山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
メディア界を騒然とさせた「朝日新聞の誤報騒ぎ」にひと区切りがついた。1月5日に朝日新聞は「信頼回復と再生のための行動計画」を発表、三つの誓いを立てた。
公正な姿勢で事実と向き合います
多様な言論を尊重します
課題の解決策をともに探ります
「日本と日本人を卑(いや)しめる朝日」「反日・売国の朝日」と罵倒(ばとう)され、「廃刊せよ」という叫ぶ学者や評論家もいた。週刊誌や新聞が自分たちの報道ぶりは棚に上げ、水に落ちた犬を棒で叩くようなバッシングが繰り返された。年が明けて、熱が冷めたのか。それとも拍子抜けするほど平凡な「誓いのメッセージ」に拍子抜けしたのか、轟轟(ごうごう)たる批判は影をひそめた。
◆新聞報道には全てに「角度」がある
朝日新聞は慰安婦報道を検証する第三者委員会、東京電力福島第一原発事故を巡る吉田調書報道を調べる「報道と人権委員会(PRC)」、有識者を交えた社内組織「信頼回復と再生のための委員会(再生委)」など外部の声を取り入れ、お役所が審議会を使うように、分厚い報告書をまとめて世間に反省の姿勢を示した。
委員からはいろいろな意見が出た。その中で私が違和感を感じたのが、第三者委員会のメンバーである元外務官僚の岡本行夫氏が「個別意見」として主張した次の一節だ。
「当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から『角度を付ける』という言葉を聞いた。事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。
事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」が付けられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団自衛権、秘密保護、増税、などなど。方向性に合せるためにはつまみ食いも行われる(例えば、福島第一原発事故を巡る吉田調書の報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるかのように書かれたりする
これだけ読むと、朝日新聞は事実を自分の都合のいいようにねじ曲げて報道しているような印象を与える。事実以外の脚色が施され、火のないところに煙を立てる記事を朝日は書いている、つまり「偏向報道」ということである。
ヒアリングに応じた社員がどのような文脈で語ったかは知らないが、私は新聞報道には全てに「角度」がある、と思っている。誤解を恐れず言えば、ある種の主観に基づく作為、角度というより編集と言った方が適切かもしれない。
記事を書く、ということは社会で起きていることから、記者が大事と思うことを選び、噛(か)み砕いて伝えることだ。何を取り上げるか、どう伝えるか、というところに記者の意図が働く。
よく使われる言葉に「客観報道」がある。良し悪しを論ずるのではなく、客観的事実を並べ、読者の判断に委ねる、という手法だ。一般記事の原則でもある。ここにも主観は入り込んでいる。どの事実を選び、何を捨て、どんな順番で並べるか。記者の思いや意図が込められている。それが角度であり、編集である。
◆客観的事実を取捨選択し強弱をつけて伝える
国会報道を例にとってみよう。衆議院だけでも500人近い議員が、様々な委員会で議論している。ニュースになるのはこのごく一部だ。首相の所信表明などは全文が新聞に掲載されるが、審議のやり取りは「抜き書き」である。発言も答弁も要点だけで、言葉の取捨選択がなされている。審議の全容を書けば「速記録」と同じだ。予算委員会は記事になることが多いが、小さな委員会は報じられることは少ない。
国会審議の全貌(ぜんぼう)は新聞に載っていない。全貌を知りたければ国会の事務局が作成する速記録や資料映像を見ればいい。新聞が伝えるのは「つまみ食い」である。
経済記事でも同じだ。日本だけで何百万社ある企業の中でどこを取り上げるかに記者や編集者の狙いがにじむ。
官庁などの発表ものも同じだ。広報された内容のどこに着目するか、どの事実を強調するかで表現は変わる。報道とはそういうものだ。客観報道とは発言・行動・データなど客観的事実を発信者が取捨選択して強弱をつけて伝えることである。
◆角度を付けないのは「思考停止」と同じ
再生委のメンバーである国広正弁護士も朝日新聞の紙上で岡本さんと同じようなことを言っている。
「朝日新聞の問題は『権力を監視しなければいけない』という過剰な使命感が職業倫理に優先し、自らのストーリーに合う事実をつまみ食いし、不都合な事実から目をそらすフェアでない記事が大きな見出しで載る点にあります」
だが、報道は「つまみ食い」である。論旨を鮮明にするため事実を「捨てまくる」。角度は、サンケイや読売の紙面にも付いている。週刊誌の記事は角度なしには読めないだろう。見出しは角度の象徴である。
ジャーナリストの命は、事実を取捨選択し、角度を付けた記事が世の中の共感を得ることができるか、である。
朝日新聞が集中砲火を浴びているのは、「朝日の角度」が気に入らない、という勢力が力を増しているからだろう。安倍政権の登場、自民党安定多数という状況と無関係ではないように思う。
角度を付けない、ということは「思考停止」と同じだ。発表をそのまま書く。「言う通りに書け」という強者の論理を従えば、トラブルも減るだろう。
朝日新聞の記者に「過剰な使命感」があるとは思えないが、「権力は監視しなければいけない」というのはジャーナリズムの大原則だ。朝日新聞が袋叩きになった2014年は将来、日本のジャーナリズム史にどう刻まれるのだろうか。
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