石井清史(いしい・きよし)
グアテマラ・カトリック大学留学後、外務省勤務。在コスタリカおよび在ボリビア日本大使館参事官、ブラジル・リオデジャネイロ広報文化センター所長などを歴任。中南米生活35年余。退職後の現在はエルサルバドルに在住。専門は存在論を中心とした哲学。40年来取り組む人生の課題は、仏教とキリスト教の比較研究、日本文化・東洋文化と西洋文化の全般的比較研究。
来年2月に大統領選挙を控えるエルサルバドル(以下、エルサル)では、国民の大半は行政能力のない元極左武装ゲリラ・ファラブンド・マルティ国民解放戦線(FMLN)政権に愛想をつかしている。外交筋や政治情勢分析筋の見方では、FMLNの大統領候補のマルティネス前外相が勝つ見込みはほとんどなく、悪くても決選投票に持ち込まれた場合、右派政党・民族主義共和同盟(ARENA)候補のカルロス・カジェハ氏(エルサル最大のスーパーマーケット創設者の孫でカジェハ企業グループン副社長)が勝利すると大半の国民が信じている。
来年6月にはFMLNからにARENA政権交代されることは確実な状況であり、既にカウントダウンが始まっている。この時期に中国がFMLN政権に大接近し、8月20日、エルサル政府は台湾政府と国交断絶を発表した。
FMLN政権と中国の思惑は何なのか。中国の戦略戦術をご理解いただく必要があるので多少細部にわたるが、公開情報をベースに背景を述べてみたい。
◆台湾政府との国交断絶と中国の急接近
(1)8月20日:サンチェス・セレン大統領は全てのテレビ・ラジオ放送を中断し、台湾との外交関係断絶を発表。台湾外交部もエルサルバドルとの外交関係断絶を発表。ちなみに蔡政権発足後、外交関係断絶国は5か国で、中南米では2017年6月以降でドミニカ共和国、パナマ、及び、今回のエルサルバドルの3か国。
(2)8月21日:台湾外交部のジョセフ・ウー(呉釗燮)部長によれば、FMLN政権より台湾外交部を通じて、巨額な選挙資金援助の協力要請があったが断った由。
(3)8月23日:、FMLNの領袖Jorge Schafik Handal(既に逝去したFMLNの党首の子息で国会議員)によれば、中国は、ウニオン港のあるウニオン県及び近隣のウスルタン県とサンミゲル県に5年間で500億ドルの投融資の提供をオファーしている由。
(4)8月25日:台湾の民主進歩党国会議員によれば、FMLN政権は台湾との国交関係継続の条件として、台湾政府にとりあえず総額270億ドルを要求した由だが、台湾政府はこれに応じなかった由(要求総額の内訳は、ウニオン港再開発に40億ドル、毎年250億ドルの援助、経済特区開発に230億ドルの融資など)。
(5)8月26日:米共和党のウィル・ハード下院議員は「中国の援助は経済開発とならない。コスタリカが台湾と断交して中国と国交を開始した見返りに、中国政府は巨大サッカー場を建設したが、資機材や労働力の全ては中国本国から提供した。これはアフリカやスリランカでも同様である」と鋭く指摘した。ARENAのインテリアノ党首は「来年6月にARENA政権が発足すれば、即座に台湾との国交を再開する」と表明した。
(6)8月27日:中国の軍事関連企業Beiing Asian Pacific x Xuanhao Science & Technology Development Co.,Ltd.(APX)はFMLN政権とウニオン港に計24.8ヘクタールの土地、近隣地区に48.1ヘクタールの土地貸借契約を交渉中。
(7)8月28日:米国のJean Manes駐エルサル大使は「中国がウニオン港を軍事基地化する目的がある」と指摘。エルサル国会は中国との交渉に係る情報公開を要請。
(8)8月29日:APX社のホームページでは、同社は1997年設立で「軍事関連企業」と明記されていたが、エルサル報道機関はAPXをウエブサイト(www.apx.cc)で検索すると2日前に「軍事関連」の表現は抹消されている旨を指摘している。
(9)8月30日:ウニオン港のあるウニオン市長は「中国がPerico島の購入目的で35家族に35万ドルの無償援助を提示している。」と語った。
(10)9月3日:最有力紙El Diario de Hoyは社説で「ウニオン港インフラ整備は永年の友好国である日本の資金で実施されたが、アントニオ・サカ前々大統領政権、FMLN政権のマウリシオ・フネス前大統領とサンチェス・セレンFMLN現大統領の時代を通じて全く放置された結果、現在中国が食指を伸ばしており、国家的危機が到来している」と解説。
(11)9月4日:エルサル最大の民間シンクタンクFUSADES(経済社会開発基金)のJose Angel Quiros理事長は「エルサル政府は中国への通商交渉使節団派遣を決定したが、自国の民間企業団体代表の参加は排除している。中国が用地買収を意図している経済開発特区へのエルサルバドル企業の参加は排除されている」と述べた。
