п»ї 「成長神話」という常識を疑い、「経済」本来の使命を考える 『「否常識」はいかが?』第2回 | ニュース屋台村

「成長神話」という常識を疑い、「経済」本来の使命を考える
『「否常識」はいかが?』第2回

1月 18日 2017年 経済

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水野誠一(みずの・せいいち)

株式会社IMA代表取締役。ソシアルプロデューサー。慶応義塾大学経済学部卒業。西武百貨店社長、慶応義塾大学総合政策学部特別招聘教授を経て1995年参議院議員、同年、(株)インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア(略称:IMA)設立、代表取締役就任。ほかにバルス、オリコン、エクスコムグローバル、UNIなどの社外取締役を務める。また、日本デザイン機構会長、一般社団法人日本文化デザインフォーラム理事長としての活動を通し日本のデザイン界への啓蒙を進める一方で一般社団法人Think the Earth理事長として広義の環境問題と取り組んでいる。『否常識のススメ』(ライフデザインブックス)など著書多数。

◆「好況」を「成長」と混同

そもそも、経済とは「経世済民」からきた言葉だという。

「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」という広い意味をもっている。

だから現在使われる狭義の「経済」とはいささか意味が違うかもしれないが、本来は、民を「すくう」ために世の中を「おさめる」ための知恵であったことは十分に納得できる。

さらに「経済成長」という概念は、ここ60年ほどの常識でしかないという。

東大名誉教授でもある経済学者の武田晴人氏は『脱・成長神話 歴史から見た日本経済のゆくえ』(朝日新書、2014年)という著書に中で以下のように述べている。

「資本主義経済が英国で成立してから200年近くの歴史の中で。経済発展を記述する経済学の用語の中に、『経済成長』という概念ははなく、それが本格的に使われるようになったのは、1950年代半ば、いまからせいぜい60年くらい前からのことだったのです。ところがそれがいつの間にか、経済問題を論じるうえでは、最も重要な概念になっていきました。今や『経済成長』という言葉は子供でも知っているような『常識』になったのです。だからたとえば、アメリカの財務長官や国家経済会議委員長を歴任したローレン・サマーズは『われわれは現在また将来において、アメリカ経済の成長に関するいかなる“制限速度”も受け入れることはできない。できるかぎり急速に、かつ持続的、包括的に経済を成長させることが経済政策の責務である』と自信を持って言明しています。」(幸福の研究、88ページ)

ここに「経済成長」が半永久的に続くだろうという『成長神話」が始まったのだ。 だがこの「成長神話」が疑わしいものになってきてから大分時間が経つ。

思い起こせば、今から四半世紀前の1991年に、私が西武百貨店の社長になった時、まさに起ころうとしていたバブルの崩壊以前に、経済成長期は終わり始めていることを実感していた。50年後半から60年代70年代と続いた高度成長期が終わった後も、86年からそれまでは、まさにバブル経済が膨れ上がってきていたので、大半の経営者が、その「好況」を「成長」と混同していた時代だ。

だがバブルは、それまでの経済成長とは完全に異なるものだった。経済成長とは、少なくとも生活者人口が増えて、パイが増大化すると共に拡大するものなのだ。だがバブルの好況は、客数は増えずに、客単価が膨れ上がる消費によって起きたものだ。すなわち、消費力や消費量の成長/拡大ではなくて、消費の質の成熟化/高額化によって伸びた売り上げなのだ。少なくとも日本で見れば、74年以降、特殊出生率が置換水準の2.08を割り込んでいて、早晩人口減少が始まることは明らかだった。それが「少子高齢化」という現象だ。

http://www.garbagenews.net/archives/2013423.html

だから、時代は成長期が終わり、成熟化期に転換していて、もはや百貨店が店舗数を増大して対応すべき市場ではない、というのが私の結論だった。従って、私は社長になった途端に、前社長時代に計画していた総額3千億円の新規出店投資をほとんど全部中止した。これから百貨店がすべきなのは、店舗数を増やすことではなくて、サービスの質や付加価値を高めることだからだ。少子高齢化の時代に、店舗や商品の数の競争は必要ない。

当時はまだバブルも成長もいっしょくたに見なしていた人が多かったから、百貨店や量販店で繰り広げられていた出店競争から、いち早く脱落した私は、非常識な経営者だと思われていたようだ。実は「非常識」ではなくて、「否常識」だったのだが。

◆真に必要なのは「成熟化戦略」

しかし呆れるのは、いまだに本気で経済成長を前提条件と考えている人々が多いことだ。

アベノミクスは経済成長の鈍化をデフレのせいにして、無理やりインフレに誘導して、物価を2%あげれば全てが解決すると言い募ってきたし、出生率の低下を逆転させることすらできるとして、成長目標として2020年にGDP(国内総生産)の600兆円達成までも掲げる。だが、2%の物価上昇すら実現させられず、デフレ脱却などありえない現状では、この「成長戦略」など寝言としか思えない。

真に必要なのは、「成熟化戦略」なのだ。それは、従来の第2次産業や第3次産業での成長ではなく、高度情報化産業としての第4次産業や、少子高齢化社会に対応するための、高度情緒化産業としての第5次産業の創出を意味する。さらに加えれば、1次+2次+3次という6次産業化も良いかもしれない。

そもそも、デフレ脱却とインフレ政策、引いては成長戦略自体にどんな意味があるというのだろうか?

