п»ї 『西太后——大清帝国最後の光芒』——中国の近代化の原点 『視点を磨き、視野を広げる』第12回 | ニュース屋台村

『西太后——大清帝国最後の光芒』——中国の近代化の原点
『視点を磨き、視野を広げる』第12回

12月 14日 2017年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

◆はじめに

前回まで日本の「近代」を考えてきたが、実は屋台村発起人の小澤さんから「日本の近代化はわかったがアジアの他の国についてはどうなのか」という質問を頂いていた。興味深い視点だと思ったが、私の知識の及ぶところではなく答えられずに終わった。ただ、中国については自分なりの答えを準備する必要があると感じていた。なぜなら、前稿の『日本の「近代」とは何であったか』でみたように、日本の「近代」は、中国抜きには語れないからであり、さらに当時の日中関係が現在につながっていると考えたからである。

中国も日本とほぼ同時期に近代化を目指した。19世紀初めの中国は世界のGDP(国内総生産)の約3分の1を占める超大国であり、日本との国力差を考慮すれば、近代化競争において有利な立場であったはずである。しかし、中国は後れを取り、この差がその後の日中関係を歪(いびつ)なものにしていくのである。その歪(ゆが)みが、不幸な戦争にまで発展して多くの犠牲者を出し、現在の日中関係に影を投げかけている。

もっとも中国は長い歴史と文化を誇る国であり、私の力量、知識ではその全体像を語ることは不可能である。しかし、最近『西太后——大清帝国最後の光芒』(加藤徹著、中央公論新社、2005年)という本を勉強する機会があり、本書を指針にして清朝末期に焦点を絞ることによって、中国の近代を形成した諸要素を探ることができるのではないかと考えた。前書において、日本の近代の原点を考察することで日本近代の歴史化を試みたように、本書において中国近代の原点に焦点を当てることで、史観にとらわれない中国近現代史の歴史化の糸口が見つかるのではないかという期待を込めつつ本稿をまとめた。

◆清朝という時代

本書を選んだ理由は、著者(*注1)の意図が「西太后を通して中国社会の土壌にまで目を向ける」ことにあるからである。本書では「現代中国人の歴史意識の原点は、中華民国ではなく一代前の清朝にある。現代中国の領土、民族構成、地域区分、言語、生活文化などは、清朝の遺産である」とし、現代中国の国家戦略を「世界における中国の存在感を、西太后以前に戻すことに尽きる」としている。現代中国の原点は清朝末期にあると考えるのである。私たち日本人にとって、中国という国は知っているようでいてその実態はよくわからないというのが正直な気持ちだろう。そして直接目にする爆買いや反日暴動のニュースに戸惑って中国という国は難解だと決めつけてそれ以上の理解を諦めてしまっているのではないだろうか。本書は、そうした私たちに現代中国理解の一助となる視点を提示してくれる。本書を参考に、清朝という時代と近代化の試み、日本との比較について考えてみたい。

●中国歴代王朝の特徴(清朝も継承)

・皇帝中心の中央集権制:広大な国土を治めるため強力な中央集権制を必要とした。皇帝の権力が絶対でその命令を実行するために官僚組織が整備された。官僚登用も選抜試験制度(科挙)による能力主義であった。

・中華思想:中国が世界の中心だという思想。朝貢貿易(属国が皇帝に貢物を献上し、皇帝が見返りを与える形)や冊封(さくほう:皇帝から恩恵として領地を認めてもらうこと)も中華思想に基づいた制度(*注2)。列強に付け入るすきを与えた原因の一つ。

・多民族構成と漢化:漢族、モンゴル族、満州族は歴史的に深い関係にあった。モンゴル族や満州族は中国全土を支配し王朝を建てたが、すべて漢化された。従って清朝を征服王朝と捉えるのは正しくない。むしろ他民族の血を入れることで、中国王朝は長期間に渡って強大な国力を維持し得たという見方が正しいのではないか。

・万里の長城のくびき(西方からの脅威):脅威は西方から来たので常に兵隊、物資を長城にはりつけておく必要があった。過去この脅威がないときだけ東方(海洋)に進出した(1回目は元寇、2回目は清の台湾占領、現在は3回目)。

・王朝300年の経験則:歴代王朝はいずれも概ね10代300年が限界であった。清朝も10代約270年で倒れた(*注3)。清朝末期はそろそろ王朝の終わりだという意識が広まっていた。

