那須圭子(なす・けいこ)
フリーランスのフォトジャーナリスト。1960年、東京生まれ。山口県在住。20年間、山口県上関町に計画される原発建設に反対する人々をカメラで記録してきた。それを知らない占い師に「あなたは生涯放射能と関わっていく」と言われ、覚悟を決めた。人間より、人間以外の生きものたちが好きな変人。
◆一次産業だけでやっていけるのか?
山口県上関町(かみのせきちょう)祝島(いわいしま)。対岸約3.5キロの入り江に計画される中国電力の上関原子力発電所の建設に31年間反対し続けている島として知られる。なぜお年寄りばかりのこの小さな島が、国と電力会社という巨大なカネと権力に屈することなく、長く抗(あらが)うことができたのか、カメラで彼らの姿を記録しながら、いつも私は不思議に思っていた。
ところがある日、その答を導くヒントが思わぬところで見つかった。
「農業、漁業の一次産業だけで、これからやっていけると思うんですか?」。中国電力社員のそのせりふは、祝島の人々が一番大切にしているものを踏みにじった。農業と漁業は島びとの誇りでありながら、それに対する一抹(いちまつ)の不安も抱き始めていた頃でもあったので、彼らの悔しさはなおさらだった。
場面は2009年9月、原発建設のために必要な埋め立ての海域を示す9基の巨大な灯浮標(ブイ)を設置するため、それらを港から搬出しようとする中国電力の船と、それをさせまいとする祝島の人々の船が、海の上で対峙(たいじ)した時のことだ。
原発建設のための埋め立て海域を示す灯浮標(ブイ)を設置しようとする中国電力と、それを阻止しようとする祝島の人々は、海の上で対峙した
「地元住民のみなさまのご理解を得た上で、ぜひとも私どもに上関原子力発電所を建てさせていただきたい」との日頃の言説とは裏腹に、つい電力会社の本音が出たのだろうが、このせりふを投げつけられた祝島の人々の怒りは、まさに頂点に達した。
「あんたらに言われとうはないわ!」と漁師が叫べば、「帰ってください! わたしらの海から出て行ってください!!」とおばちゃんたちの悲鳴にも似た声が続いた。ところが中国電力の船から投げかけられた次のせりふは、「原発ができれば、お子さんもお孫さんも帰ってきますよ。働き口ができますよ」という、島の人々にとって更に屈辱的なものだった。
「嘘ばっかりつくけぇ、あんたらのことは信じられません!」。祝島の女性たちの怒りが爆発した
その時から祝島の人々は、24時間体制でブイが搬出されないよう見守った。それからひと月経った頃、「台風接近にともない、今日の作業は中止します」と発表しておきながら、中国電力は別の場所からブイ2基をひそかに運び込み設置した。
その3週間後、夜明けとともに起きだした祝島の人々の目前を、何か大きなものを積んだ巨大な台船が7隻、まだ薄暗い海の上を進んで行ったという。それが残りの7基のブイだった。だまし討ちのように、見守っていたのとは別のブイ9基が、別の場所から運ばれ設置されたのだった。
これはなんとも後味の悪い出来事だったが、私にはひとつ収穫があった。ずっと不思議に思ってきたことと、あの日中国電力の社員が船上から言い放ったせりふが、頭の中でらせん状に渦巻いて、ひとつになり始めたのだった。
◆米さえあれば生きていける
その頃私は、原発問題とは別に島の人たちの生活の撮影も始めていた。
祝島の集落は、連絡船の船着き場のある島の東北部の斜面に集中している。船着場から海沿いに南へ向かう道は、数年前まで舗装されておらず、片側は山の斜面、片側は落ちれば海まで真っ逆さまという危なっかしい道で、行き交う人もほとんどいない。
その道を船着場から歩き始めて1時間余り、目の前がぱっと開け、巨大な棚田が忽然(こつぜん)と姿を現す。平萬次(たいら・まんじ)さんの棚田だ。80歳の平さんは、毎日欠かさず集落から、耕運機の後ろに荷台をつないだティラーに乗ってこの棚田に通っている。
棚田と聞いて私が想像したのは、なだらかな斜面に扇形に広がるのどかなものだったが、眼前にそびえるのは高低差およそ40メートルの垂直に切り立った6段の棚田だった。
石垣のひとつひとつの石は、大きいもので直径2メートルもある岩である。それを祖父の亀次郎さんと母と平さんの3人で切り出して、運んで、積んだ。30年かかったという。
「人間、米さえあれば生きていける」というのが、祖父の口癖だった。「子や孫のために」、その一念で祖父は石を積み続けた。平さん自身も、中学生になると毎日祖父を手伝って石を積んだ。
平さんの米作りも、もう50年以上続いている。最近は、稲刈りが終わる頃になると「さて来年はこの棚田、どうするかなぁ」とつぶやいて気をもませるが、春になるとまた田植えの準備を始めて、安心させてくれる。
実りの秋、はざ掛けを終えた見事な棚田の石垣を見上げながら、私は長年の疑問に対する答えがここで見つかったことに少し驚いていた。
この石垣のようなゆるがぬ暮らし…自分で食べる物を自分で作る、あるいは獲ることができる…これ以上の究極の自立はない。それが31年間、原発の誘惑を拒み続けた。ここに私を導いてくれたのは、皮肉にも中国電力社員のあのせりふだった。
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