この切れ味。さすが、定家卿」と、まあ、スターウォーズでいえば、ジェダイの騎士なみの評価を得ていました。
日本人は限りなく単一民族に近いので、ツーと言えばカーですから、わずかな違いにレバレッジを掛けてかなり違いを出す、その妙味に感じ入るところ、みなにかなり共通のものと思います。
本歌取りに感動する日本人の体質が、そのまま技術革新の世界にもありました(議論、勝手に飛躍しますよ)。いわゆる改良発明で、「ここをほんの少し変えたら、こんなに違いが出る」という話。ポイントは、「こんなに違いが出る」ではなく、むしろ、「ほんの少し変えただけなのに」なんです。
①変える量50% →効果70%アップ
よりも、
②変える量5% →効果20%アップ
のほうが、日本人にとってスマートないし妙味なんだと気づきました。
20年弁理士をやって、発明者が「ドヤ顔」をする瞬間を統合すれば、この結論が出てしまいます。
「たった5%でねぇー」
近所のおばあさんが、「まだ若いのにねー」というときと同じ、感慨深い世界なんです。
あとは、賢兄にはおわかりのとおり、①より②を尊重するから、特許出願があんなに大量に発生しました。欧米人にとっては、おそらく、①>②でしょうから、東洋の果ての小島で、あんなに膨大な特許出願がなされていたなんて、理解を超える事態だったに違いありません。
以上、私の個人的な感覚ですので、浅見お許しを。
今後も「日本と知財」をテーマのひとつとして書きたいと思います。
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