・二層構造の社会:一部の支配階級・知識層と圧倒的大多数の農民の二層構造であった。満州族の王朝ができても農民にとっては支配者の交代にすぎず、自分たちの生活は変わらなかった。歴史を通じて農民は無学・無力で常に虐げられた弱い存在であったが、限度を超すと農民暴動が拡大して王朝を倒した。

● 清朝の特徴(中国支配にあたって過去の王朝の歴史を研究し統治に生かした)

・洗練された統治システム:各民族の弱みを分析して利用した。漢民族は「お金」であり経済的自由を与えた。モンゴル族は「血筋」であり、政略結婚で縁戚関係を結んだ。チベット人は「宗教」であり、チベット仏教を保護した。こうして多民族国家を前提に精緻(せいち)で洗練された統治システムを作り上げた。チベット弾圧に見られるように漢民族中心主義を押し付ける現在の中国と違いがあった。

・後宮制度の改善:後宮の乱れが歴代王朝崩壊の原因になったため制度を改善した。后妃選定の対象は旗人(満州・モンゴル・漢人各八旗)の娘に限定(従って皇帝は3民族の混血であった)するなど、容貌、門閥で選ばない工夫をした。実際西太后のように中堅クラスの官僚の娘が多かった。この結果、歴代王朝と比べ清朝は名君を輩出しただけではなく、暗君もいなかったといわれる。全国から上がってくる公文書に目を通し決裁しなければいけない皇帝は、朝から晩まで執務を行ったといわれる。これほどまでに工夫をこらして体制維持に努めたが清朝は滅亡した。そこに歴史を探る意味があるのだと思う。

● 内憂外患の時代

・列強の侵略と内乱:清朝末期の19世紀は帝国主義の最盛期であり、列強の侵略によりアヘン戦争(1840)、第二次アヘン戦争(1856)、太平天国の乱(1851〜64)等が起きて内憂外患の時代であった。

・人口急増:宋、明時代に1億人程度であった人口が、平和が続いた清朝時代に4億人に急増した。産業革命を伴わない人口急増であり一人当たり農地面積が激減して農村の逼迫(ひっぱく)につながり、社会不安が増大した。

●近代化を目指した洋務運動

・相次ぐ列強の侵略と敗戦に衝撃を受けた清朝指導層は、富国強兵のために欧州列強を範として近代化路線に転換する。漢人官僚の曽国藩、李鴻章らが地方で組織した義勇軍の実力を背景に中央政権に登用され、彼らが中心となって「洋務運動(1860〜1894)」を推進した。武器製造廠(しょう)、造船廠、製鉄廠、陸海軍学校がつくられ、近代海軍が建設された。国力の大きさを反映しその規模は日本を上回るものであった。しかし、曽国藩も李鴻章も自分の地盤に軍需工場を造り、殖産興業を進めたのであり、結果的に地方軍閥の台頭を招き、その後の歴史で統一的な近代国家建設の障害となっていく。

・洋務運動はスローガンの「中体西用」に象徴されるように、中国の伝統的な体制を維持しながら、西洋の技術文明を利用することを目指した。このため、運動は一定の成果を挙げたものの、旧体制維持のための先進技術導入に留まり、広がりを持たなかった。日清戦争(1894〜95)の敗北によって洋務運動の失敗が明らかとなり、体制変革を含めた改革の動きが内部から出たが遅きに失した。辛亥革命は1911年であり、翌1912年に270年続いた清朝は滅亡する。

◆日本と中国の何が違うのか

●「中体西用」と「和魂洋才」

本書では、中国の近代化の遅れは「中体西用」という政策そのものの限界が原因とする。「中体西用」は中国の伝統的な体制を維持しながら、西洋の技術文明を利用することを目指した。一方日本は、「和魂洋才」を掲げ、日本古来の精神は大切にしつつも近代化のためには体制改革も行ったとして対比している。

中体西用を掲げた洋務運動は、国家に権限を集中し工業化を主導する一種の開発独裁であった。現在の中国の市場経済化も同じ手法を取る。本書では、洋務運動失敗の原因を、体制の改革なしに先進技術導入に依存した近代化手法の限界に求める。西太后に代表される頑迷な保守派の抵抗を失敗の原因とする見方が一般的であるが、本書はこうした解釈は中国共産党的史観だとする。なぜなら、洋務運動の開発独裁という手法に失敗の原因があるなら、現在の共産党主導の開発独裁も問題があるということになるために、責任を西太后に押し付けたと見るのである。

