引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャローム所沢施設長。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆精神疾患を治癒
私は今、統合失調症をはじめとする精神疾患者を、薬に頼らず「対話」で治癒する「オープンダイアローグ」の手法に惹(ひ)かれている。毎日、精神疾患者の方との面談や相談、支援活動で対面し話をし、自分にとっては新しいその人の持つそれぞれの世界、苦悩、家族の心配に触れて、医者でもなくカウンセラーでもない私が何をすべきかを考えるとき、この対話手法は、魔法のような響きで、その人たちが治癒されるのかもしれない、という希望に誘う。
実際、数人の精神疾患者の家族に「オープンダイアローグ」を説明しているが、これまで精神科医の診断でも薬の処方でもカウンセラーの指導でも、好転しなかったことで希望を失った家族には、対話で解決できるとは、即座に信じられないかもしれない。
今、私はその入り口に立っている。立ちながら、周りを見渡してみると、少し不安な面もある。それは、医療社会への不安だ。私自身は「疾患者の治癒」としか思っていないこの行動は、薬を使わず、医者の存在意義を否定してしまうことにつながるから、「反」医学の主張に対し敏感に反応する人たちにとっては、やはり煙たいものかもしれないからである。
◆技法ではなく哲学
この手法はフィンランドで実施されている画期的な治療で、今年7月に発刊された『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環/著・訳、医学書院)が分かりやすく紹介している。
同書によると、この治療法を導入している同国西ラップランド地方では、統合失調症の入院期間は平均19日間短縮、薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症群との比較で、この治療法の患者のうち服薬を必要としたのは35%、2年間の予後調査で82%が、再発なし、またはごく軽微なものにとどまったという。
同書の著訳者である精神科医の斎藤環氏も「結論から言いましょう。いまや私は、すっかりオープンダイアローグに魅了されてしまっています。ここには確実に、精神医療の新しい可能性があります」と高い評価を下している。
普段、社会に出回っているモノを批判的に見る私も、日々の精神疾患者やその家族の悩みを目の当たりにすれば、惹かれないはずがない。救いを求め、あきらめる人にとって大海原の、遠い北欧の海に浮かぶこの藁(わら)は太い丸太に見えてしまうのである。
治療の中心であるユバスキュラ大のセイックラ教授は、これは「技法」「治療プラグラム」ではなく、「哲学」や「考え方」であることを繰り返し強調している。わかりやすく言えば疾患者とその家族やソーシャルワーカーたちが一同に集って語り合う「開かれた対話」。ここでは医師の能力や技術に依存することはなく、対話ができる人たちが関わって成立する人を再生する仕組みであり、医師は絶対ではない。
さらに「キュア」(治療)ではなく「ケア」(治癒)」をする、という考え方だから、一般の人も治癒に参加ができるのが魅力的である。統合失調症患者を治すのに、今まで「無力」だった医師・カウンセラー以外の一般人も機能できるから、社会との接点も広がる。患者と一般の方々の垣根を越えてのコミュニティー形成も伴うことは、治癒に加えての副産物である。
疾患により社会から離れている人、引きこもりなどで隔絶しがちなそれら患者が社会のコミュニティーの中に位置づけられ、再出発するのに必要な素地を醸成するはずだと、私も大いに期待を寄せている。
◆入口から仲間を待つ
さて、この手法とは何か、である。米国でオープンダイアローグの啓蒙活動を行う精神科医マリー・オルソン教授は、著書でオープンダイアローグの「守られるべき基準」として、12項目をあげている。それは以下の通りである。
1 ミーティングには2人以上のセラピストが参加する
2 家族とネットワークメンバーが参加する
3 開かれた質問をする
4 クライアントの発言に応える
5 今この瞬間を大切にする
6 複数の視点を引き出す
7 対話において関係性に注目する
8 問題発言や問題行動には淡々と対応しつつ、その意味には注意を払う
9 症状ではなく、クライアントの独自の言葉や物語強調する
10 ミーティングにおいて専門家どうしの会話(リフレクティング)を用いる
11 透明性を保つ
12 不確実性への耐性
これら一つひとつにはそれぞれ解説が必要だが、いくつかのポイントを抑えれば、このダイアローグは実行可能で、難しいものではない。私なりに考えた要点は次回、お伝えすることとして、今回は概要の存在を知ってほしいとの思いで、慎重に伝えた。それは「入り口」に立っている自分に、仲間が増えないか、という思いも込められている。
※次回(下)に続く
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