古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆ 本稿の狙い
最近、続けて2本の興味深い映画を見る機会があった。『マルクス・エンゲルス』と『修道士は沈黙する』(*注1)である。時代背景や題材は違うが、ともに資本主義が生み出す貧困と不平等への批判をテーマとした映画だ。前者はカール・マルクス生誕200年記念作品と銘打たれ、若きマルクスが盟友フリードリヒ・エンゲルスと出会い、労働者の貧困、不平等への道徳的怒りをエネルギーに『共産党宣言』(1848)を書くまでを描いている。マルクスの思想は過去のものではないというメッセージが伝わってくる。
一方『修道士は沈黙する』の舞台は現代である。ミステリー仕立てで、バルト海の高級ホテルにG8(豊かな先進国の象徴)の財務相たちが集まり、途上国との格差拡大に結びつく新政策での協調を画策する。しかしゲストで招かれた修道士が狂言回しを演じ、良心に目覚めた一部の財務相が反対に回り新政策は不成立となる。資本主義が生み出す国際間の格差拡大は、神の意思に背くものだという主張が込められている。
2本ともヨーロッパの映画であり、資本主義の矛盾への問題意識の高まりが背景にあることが読み取れるが、もう一つ指摘しておきたいことがある。それは、資本主義が生み出す諸問題に対し「それは間違っている」と言い切って救いを与えてくれるのは、19世紀以来今日に至るまで「マルクス主義」と「宗教」だということである。しかし既に社会主義体制は失敗している。そして欧米社会でのキリスト教のような影響力を持つ神は日本には存在しない。わたしたちは何を頼ればよいのだろうか。
それを考える上で一つのヒントとなるのは、前稿で参考にした宇沢弘文(1928〜2014)の『経済学の考え方』にある「社会的共通資本」という概念である。本稿では、まず資本主義の行き詰まりと経済学の役割に関する宇沢の考えを紹介し、それが依って立つ制度主義経済学について考える。制度主義経済学は、資本主義でも社会主義でもない第三の道を目指しており、その根幹をなす概念が「社会的共通資本」である。「社会的共通資本」とは具体的に何か、現実性はあるのかについては次稿で考察したい。本稿では、宇沢の前掲書に加え『社会的共通資本』『人間の経済』を参考とした。なお、宇沢弘文は世界的な経済学者(数理経済学)で、環境問題など社会問題の解決に積極的に関与したことで知られる。シカゴ大学教授、東京大学名誉教授などを歴任した。
◆ 宇沢の問題意識と制度主義という考え方
●資本主義の行き詰まりと経済学の本来の役割
宇沢は、資本主義の矛盾を「自由」と「利益」の暴走という観点から次のように説明する。
「私的利益」の追求という「自由」が行き着いた先が1930年代の世界恐慌であった。それは新古典派的経済政策の破綻(はたん)を意味した。この資本主義の危機に政府の役割を拡大するケインズ政策が登場し、資本主義は「修正」され延命に成功した。しかし、1960年代のベトナム戦争泥沼化を背景にケインズ政策の行き詰まりが見えてくると、反ケインズ経済学(新古典派、マネタリズム、合理的期待形成など)が勢いを増し、市場機能の重視と規制緩和に代表される反ケインズ的政策が、米国や英国で導入された。中でもマネタリズム(物価や名目国民所得を決定する主要因はマネーサプライにあるとして政府の経済政策を貨幣供給に限定)を唱えたミルトン・フリードマンに代表される「市場原理主義」の考え方は、市場での自由な競争に任せておけば、生産、価格は適切に調節されるとして、政府による市場への介入や規制を行うケインズ政策を批判した。資本主義的な市場機構が円滑に機能するためには、すべての規制を撤廃すべきと考えるのである。こうして規制緩和の名のもと、市場原理主義的政策が米英を始めとする各国で採られ、所得と富の分配の不平等化が進んだ。
宇沢は、リーマン・ショックはこうした政策の延長上で発生したと考えており、金融工学を駆使して金儲けのために「計算上だけ成り立つ悪質商品(サブプライムローン)」を売りまくった金融機関のモラルの喪失を批判する。
「人間の(心をもった)経済学」こそ宇沢が考える経済学であり、現代の経済学における主流派である反ケインズ経済学は、前提条件が非現実的(常に合理的に行動するホモ・エコノミクス)で虚構性を持ち、「人間の心というものは考えてはいけないとされてきた」と批判する。
●ソースティン・ウェブレンと制度主義