著者は、西太后を擁護しているわけではなく、時代感覚を持ち合わせていない普通の「おばさん」が独裁的権力をもってしまった悲劇ととらえるのである。中堅官僚の娘であった西太后が権力を握ったのは、清朝独自の皇女選抜システム(容貌ではなく普通の堅実な家庭の娘から選ぶ)によって后妃となったことから始まるが、その後は偶然の重なりだ。早すぎる夫(第7代咸豊帝)と長男(第8代同治帝)の死が彼女を権力者に押し上げるが、それは精密に作り上げられたシステムであるがゆえに、想定外(皇帝の早逝)の出来事によって綻(ほころ)びをみせ、ついに機能不全に陥ったという解釈だ。経済政策論で議論される「不確実性への脆弱(ぜいじゃく)性」を露呈したと分析するのである。(不確実性が生み出す)想定外の出来事に弱い現在の日本の状況にも通じる教訓と見ることができるかもしれない

さて、「中体西用」と「和魂洋才」の日中対比は両国の国民性の差を表しているようで興味深いが、中国の近代化の挫折は日本のそれとの比較でもう少し説明が必要だ。それは国民国家の建設という視点である。日本は欧米列強の脅威に直面して富国強兵が必須であることを痛感し、そのためには国民国家の建設が不可欠だと悟った。少数の支配層と大多数の民衆という旧来の国家体制では当時の帝国主義闘争に勝てず、国民軍の動員が可能な国民国家の建設が必要だと認識したのである。そして国のために戦う対価としての政治参加に道を開く立憲主義の導入を図ったのである。

これに対し、当時の中国は皇帝を頂点とする専制君主制度であり、制度そのものの大変革を伴わない限り、立憲主義の導入は不可能であった。また、明治国家が立憲主義の確立に成功したのは、江戸期の政治的・文化的基盤があったからであるが、清朝はそうした遺産を持たなかったし、後の世代に引き継ぐべき立憲主義の基盤になるような要素を育むこともできなかった。清朝末期に康有為らの体制改革運動が起こったが、弾圧され短命に終わっている(*注4)。本書では、既得権益層は圧倒的な存在感を持つ西太后の下で、「甘い汁の循環システム」(*注5)の恩恵を長期間享受していたため現状変革を望まなかったこと、李鴻章を始めとする漢人官僚は清朝滅亡を予想して自らの軍閥の力の温存を優先したことが、保守的体制の長過ぎる存続を助けた原因だとしている。アヘン戦争が1840年であり、それを聞いた日本の幕府や雄藩は強い危機感を持って30年後には明治維新を起こして体制刷新を実現する。しかし、中国では改革の動きはあったものの、清の統治システムが強力であったために、歴史的寿命がつきていた体制が、その後も長く維持されることになったのである。

●中国ナショナリズムの起源と日本

そうした中国に国民国家の意識を生み出すナショナリズムが芽生えたのは、日清戦争の敗戦であった。国民国家は、「国民」意識が必要だ。清朝は強大ではあったが前近代的な専制君主国家であったため、一般民衆に国民意識はなかった。それが生まれるきっかけが日清戦争の敗北であった。アヘン戦争には動じなかった人々が、同じアジアの日本に負けたことに大きな衝撃を受けたのである。日清両国は、明治維新後何度か戦争の危機があったが、外交的解決によって戦争を回避してきた(*注6)。日清戦争前も両国の指導層である明治天皇、伊藤博文、西太后、李鴻章は戦争に反対だったといわれる。それにもかかわらず戦争となるのであるが、本書では、清においては「反日愛国」を錦の御旗として政権を批判する動きが強まって、この「正論」に西太后でさえ抗し切れず開戦に至ったとしている。そして、これがその後現在まで続く「反日愛国」の起源だと指摘するのである。日本においても国民意識が形成された契機は、日清戦争の勝利とその後の三国干渉の挫折である。近代史の中での日本と中国の出会いが戦争によって交錯し、その結果が互いのナショナリズムを増幅して破局に向かったことは両国関係のみならずアジアにとって悲劇であったと言わざるをえない。

