古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆はじめに
わたしたちは、資本主義の時代を生きている。資本主義は経済成長を可能とし、物質的な豊かさをもたらしたが、同時に貧困、不況、不平等(格差)を生んだ。前回まで、こうした資本主義の諸問題を「近代」という歴史概念の中に探ってきたが、本稿からその解決策について考えてみたい。
最初に取り上げるのは、19世紀の経済学者カール・マルクス(1818〜1883)である。マルクスは、資本主義は内在する矛盾によって必然的に崩壊すると考えた。マルクスの思想は、社会に大きな影響を与え、20世紀初めにはロシア革命によって社会主義国家が建設された。社会主義計画経済体制という実験は失敗に終わったが、資本主義が生み出す諸問題は、現在も未解決のままだ。いや、近年はむしろ不平等が深刻化しており、米大統領選挙の民主党予備選挙でのB・サンダース候補の善戦(2016)、英国労働党党首選で左派のJ・B・コービンの勝利と総選挙での躍進(2017)にみられるように、欧米では資本主義の諸問題の解決策としての社会主義が再び注目を集めているのである(*注1)。
ところで、「マルクス経済学(マル経)」をご存知だろうか。新古典派やケインズ派に代表される「近代経済学」に対する経済学派で、戦後の日本社会で大きな影響力をもっていた。私は学生時代にマル経を専攻してマルクスの経済思想に接し、その社会性の高さに感銘を受けるとともに資本主義批判の論理の鋭さに感心したことを今でも覚えている。しかしそれゆえに、その後の社会主義体制の崩壊によって、マルクス主義に抱いた期待への喪失感は大きかった。本来はその時に、何が間違っていたのかの原因を総括すべきであったのにそれを怠り、時代に流されてここまで来てしまったと自省している。しかし、勝者であったはずの資本主義の危機が叫ばれる現在、その最大の批判者であったマルクスの思想の存在感が、日本において小さいのは残念なことだという思いが募っていた。
そうした理由から、今回資本主義の問題の解決策を考えるにあたって、まずマルクスの思想をもう一度見直してみようと思い立ったのである。本稿では論考を進めるに当たっての指針として、社会経済学の視点をもった3冊の本をとりあげた。宇沢弘文『経済学の考え方』(1989年)、森嶋通夫『思想としての近代経済学』(1994年)、松原隆一郎『経済思想入門』(2016年)である。いずれも近代経済学者の手になる経済学史であるが、経済思想の流れを、社会の動きの背後にあるものを意識しながら分析している良書である(*注2)。
◆マルクスによる資本主義批判
マルクスは、19世紀の英国を対象に資本主義とは何かを研究した。当時の英国はヴィクトリア女王(在位1837〜1901)の時代であり、いち早く産業革命に成功し、圧倒的な経済力と軍事力によって世界の覇権国となっていた。しかし工場労働者の労働環境は劣悪で、賃金は生存ギリギリの水準におかれて労働者は貧困に苦しみ、不況が発生すれば失業していっそうの困難が待っていた。そうした悲惨な現実を前にして、道徳的観点から社会の漸進的改善への動きが見られたが、マルクスは経済学の観点から、資本主義的生産様式そのものに矛盾が内包されているのであり、生産力のさらなる発展に伴って制度そのものが崩壊するという「革命」思想を唱えたのである。
●労働働価値説(剰余価値論)
マルクスは、D・リカード(1772〜1823)の労働価値説(商品の価値は生産に費やされた労働の量によって決まる)を継承し、そこから剰余価値論を打ち立てた。資本家が商品を売って得る価値と労働者が得る賃金の差額を剰余価値(利潤)と呼ぶ。剰余価値を資本家が手にすることから、資本家による労働者の「搾取(さくしゅ)」と考えるのである。
➡ここから導かれる資本家階級と労働者階級の矛盾・対立関係に資本主義制度の特徴的現象を見る。
●資本の自己増殖運動と内在する矛盾
「資本」の本質は剰余価値を獲得するための永続的自己増殖にあることを明らかにした。資本家は「資本」に操られる存在にすぎず「資本」が主役であるから「資本」主義なのだ。そして資本蓄積が進むと資本は固定化して利潤率は低下していく(*注3)。一方で労働者の窮乏化がすすみ、需要減少が招く恐慌の頻発から資本主義は崩壊する。
➡史的唯物論に基づき、資本主義は生産力の発展によって崩壊し、より上位の生産様式である社会主義に移行すると考えた。