(12)9月7日:米国務省はエルサル、ドミニカ共和国、パナマの各駐在大使を本国に召還した。中国関連の説明を求めて米国の対応を協議するもよう(これはエルサルの中国との外交関係開始の17日後であり、筆者には米国のリアクションの遅さに驚かざるを得ない)。中国はウニオン港のあるフォンセカ湾内のPerico島とPeriquito島の買収を検討中。
(13)9月13日:エルサル国会は領海内の島を外国人に売却禁止する民法改正を決議したが、サンチェス・セレン大統領はこの決議の無効を決定。中国はPerico及びPeriquitoの2島を2百万ドルで購入することを交渉中。
◆FMLN政権と中国の意図
各種の情報筋、専門家、報道、大方の国民の考えを要約すると、来年6月にARENA政権が発足することはほぼ確実である。現FMLN政権としては命脈が尽きる前に国有地を切り売りし、権益を売却し、各種の資金を手にしたいと考えているとは情報筋の見方である(筆者注:ラ米で公共事業が落札される場合、少なくとも落札額の10%が「袖の下」として渡されることはラ米ではよく知られている)。
日本の無償資金協力と有償資金協力により百数十億円をかけて整備されたフォンセカ湾のウニオン港は10年以上放置されている。太平洋岸にあるフォンセカ湾はホンジュラス及びニカラグアと領土・領海を分ける天然の良港であり、ウニオン港は既に日本の資金協力により基本インフラが整備されている。前述したように、中国はウニオン港の管理運営権、近接地の買収、湾内の小島の買収をエルサル政府と交渉中であり、権益獲得・用地買収後の開発は中国の軍事企業APX社が担当する。
これは中国にとっては「一石三鳥」である。第一に、領土領海・港湾管理権を得て、軍事基地化が可能である。これは中国がラ米の太平洋岸に橋頭堡(きょうとうほ)を確保することであり、米国の横腹に風穴を開けることで対米戦略の有利化に驚くほどの効果を発揮しうる。
第二に、台湾とエルサルとの国交断絶により、台湾を孤立させ、台湾と中国の交渉を有利に運びうる。第三に通商面でも極めて有利で、安価な中国産品が怒涛(どとう)のように輸入され、ほとんどの品目でエルサル製品は対抗できない。エルサルからは輸出可能な物は、砂糖、コーヒーぐらいしか想定できない。仮に関税撤廃により安価な中国産品がエルサルに輸入されれば、中国は中米共同市場を極めて有利に利用できる。エルサルの産業界が支持基盤であるARENAが中国との国交開始と秘密裏の通商交渉に反対しているのは、思想面の他に、自分達の企業の存在も危機に立たされると言う意識がある。
既に財政は破綻(はたん)し、行政への信頼は失われ、国内総生産(GDP)の35%を占める約40億ドルの米国中心の出稼ぎ送金で命脈をつなぎ、瀕死(ひんし)の状態にあるエルサルに、FMLN政権が終焉(しゅうえん)する来年6月までの間に、「薬も出すし手術もしますよ。医療費も出しますよ」と中国が甘言を呈していることは、ARENAやエルサルの財界が一斉に指摘して危機感を募らせているところである。
FMLN政権は既に先陣としてゴンサレスFMLN書記長を中国に派遣し、副主席との交渉を開始した。政府代表として政府の公職にないFMLN書記長を派遣するFMLN政権の「常識」とこれを受け入れる中国の「常識」は世界的常識とは相いれないはずである。
先述のように、既に台湾政府に超巨額の資金協力を持ちかけて断られた経緯もあり、FMLNが同様の趣旨の協力を中国と交渉していることは十分に推測できる。FMLN政権が中国に売却する国有地が疎開地化することは十分に想定可能である。
◆日本との関連
(1)米国の対応
先述のように米国のリアクションは極めて遅く、「ようやく気づいて重い腰を上げた」との印象はぬぐいえない。国連安保理常任理事国の構成、これまでの国際紛争に係る国連の限界、米州機構(OAS)のベネズエラ及びニカラグアへ取り得る具体策の限界があり、国連や国際機関に切り札はほとんどないと言える。
米国は「Fomilenio II」の名目の下に3億ドルの対エルサル援助を切り札と考えているだろうが、中国の援助が大幅にこれを上回ることは推測できる。ARENAは政権奪取の暁には中国との契約を破棄する考えであろうが、「国際約束」として中国がこれを素直に受け入れるか疑問である。ベネズエラ・マドゥーロ政権、ニカラグア・オルテガ政権、そしてエルサル・FMLN政権が既に共に焼け焦げつつある。