人類の文明の歴史を1人の人間に例えるとすると、13世紀から始まり20世紀に至る8世紀間の西洋文明を中心にした「成長期」を経て、21世紀から始まる。東洋中心の長い「成熟化期」に入ろうとしているのではないか。これは、市井の歴史学者の村山節氏が提案した「東西文明800年周期説」(拙著『否常識のススメ』P100~101)である。少なくとも、人口爆発が止まらない発展途上国以外の先進国では、すでに成熟化期に突入していることは明らかだ。したがって量の消費から質の消費への転換が始まるはずだ。

至るところで、国内の量的な成長神話は終わっている。経済産業省の「工業統計」によると、1990年から2010年までの20年間に衣料品の供給量は25倍に増加したが、 日本国内の工場数(事業所数)は、1985年から2010年までの過去25年間で25%にまで減少した。

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一方、1990年に衣料品の供給量は16億着だったが、2010年には2・5倍の40億着に増加。だが市場規模は、15兆円が10兆円に縮小している。それだけ単価が減少したということ。まさに海外生産されたファストファッションの増大を意味している。

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一方で、2010年1年間だけで20億着という衣料品が廃棄されている。

2010年(平成22年)2月の中小企業基盤整備機構の資料によると、衣料品の2009年の供給量と廃棄量は、国内供給量=111万トン、総廃棄量=94万トンだという。これだと実際に消費されるのはわずか17万トン(6億着)という計算になるのだが、実際は、総供給量の4割程度が新品で供給されていると思われる。それにしても、再利用されずにゴミとして廃棄される衣服の総量は60万トン(約20億着)と推定されるのだからあぜんとさせられる。
いずれにしても、依然大量生産、大量消費、それにも増しての大量廃棄という矛盾が繰り広げられているという現実にがくぜんとさせられる。

この矛盾のしわ寄せを可能にしているのが、信じられないほど安価な生産コストを押し付けられている発展途上国の縫製工場なのだ。

この問題への気づきは、2013年4月にバングラディシュのダッカ近郊で起きた縫製工場「ラナプラザ」の崩壊事故がきっかけだった。世界を代表するファストファッションブランドの縫製工場が集まったこのビルが崩壊して、1127人もの縫製工が死亡、2500人を超える負傷者が発生した大事故だ。その劣悪な労働環境は広く世界に知られることになり、その後、大きな不買運動にもつながった。

これは、「ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代償~」という映画制作のきっかけにもなった。 http://unitedpeople.jp/truecost/

◆「慎みと足るを知る」

今度は、「衣」生活から「食」生活に目を転じてみよう。

世界では年間39億トンの食糧が生産され、13億トンが廃棄されているという。

米国内では毎年3400万トンの食糧が毎年廃棄され、リサイクルされるのはその中の3%だけ。97%は完全に廃棄されるという。

しかし一方で、毎年世界で760万人が餓死していて、10億人が栄養失調に苦しんでいる。

現在地球上の総人口は74億人だが、我々が一切の食糧を捨てることがなければ、理論上では140億人以上もの人々が飢えることがないといわれる。この矛盾に満ちた問題解決に取り組みだしたのが、米国の「COPIA」という団体だ。

このCOPIAの特殊なアルゴリズムを使って、あるところで余っている食糧を、足りないところにマッチングすることにより、現在までに360トンの食糧が70万人に行き渡り、このCOPIAへのドネーションによって、460万ドルの節税効果を生むことができたという。 今後先進各国で、同じような取り組みが始まるだろう。

一方で物が余り、他方で物が足りないのに、大量に廃棄されるという現実。これが、経済成長が行き着いた先の姿なのだ。 これらの現象のどこに、「豊かさ」を感じられるのだろうか? 今後経済が目指すべきは、これ以上の経済成長ではなく、「慎みと足るを知る」成熟化のあるべき姿なのだ。そのバランスこそが、真の幸福の実現をもたらす。

その証拠に、経済成長を実現したどの先進国もが、現在世界で採用されているあらゆる「幸福度インデックス」をもってしても、上位を占めることが不可能なのである。また、ブルーノ・フライ、アイロス・スタッツァーの『幸福の政治経済学―人々の幸せを促進するものは何か』(ダイヤモンド社、2005年)でも、1人当たりの実質GDPがいくら上昇しても生活満足度が上がらないことを証明している。

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「成長神話」を疑い、経済成長が進むだけでは、経済本来の「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」という使命は果たせないことを改めて認識する「否常識」をオススメしたいと思う所以(ゆえん)だ。

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