п»ї どの時代にもある「正義」の危うさ『記者Mの外交ななめ読み』第10回 | ニュース屋台村

どの時代にもある「正義」の危うさ
『記者Mの外交ななめ読み』第10回

9月 12日 2014年 国際

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間150冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング。

この夏は、「その人」のことが気になって第2次世界大戦に関する本を読んだり、調べたりした。その人は僕にとっていわば祖父に当たるが、血のつながりはない。どちらかと言えば妻方の祖父に当たるが、妻との血縁もない。

ラオスで生まれ育ち、難民として来日した妻と結婚する際、妻の両親や弟妹はまだタイ領内の難民キャンプで生活していて、式に参列することがかなわなかった。このため、彼女が来日当初から世話になっていたある日本人夫妻に式の当日、ぶしつけにも親代わりになってくれるよう頼み込み、妻からの感謝の花束を受け取ってもらった。「その人」とは、式の当日に妻の父親役を務めてくれた男性の実父のことである。

◆「父」と「祖父」にとっての戦争

妻が「日本での父」と呼ぶこの男性は今年、米寿を迎えた。先年、妻がやはり「日本での母」と呼んでいた奥さんに先立たれ、現在は関東近郊に一人で住む。妻が日本の習慣や生活に慣れないだろうからと心配し毎年、年の瀬にデパートに注文して重箱入りのおせち料理を届けてくれるなど、実の娘ように気遣ってくれている。

本格的な夏が始まる少し前に、われわれはこの「父」のもとを訪ねた。年に2、3度だが、食事をごちそうになりながら互いの近況を話したりする。今回は何の拍子か、「集団的自衛権」の話になった。安倍政権が集団的自衛権の行使を認めるために憲法解釈を変える閣議決定を行うことが決まりつつあった時期だった。

「日本は、どうも危ない方向に行っているような気がするね」。東大を卒業後、石油会社大手の役員を務め上げ、定年退職後はクラシックの演奏会に出かけたり、油絵の個展を開いたりするなど悠々自適な生活を送り、政治的な話題は意識的に避けてきたように思っていた。その彼が意外にも政治の話を持ち出し、安倍政権の危うさを口にした。

彼は終戦当時、陸軍士官学校に在籍しており、「戦争が長引いていたら間違いなく本土防衛のために駆り出され、戦死していた」と話した。戦争を体験した人にとっては戦中、戦後の辛苦の生活はだれも思い出したくないだろうが、彼がとりわけ戦争を忌み嫌う理由は、話の中で「父が沖縄で戦死した」と自ら告白した事実に起因するものだと思った。

その告白は、聞いているわれわれが深刻になりすぎないように努めてさりげなく話したような感じだったが、僕は帰りの電車の中でもずっと引っかかるものがあった。

帰宅後、沖縄で戦死した「その人」のことをインターネットで調べると、すぐに関連する資料が本人の顔写真や経歴とともにたくさん見つかった。その人は、陸軍士官学校から陸軍大学校に進んだ超エリートだった。

陸大は、1885年(明治18年)に第1期の卒業生を送り出してから、第2次大戦が終わる1945年(昭和20年)の第60期まで計3845人の軍事エリートが輩出した。沖縄で師団を率いていたその人は、米軍の苛烈(かれつ)極まる攻撃で敗戦がほぼ決定的となる中、部下たちに「自活自戦」を指示し自刃(じじん)したのだった。

僕はその人のおおまかな「輪郭」がわかったので、「(沖縄戦で組織的な戦闘が終わった)6月になると、毎年いろんな思いが去来するでしょうね」と、彼に手紙を書き送った。すると、すぐに返事が届いた。

69年も前のことを僕が細かく調べたことに少し驚いている様子だったが、これまで周りには一切話してこなかったこと、息子に誘われて今年沖縄を訪ね、慰霊碑の前で父をしのび、2人で「うさぎおいし かのやま」と唱歌「ふるさと」を歌ったことなどが書かれていた。

◆『戦陣訓』が「正義」だった時代

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」。1941年(昭和16年)1月、日中戦争の長期化で軍紀が動揺し始めた当時、東條英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範『戦陣訓』の一節。わずか11文字のこの一節で、日本軍の間で捕虜になることを拒否する思想が広まり、民間人を巻き込んだ集団自決などの一因となったといわれている。