このようにマルクスは搾取概念を用いて、利潤獲得のための永続的な自己増殖に、資本の本質を見たのである。また「疎外」の概念によって、人間は自分が作り出した分業と機械化から成る資本主義的生産様式によって逆に支配され、あるべき人間としての本質(自分の「生」を生きること)から切り離されることを示した。また、これを援用して、人間のために作られた貨幣が人間を支配する神のようになる(貨幣の「物神化」)ことを明らかにする。こうしたマルクスの思想は、現代資本主義の表面からは見えない仕組みを解明して、論理的に批判する力を与えてくれるのである。これについては、後編の「マルクス思想の現代的意味」においてさらに考えてみたい。
一方で、恐慌から資本主義の崩壊にいたる論理展開については問題を含んでいると言わざるをえない。マルクスがいう崩壊の要因としての「利潤率の長期低下」は実際に起こらなかったし、資本主義も崩壊しなかったが、予測が外れたことが問題なのではない。この論理は、史的唯物論とそれが依って立つ弁証法から導かれるものであるが、問題は、本来限定的に論ずべきその適応を普遍化したことにある。そしてこの性急な普遍化の失敗については「マルクス主義」というイデオロギーに責任があると考えている。
「マルクス主義」とは、マルクスとエンゲルスの思想(*注4)を基本にして発展した経済、政治、文化を含めた世界観・歴史観の総称である。マルクス思想の現代的意義を考える上で、このマルクス主義イデオロギーとマルクスの思想とを分けて考える必要があるので以下説明しておきたい。
◆「マルクス主義」というイデオロギー
マルクスの経済学は社会経済学(政治経済学)であり、経済現象を社会構造や制度、政治、文化を含めた広い分野から研究する手法を取る。彼はその分析の哲学的基礎を「弁証法的唯物論」においた。そこから「史的唯物論」という歴史観を形成する。これは物質的な生産の諸条件が経済(下部構造)を規定し、下部構造が上部構造たる宗教・哲学・芸術を規定するとする歴史理解だ。歴史は、生産力の発展によって進歩していくのであり、資本主義的生産様式は、生産力の発展により必然的に崩壊し、その後は社会主義に移行するという結論が導かれる。
資本主義はその成功の証である生産力の発展によって、より高次の生産様式である社会主義に移行すると考えるのであるが、マルクスは社会主義については具体的に語ってはいない。また、この理論が有効である条件として、「資本主義的生産体制の存在と人々が経済合理的に行動することを前提」(森嶋)としていた。この前提に従えば、理論は英国に該当するかもしれないが、他の国々、例えばロシアには適応できるのかという問題が提起される。森嶋は、マルクスはこの点において「慎重であった」としている。
しかし「マルクス主義」イデオロギーにおいては、史的唯物論は普遍性を持つとされた。資本主義後進国であるロシアで革命が起きた後は、ソ連が社会主義の総本山となり、革命を指導したレーニン(1870〜1924)の革命理論を入れてマルクス・レーニン主義と呼称した。マルクス・レーニン主義は、社会主義を世界に広めるために史的唯物論の適応の普遍化を主張した。これによってマルクスの思想とマルクス主義というイデオロギーの乖離が起き始めたと考えている。この点については、後編でもう少し考えたい。
同じようにイデオロギーに固執する傾向は、マルクス主義が大きな影響力をもっていた戦後の日本においてもみられた。たとえば社会主義国で、非民主主義的な一党独裁体制や個人崇拝の強制という現象の存在が報道されていた時も、マルクス主義イデオロギーの立場から段階論によって正当化するか、あるいは無視する傾向にあった。いわゆる思想の硬直化に陥っていたのである。一方で、批判を受けた資本主義は修正され、問題は(一時的にせよ)改善されたのである。
◆資本主義の反撃――修正資本主義
1930年代は失業と恐慌の時代であった。それは、マルクス経済学による搾取理論、労働者の窮乏化、資本主義的生産様式の崩壊と社会主義体制への移行という主張を裏付けるものと考えられた。そうした失業と恐慌の時代にジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946)が登場し、政府による経済への積極的介入によって有効需要を創り出すことで完全雇用が可能になるとした。ケインズ革命とも呼ばれ、古典的資本主義から修正資本主義への移行を意味した。政府は、労働の完全雇用と経済活動の安定化、所得分配の平等化を政策目標とし財政・金融政策を弾力的に運用するという現在の形に変化していくのである。米国のニューディール政策がその典型であり、第2次世界大戦を挟んで世界各国の政府が取り入れ、日本においても総需要管理政策として導入され戦後の経済成長を支えた。
資本主義は財政支出で経済成長をコントロールすることが可能になったのである。経済成長率が高ければ、分配のパイも大きくなり、配分調整がしやすくなる。日本の戦後の復興と高度成長期においては、労働組合は毎年給与のベースアップを勝ち取り、政府は、年金、医療保険などの社会保障の制度拡充に熱心に取り組んだ。こうした動きは、剰余価値を資本家が全部取りするのではなく、労働者に配分することによって資本主義の延命を図ったと解釈することができる。資本主義は問題に柔軟に対応して自らを変化させて生き延びたのである。