エルサル世論を集約すれば、FMLN政権と中国の急接近、これより生じる各種の危険、これらに対して「米国が黙って見過ごすはずはない。何かの場合は米国が助けてくれるはずである」と信じている。既に中国に先手を打たれている現状であり、米国の対応が後手となっていることは疑いない。
(2)日本の対応
開発援助大綱では軍事利用を避ける(Avoid)と明記されているが、これでは単に申し入れて善意に期待することしかできない。この表現は含みを持たせた表現であり、禁止(prohibit)としなかったことは援助する日本側の思惑が見え隠れする。あいまいな表現は禍根を残すよい例である。
エルサルはラ米で初めて青年海外協力隊(JOCV)が派遣された国であり、世界で初めてトヨタ自動車の海外販売店が開設された国である。1978年にINSINCA社(エルサルバドル政府出資の投資公社CORSAINと蝶理、岐セン、東レ、三井物産が出資し、66年に設立した半官半民の合繊繊維メーカー)の日本人社長誘拐殺害、日本人専務誘拐・身代金6百万ドル強奪という誠に無残な事件が起きるまでは、日本企業が中米最大の投資をし、本気で「中米の日本」を目指した国である。
FMLN政権はいまだに日本政府やINSINCA投融資の日本企業関係者、殺害された社長のご家族に対して謝罪していない。厚顔無礼、破廉恥(はれんち)と言われるべきであろう。ちなみにスペイン政府は、内戦時にカトリック大学に軍が突入してスペイン人修道女6人を強姦(ごうかん)殺害した罪を追及し続けている。
筆者は96年12月~99年12月の3年間、エルサルに在勤し、日本がトップドナーの時に経済技術協力を担当し、日米DD協力(Democracy, Development)を推進した。エルサルは我が国財界・政府が力を注いで発展に協力してきた国であり、親日家の多い国である。
対当国開発援助政策、国際協力機構(JICA)による重点援助実施を鑑みると、我が国の協力は相変わらず遠回しのDD協力である。この婉曲(えんきょく)的民主化が失敗であったことは米州開発銀行(IDB)のエンリケ・イグレシアス元総裁が反省を含めて述べている。
筆者の在勤経験のあるボリビアの場合、現地からの情報では、日本は最近、地熱発電に610億円の円借款、サンタクルス県の沖縄県出身者のオキナワ移住地の道路建設に43億円の無償資金協力を決定したという。他方、中国は使用目的の縛りなく6千億円の借款供与を決定したそうだ。既にアフリカで明確化しているように単純な援助競争では日本は中国との競争力を失っている。中国は共産党の一党支配、習近平主席の独裁化を確立しつつあり、この経済協力開発機構(OECD)の縛りのない中国に打つ手はないのだろうか。
外交筋によれば、日本外務省は中南米でも中国の進出を調査しているとのことである。中南米は日本にとって「負の遺産」のない地域であり、100年以上に及ぶ日本人移住の歴史を基とした親日国がほとんどである。この親日国の多いラ米に中国が「新シルクロード構想」で進出することは、単に二国間関係のみならず多国間関係及国連などの国際機関との関係に悪影響を及ぼす可能性が高いことを意味している。
中国が中南米で「新シルクロード構想施策」を強力に展開している状況下で日本に逡巡(しゅんじゅん)している余裕はないはずである。政府開発援助(ODA)の再強化、予算的対応のみならず人材の育成、更には、中長期的観点から強力かつ効果的な文化外交を展開しなければならない。幸いにも中南米においても若者の間で日本文化各分野への関心はますます高まっている。かつての「事業仕分け」で削減された文化広報予算を復活させる必要があろう。
2007年~10年に筆者がブラジル・リオデジャネイロの広報文化センター所長として在勤時には既に中国は「孔子学園」を設立し始め、主要大学に中国語学科設立を働き始めていた。日本語普及関係予算の逼迫(ひっぱく)で四苦八苦していた当時、我が国は中国のこの動きには敏感ではなかった。今こそODA予算を充実し、移住者・日系人が下地を整えた中南米諸国の親日性を維持し、倫理性・道徳性が高く、高品質な先進工業国であり、古来の伝統文化を尊重・維持し、国際平和と国際社会の協調発展を基本理念とする国である点を声を大にして売り込み、「敗北主義を排して」日本総体として取り組む必要があるのではないだろうか。
※『中南米徒然草』過去の関連記事は以下の通り
第2回「焼け焦げる国々の中南米」と中国(上)(2018年9月19日)
https://www.newsyataimura.com/?p=7697#more-7697
第1回「中米の日本」を目指した国(2014年6月6日)
https://www.newsyataimura.com/?p=2343#more-2343
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