当時の状況は想像するしかないが、『戦陣訓』を率先垂範する立場だったその人は、敗戦が決定的となる中で自決するしかなかったのだろうか。

当時のことをさらにくわしく知ろうと、『殉国―陸軍二等兵比嘉真一』(吉村昭、1991年、文春文庫)、『陸軍参謀―エリート教育の功罪』(三根生久大、92年、文春文庫)、『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利、2002年、文春文庫)、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(梯久美子、08年、新潮文庫)などを読んだ。

そして、都内にある史料館を訪ねた。九段の靖国神社の敷地内にある、戦死した人たちの遺書や遺品を展示した遊就館(ゆうしゅうかん)から、九段下にある戦中・戦後のくらしを展示した昭和館、そして戦傷病者の史料を集めた「しょうけい館」を回り、その翌日に新宿の新宿住友ビルの48階にある平和祈念展示資料館を訪ねた。

◆プロパガンダ映画と語り部お話会

遊就館には入り口の入場料無料のスペースに、第2次大戦中にタイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた泰緬(たいめん)鉄道で活躍した蒸気機関車や、零(ぜろ)戦の実物が展示されていて、にぎわっていた。さらに、入場料を払ってエスカレーターで2階に上がると、展示コーナーに入る前に映像ホールがあり、ここで『私たちは忘れない―感謝と祈りと誇りを―』と題する50分ほどのドキュメント映画が上映されていた。

「大東亜戦争は侵略ではなく、あくまで『自存自衛』のために隠忍自重しながらついに苦渋の開戦決断にいたった」。ナレーションの中で「自存自衛」という言葉が何度か繰り返されていた。客席は満員、立ち見の人もいた。映画が終わると、期せずして客席から拍手が起きた。こうした光景は、ほぼ半世紀前に分校に通っていた小学生当時、町なかの本校の講堂であった映画鑑賞会に参加し、ちょうどそれが終わった直後のような感じだった。

まさしくプロパガンダ映画である。ただし、個々の思想信条の在処(ありか)や本能的な好き嫌いは別にして、終戦記念日のこの時期に靖国神社に参拝したり遊就館を訪れたりする一般の人たちが予想以上に多いことがわかったのは、一定の収穫だった。

平和祈念展示資料館では、「語り部お話会」に出席した。この日の語り部は、1933年(昭和8年)に満州(現・中国東北部)・奉天(現・瀋陽)で生まれ、奉天で終戦を迎えた後、46年(昭和21年)9月に葫蘆島(ころとう、現・遼寧省葫芦島市)から長崎県佐世保港に引き揚げてきた81歳の男性だった。父親はソ連軍によってシベリアに抑留され、母親は病死。その後、妹と孤児院で生活していたこの男性の話は、半藤一利の『ソ連が満洲に侵攻した夏』に出てくる光景に、色や音、そして臭い、さらにいまなお悪夢にうなされる夜があるという彼の悔悟(かいご)の思いが加わった壮絶な内容だった。

◆「正義の戦争」などあるはずはない

翻って、右傾化が指摘される日本。そしてそれを支持するメディアと、反対するメディアの読者をまるで無視したアホらしくなるような容赦無用のたたき合い。そんなことをやっている場合か、と言いたい。「刺し合い」状態にあるメディアの現状を一番喜んでいるのは、安倍晋三首相かも知れない。

安倍首相は9月6~8日のバングラデシュとスリランカの訪問で、第2次政権で訪ねた国は計49カ国に達し、過去最多を更新した。「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を掲げる首相にとっては、さらに自信を深めるメルクマール(指標)の一つになるだろう。

しかし、中国と韓国という最も重要な近隣国を外した「外交軌道」を回ってばかりでは、地球儀を俯瞰したことにはならない。外交的には日本を外して、安倍政権と同じようなことをやっている中韓も同じ過ちを犯していることになる。日中韓3カ国とも、いまのその外交姿勢は明らかに東アジア地域の利益に反するからである。

歴史や領土の問題は、いまに始まったことではない。その問題の本質がどこにあるのか、「食わず嫌い」を慎み、自分の考えと反するものに敢えてアクセスする柔軟さが求められる時代だ。そして、いつの時代にも、「正義の戦争」などあるはずはないことを肝に銘じるべきである。

この夏、「その人」のことをきっかけに戦前、戦中、戦後の歴史をたどりながら、改めて心に強く誓ったことは、私たちは2度と同じ過ちを犯してはならないということだ。「正義」といえば聞こえはいいが、「正義」はいつの時代も移ろいやすく、危うくもろい。「国と国との戦いにおいてそれぞれの国のかかげる『正義』の旗印は、つまるところ国益の思想的粉飾にすぎないのである」(半藤一利著『ソ連が満洲に侵攻した夏』のあとがきから)。

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