◆日本におけるマルクス主義イデオロギーの盛衰
●戦後という時代とマルクス主義の隆盛
日本におけるマルクス主義の隆盛は戦後という時代背景なしには理解できないであろう。戦後の日本は、マルクス主義が、世界で最も大きな影響力をもった場所であり時代であった。そう聞いても若い人はピンとこないかもしれない。戦後体制とは政治的には「55年体制」をさすが、これは保守合同した自由民主党と、左右両派が合流した日本社会党が、保守と革新、資本家・経営者対労働者、親米と反米というように、対立する争点を巡って対峙(たいじ)した体制であった。
その社会党の実質的な綱領である「日本における社会主義への道」(*注5)において、「日本資本主義は国家独占資本主義」だと規定し、「社会主義革命の必然性」が明記された。その実現は「議会を通じた平和革命」と条件を付けつつ、「福祉国家は、国民の選択を社会主義へと向かわせず資本主義体制にとどめておく資本の延命策」だと切り捨てている。外交・安全保障は反米(日米安保解消)、親ソ・親中の非武装中立路線であった。これが野党第一党の社会党の基本方針であり、選挙では多くの国民の支持を得ていたのである。
また、宇沢の前掲書で当時の状況をよく表している部分があるので引用する。「第二次世界大戦直後の時代、社会主義という言葉ほど魅力的な響きを持った言葉はなかった。貧困、搾取、不平等、文化的俗悪などという資本主義に内在する矛盾から解放されて、豊かさ、協同、平等、文化的高揚によって特徴づけられる社会主義こそ、新しい時代のすすむべき方向を示していると考えたものである」。
戦後の日本でマルクス主義が輝きを持っていた理由は何であろうか。米国の歴史家ジョン・ダワーは、「敗戦を経験した知識人にとって戦前の否定と戦後の積極的肯定という二項対立的解釈を受け入れるにあたって、マルクス主義が理論的基盤を与えてくれた。マルクス主義によれば、明治維新は不完全な革命であり、日本資本主義の前近代性こそが敗戦の原因となる。占領は「解放」であり、民主主義的社会への移行を約束するものとして歓迎した。そして、最終的な「社会主義社会への必然的移行」が実現されるのである。こうして社会主義国を日本が目指すべき「民主主義的で平等な社会」のモデルだという考え方が生まれた」としている(*注6)。
米国リベラルを代表する知性による日本のそれへの辛辣(しんらつ)な見方であるが、少なくとも貧困や格差といった社会問題に心を痛める良心的知識人にとって、問題の本質を論理的に説明してくれ、解決のための行動を起こす重要性を説くマルクス主義は魅力であったし、道徳的正統性を与えてくれるように思えたのは事実であろう。また、一般大衆にとっても、マルクス主義の「資本対労働」という階級対立概念は、実際は複雑で歴史的な要素を持つ政治と社会の関係性の理解を、単純化し分かりやすくしてくれたのである。
しかし、現実が示すのは、戦後の保守政権が社会保障制度充実に取り組み大きな成果を上げたという事実である(*注7)。日本の国民皆保険制度と国民皆年金制度は1961年には確立されていたし、公的教育制度の充実、公共交通機関の利便性は世界有数であろう。わたしが子供の頃の生活は今から思えば豊かではなかったかもしれないが、学校の他の生徒の家庭も似たり寄ったりだったと思う。実際、日本の貧富の格差は戦争の影響もあり今より小さく、国民の間での平等感が強かった時代であった。当時、社会主義国で高級官僚や党幹部が特権階級化していることが報道されており、平等で社会保障が充実した日本は、世界で最も社会主義が成功した国というジョークがよくはやった時代であった。
●マルクス主義イデオロギーの衰退
このように、実質的に社会主義的平等社会を実現していた日本でのマルクス主義の役割は、政府への批判の論理を与えてくれることにあっただけかもしれない。わたし自身もマルクス主義的論理を「日本はまだまだダメだ、遅れている」的な社会への皮相的批判手段として使っていた面があったと思う。しかし、会社に入って何カ国かの海外駐在を経験してはじめて日本の平等さや社会保障の充実を実感できた。その後任期を終えて帰国するたびに他の人との認識のギャップを感じるようになっていった。日本全体では、バブル以降の低成長時代になって初めて日本の良さが再認識されたように思う。欧米モデルへのキャッチアップが戦前・戦後を通じた国民的目標であり、進んだ欧米諸国と遅れた日本というステレオタイプ的な先入観にとらわれていて実態が見えなかったのではないだろうか。