数理経済学者として出発した宇沢がたどり着いたのは、制度主義経済学であった。制度主義経済学とは、経済の動きを社会制度の分析を通じて明らかにしようとする「社会経済学」の一つである。米国の経済学者ソースティン・ヴェブレン(1857〜1929)が制度主義の創始者とされる。
ヴェブレンは、生産の主体である企業は、新古典派が主張するような生産要素の集まりではなく、有機的構造をもち主体的行動をする経済単位ととらえた。一方で企業の目的は「利潤追求」であるので、「産業の本来的な生産活動と営利企業の利潤追求は乖離する」ことになる。この「産業と営利の乖離」に資本主義の問題をみたのである。そしてこの「産業と営利の乖離」が、資本市場、金融市場の高度化、効率化を背景に、市場経済制度を不安定化して金融恐慌や慢性的な経済停滞を招くと指摘した。ここから、資本主義という制度の矛盾は「資源配分の私的最適性と社会的最適性の間の乖離」を生みだすことが導かれ、政府の関与の必要性が説かれる。ヴェブレンが目指すのは、労働力の商品化によって人間の尊厳が侵される資本主義でもなく、市民的権利が抑圧される社会主義でもない第三の道であった。
ヴェブレンのいう「制度」は「文化」の一部であるから、制度主義は上部構造(政治・文化)が下部構造(経済)を規定すると考えるといっていいだろう。これに対し、マルクス主義では下部構造である生産と労働の関係が、上部構造である社会的、文化的条件を規定すると考える。また新古典派経済学は、こうした上部構造(社会や文化)から切り離して最適な経済制度を考えるのである。すなわち制度主義においては、国や地域によって社会構造や文化が異なるので、それぞれにふさわしい経済制度が必要だということになる。そして宇沢は、制度主義の根幹をなす概念が「社会的共通資本」だとするのである。
●社会的共通資本について
社会的共通資本は、「社会全体にとって共通の財産として、社会的基準に従って管理・運営される」べき財産を言う。具体的には、自然環境や社会的インフラストラクチャーに代表されるが、それだけではなく教育や医療や金融といった制度資本を含む点に特徴がある。教育や医療、金融は大気や水、交通機関と同じくらい重要なので市場機能に任せてはいけないと考えるのである。
◆ 社会主義でも資本主義でもない第三の道
前稿『資本主義の問題点の解決策――マルクスの思想』でみたように、資本主義に内在する貧困と不平等という問題の解決を期待された社会主義は失敗した。現実の社会主義体制は、計画経済の非効率性が国民生活を圧迫しただけでなく、一党独裁による議会制民主主義の否定、秘密警察による言論弾圧、個人生活の統制といった全体主義的体制を生み出して自壊したのである。
社会主義への幻想は消えたが、一方で資本主義の矛盾は拡大している。資本主義の根幹をなす市場経済制度は深刻な矛盾を内包しているからである。宇沢は、「実質所得と富の分配の不平等化、不公正化の趨勢は、累進課税制度のような平等化政策にもかかわらず止めることができていない。利潤動機が常に、倫理的、社会的、自然的制約条件を超克して、全体として社会の非倫理化を極端に推し進めたためだ」とする。さらに投機的動機が生産的動機を支配して、社会的、倫理的規制を無効にしてしまう傾向が強く見られるようになったことを危惧(きぐ)する。わたしたちに豊かさをもたらしてくれる資本主義は、貧困と不平等を生むという矛盾を制度そのものに内在しているのである。
宇沢はそうした現状認識にもとづき、資本主義でも社会主義でもない第三の道としての制度主義を提示する。それは人間のための経済学を目指すものであり、私有(資本主義)でも国有(社会主義)でもない社会的所有(共通資本)という概念を中心とした経済システムである。次稿では、「社会的共通資産」とは具体的に何か、現実の経済との調和を保ちながら理想の実現が可能かについて考えたい。
<参考図書>
『経済学の考え方』宇沢公文著 岩波新書、1989年
『社会的共通資本』宇沢公文著 岩波新書、2000年
『人間の経済』宇沢公文著 新潮新書、2017年
(*注1)『マルクス・エンゲルス(The Young Karl Marx)』は2017年製作の独・仏・ベルギー合作映画。ラウル・ペック監督。『修道士は沈黙する(Le Confessioni)』は、2016年製作の伊・仏合作映画。ロベルト・アンドー監督。
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