現在の中国は、社会主義経済の停滞に直面して政策を転換し、市場経済化を目指して経済的成功を収めている。中国が掲げる「社会主義的市場経済」は、共産党一党支配という体制は変えずに、市場経済システムを導入しようという試みである。「中体西用」を掲げた清朝時代の開発独裁の現代版のように感じるが、やがてその限界に直面するのであろうか。日本人から見ると、民主主義を伴わない市場主義(資本主義)は、経済的格差拡大への抑止が効かず、やがて崩壊するように思える。しかし中国から見れば、資本主義と(欧米流)民主主義の組み合わせが、先進国で多くの問題を引き起こしているということになる。自由貿易(グローバリゼーション)を最大限利用して経済力を高めつつ、国内政治は中国基準を貫くというダブルスタンダードを可能にするのは、民主主義を制限しても国民を統制するという国家主義的政策が可能だからである。そして国家主義はナショナリズムによって支持されている。中国が日本に後れを取る原因となった国民国家の建設にナショナリズムは不可欠の要素なのである。

現在の中国の国家の基軸は共産党である。共産党の正統性の基盤は日中戦争での勝利にある。中国は戦勝国であり、日本は敗戦国である(*注7)。中国にとって、その事実を反映した体制(戦後体制)を否定する動きは「歴史修正主義」として許容できない。清朝末期に近代化を目指しながら成し遂げられなかった悲願の国民国家を実現した中国は、国家の基軸としての共産党の一党支配維持が統一的国民国家存続の絶対条件とみなしている。従って、今後もかつて清朝が失った領土、地位の回復を目指して富国強兵路線を取らざるをえないだろう。その時日本は、自らのナショナリズムの高揚によって対抗するのではなく、米国との協力関係を維持しつつ大国となった中国とも上手に付き合っていくという困難な舵取りを、国家戦略の中心に置かなければならないのである。

<参考図書>

『西太后——大清帝国最後の光芒』加藤徹著 中公文庫(2005年初版)
『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』三谷太一郎著、岩波文庫(2017年初版)

(*注1)加藤徹明治大学法学部教授(1963〜)。専攻は中国文学で「京劇」の研究で知られる。

(*注2)朝貢貿易・冊封:朝貢貿易は、中華思想に基づき属国としての諸外国が中国皇帝に貢ぎ物を献上し、皇帝が見返りを与える貿易形式。中国が上位で対等の関係ではないので互恵ではなく与える価値の方が大きい。冊封は、朝貢の見返りとして皇帝から恩恵として領地を認めてもらうこと。欧米列強との関係も同様に対応したので、欧米諸国にとって中国貿易はメリットが大きかった。また清朝も戦争賠償で領地を割譲するのを冊封と見なして面目を保った。

(*注3)清朝は、第1代順治帝(在位1643〜61)から数えて第10代の宣統帝(1908〜12)まで続いた。第2代康煕帝(同1661〜1722)、第3代雍正帝(同1722〜35)、第4代乾隆帝(同1735〜96)と3代続けて名君を輩出した。西太后は第7代咸豊帝(同1850〜61)の妃。第8代同治帝(同1861〜74)は長男。

(*注4)第9代光緒帝(同1874〜1908)の支持の下、康有為らの「変法維新」は政治改革を目指したが、行き過ぎを警戒した西太后によって弾圧され失敗に終わった(戊戌の政変)。西太后はその後一転して西洋文化好きになり、「改革」政策を進める(「変法新政」と呼ばれ、憲法制定、議会制導入の約束をした)が西太后の死(1908)によって終わる。

(*注5)本書では、皇帝が「国家的祝賀行事や宮殿の造営など土木工事を起こすたびに大臣、官僚、下級役人、業者、現場監督、労働者などが「おこぼれ」の分配にあずかる「甘い汁の循環システム」が続く限り王朝の命運は保たれる」としている。

(*注6)1回目は、1874年台湾に漂着した沖縄漁民の殺害を理由とした日本の「台湾出兵」である。大久保利通が清に渡って直接交渉にあたり外交的に解決した。2回目は1886年の「長崎事件」である。清の北洋水師の軍艦が長崎に入港し、水兵と日本警察が衝突した。日本政府は、自立的経済発展の時期であり国力不十分と判断して開戦は回避された。3回目が1894年の朝鮮の宗主権を巡って起きた日清戦争である。

(*注7)中国共産党の歴史観は、「日本に侵略され植民地状態の中国が共産党の指導によって解放された」というものであり、中国(共産党)が勝者、日本(軍国主義者)が敗者ということになる。実際に日本軍と戦ったのは国民党という事実は覆い隠されている。

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