しかし、ようやく日本の良さが分かってきた時には、それが失われつつあったのである。なぜなら、戦後日本は平等だけに満足せずに豊かさも合わせて追求していたからだ。豊かさは、敗戦による廃墟から立ち上がった日本人皆の願いでもあった。そして、高度成長で家計のストックが蓄積されると、だんだん格差が目立つようになっていった。資産価格の上昇で利益を得た人と、全く関係なかった人の差だ。バブル崩壊後の低成長への移行で、雇用格差が所得格差となって表面化していったことも、格差拡大に輪をかけた。
一方で、日本のマルクス主義は、1989年のベルリンの壁崩壊と東欧革命、それに続く91年のソ連崩壊によって急速に勢力を失っていった。政治的には「55年体制」は終焉(しゅうえん)し、社会党は以後分裂弱体化の道を歩んでいき、その流れをくむ社民党はほとんど存在感のない政党になってしまった。
松原はこうした日本の状況を「日本では、『資本論』不要の現実下で『資本論』が読まれ、必要となった時には専門家が退場したのである。この間の悪さはどうしたことであろうか」としている。
さて、政府による富と所得の再分配機能(累進課税、社会保障制度等)の整備により問題を緩和することで生き延びてきた資本主義は、現在、かつて無いほどの格差の拡大という問題に直面して苦悩している。その大きな原因に、ケインズ政策の行き詰まりによって、市場経済に委ねようという経済理論が勢力を増し、レーガノミクスやサッチャリズムといった政策に採用されていった影響がある。後編では、そうした新自由主義の台頭、資本主義の問題を解決すると期待された社会主義体制の崩壊の原因、マルクスの思想の今日的意味について考えていきたい。
<参考図書>
『経済学の考え方』宇沢公文著 岩波文庫、1989年
『思想としての近代経済学』森嶋通夫著 岩波文庫、1994年
『経済思想入門』松原隆一郎著 筑摩書房、2016年
『経済学の名著30』松原隆一郎著 ちくま新書、2009年
(*注1)マルクス主義と社会民主主義は社会主義に至る方法論が違うが、社会主義的政策で平等を目指すという意味で同じに扱った。なお、サンダースの主張をみると議会制民主主義に基いて社会主義を実現しようとする社会民主主義である。英国労働党の基本政策も同じであるが、コービンはその言動からマルクス主義者とみられている。
(*注2)宇沢弘文(1928〜2014):経済学者(数理経済学)、東京大学名誉教授。森嶋通夫(1923〜2004):経済学者(数理経済学)、LSE名誉教授。松原隆一郎(1956〜):経済学者(社会経済学)、東京大学教授。
(*注3)利潤率の長期的低下傾向とは、生産の大規模化や新技術の導入によって資本の有機的構成(機械設備(不変資本)の労働(可変資本)に対する比率)が高まると、剰余価値は労働によってのみ生み出されるので、利潤率は低下していくとするもの。なお、マルクスは技術革新による特別剰余価値(特別利潤)の理論を唱えたがそれ以上の発展を見ずに終わっている。
(*注4)マルクスは生前に『資本論』第1巻を出版したが、その死後に盟友F・エンゲルス(1820〜95)によって遺稿がまとめられて第2巻、第3巻が出版された。
(*注5)「日本における社会主義への道」は日本社会党の綱領的文書。1964年から1986年まで左派優位の中で党の基本方針とされた。(出所:Wikipedia)
(*注6)米国の歴史学者ジョン・ダワー(1938〜)の『敗北を抱きしめて』。本稿第13〜15回参照。なお、日本資本主義の性格を巡っては、1930年代以降講座派と労農派が対立した。講座派は、明治維新を不十分な革命として明治政府は絶対主義国家だと規定した。唯物史観によれば、次の段階である民主主義革命が必要で、その段階を経て社会主義革命が可能となる二段階論である。労農派は、明治維新をブルジョア革命と規定し、明治国家を近代資本主義国家として見たので、社会主義革命が可能となると主張した。論争は戦後も続き、戦後日本を「対米従属、大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の民主主義革命が必要とする共産党系と、日本は既に帝国主義と認識してそれを打倒すべきだとする社会党左派、新左翼に影響を与えたとされる。(出所:Wikipedia)
(*注7)これに関しては、戦時体制そのものに原因を見出す「総力戦思想論」という考え方がある。すなわち、戦後の社会保障制度や日本的経営の基本的要素は、総力戦という戦時体制の中で形成され、戦後は占領政策とも合致して生き残ったという説である。戦前の否定と戦後の肯定という二項対立的な見方を打ち砕く興味深い視点であるので、別の機会に詳しく考えてみたい。
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