п»ї オランダ再訪で感じたこと 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第104回 | ニュース屋台村

オランダ再訪で感じたこと
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第104回

10月 06日 2017年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住19年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

オランダは江戸時代の鎖国下で、欧州諸国の中で日本と唯一外交関係を維持した国である。オランダを通じて当時日本にもたらされた学問・技術は「蘭学」と呼ばれ。後の開国・明治維新に向けての下地を準備、形成することとなった。オランダは日本にとって身近に感じさせるが、実は私達はあまりオランダのことをわかっていないようである。この夏、30年ぶりにオランダを訪問した。

◆17世紀に造られた美しい街並み

アムステルダムに行かれた方なら誰もが皆、あの美しい街並みに魅了されることであろう。街中にはりめぐらされた運河と、運河や道沿いに建てられた4、5階建てのデタッチ式のビル。ヨーロッパには美しい街並みの都市が幾つも存在する、12世紀から16世紀に建てられたベネチアやフィレンツェなどイタリアの諸都市の街並み。同時期ではあるがイスラム形式が交じりあったトレドなどスペイン南部の都市。ナポレオン帝政下の19世紀に整然と造られたパリの街並みも素晴らしい、しかしアムステルダムの街並みだって決してこれらに劣らない。この街並みが造られたのはオランダが全盛であった17世紀のことである。

オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの3カ国を指すベネルクス地方は、中世には神聖ローマ帝国の領域で毛織物産業や海上貿易で栄えていた。オランダ第2の都市があるロッテルダムは現在でもヨーロッパ第1の港である。15世紀末にはベネルクス地方はスペインを本拠とするハプスブルク家の領土となった。1517年にルターによる宗教改革が始まると、現在のオランダはカルヴァン派が多数を占めることとなる。宗主国スペインによる重税政策ならびにカトリック改宗の強制策に対抗するため、1568年にオランダはスペインとの間で独立戦争を起こす。この独立戦争は後にカトリック対プロテスタントという構図の宗教戦争となり、最終的にはハプスブルク家のスペイン・オーストリア対フランス・オランダへの覇権争いの戦いに変遷していく。1648年、内政不干渉に裏づけられた国家主権の考え方を初めて認めたウェストファリア条約により、オランダは正式に独立を勝ち得た。

一方、東南アジアに目を向けると、インドネシアとの香料貿易で独占していたポルトガルが1580年にスペインに併合される。その間隙(かんげき)を縫って東南アジアに進出したのがオランダとイギリスである。1602年に世界で初の民間会社であるオランダ東インド会社がジャワ島に拠点を設立すると、1623年にはイギリス東インド会社を打ち破り、この後イギリスはインド攻略に専念する。香料貿易に支えられたオランダは1600年頃からイギリスに経済力で抜かれる1780年頃まで、世界で最も繁栄した国となった。そして、この頃に建設された街がアムステルダムである。400年以上前の当時のオランダの栄華がうかがえる美しい街並みがアムステルダムに残っている。

少し余談になるが、1623年にオランダがイギリスをインドシナから駆逐したが、そののち次第にオランダの国力が落ちていった。こうしたパワーバランスの変化によって、タイは植民地化をまぬがれ、独立を保つ要因になったと思われる。18世紀に強国にのし上がったイギリスがインドを足場に中国に侵略。タイに大きな注目が集まらなかったことがタイに幸いしたのではないかと私はひそかに思っている。

◆鎖国下の日本と交易

ここで少しオランダと日本の関係に言及したい。2015年11月、私は「ニュース屋台村」の執筆陣に加わっていただいている迎洋一郎さんのお世話で、長崎県の三川内焼(みかわちやき)の窯元を訪問。その翌週は平戸・長崎を訪問した。その時に平戸・出島で勉強したことを以下のように書き留めた。

「まずは平戸と出島についてである。1543年、ポルトガルは種子島に到来すると1550年には平戸に商館を設け、日本との間で南蛮貿易を始めた。更に1584年スペイン、1609年オランダ、1613年イギリスと次々に西洋諸国が平戸に商館を開設した。

当時、香料を中心とした東南アジア貿易や生糸などの東アジア貿易はポルトガルの牙城(がじょう)であった。ところが1580年にポルトガル本国がスペインに併合されてしまったこと、更には江戸幕府によるキリスト教禁止令などによりポルトガルはその覇権をオランダに奪われていく。オランダの優れていた点は、現在のインドネシアにオランダ東インド会社を設立し、中継貿易を行ったことである。

具体的には日本から銀を輸出し、それを元手にインドで綿花や香辛料を買い、それを中国に売りつける。更に中国からは生糸や絹織物を日本に持ってきて銀を手に入れたのである。

ポルトガルやイギリスが自国製品の売りつけに注力する中で、オランダはアジア内の中継貿易を行った。そしてこうした背景に「厳しいカトリック教国であったスペインやポルトガルの迫害から逃れたユダヤ人」がオランダに渡り、ユダヤ人としての商才を発揮したとのことにある。その頃からユダヤ人の影を日本で感じるのである。誠に歴史は興味深い。無理に自国商品を売りつけることなく顧客ニーズにあった商品を仲介するユダヤ人の商才こそ、今の日本人に必要なものではないだろうか。

1641年になるとオランダ商館が平戸から出島に移され、江戸幕府の鎖国体制が完成。あわせて1688年には唐人屋敷を設け、中国との貿易も幕府の管理下に置かれた。

日本と中国との間の直接貿易が活発化すると、中国製の生糸や絹製品が直接中国から輸入されることとなる。日本向けの輸入商品を失ったオランダは、これに代わるものとして砂糖の輸入を始める。」(以上2016年2月5日付 ニュース屋台村「長崎紀行」より抜粋)

◆多様性を共存させるための理念

今回オランダを訪問してオランダ人の気質についていくつか気づいたことがあったが、今まで述べてきたオランダの歴史と深く結びついている。まず第1に語学能力の高さである。EU(欧州連合)統合後のヨーロッパは各国間の交流が進み、バイリンガルの人が多くなっている。しかしオランダ人は他の国の人と比較にならないほど何カ国語もあやつる。

自国語であるオランダ語のほか、英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語・イタリア語ぐらいは当り前のようである。オランダ人の観光ガイドは、参加する観光客の国籍によって流暢に4カ国語ぐらいで説明を行う。隣国であるドイツやフランスの言語が話せるのは何となくわかるが、なぜ英語やスペイン語が話せるのか観光ガイドに聞いてみた。すると「英語とスペイン語が話せれば世界の2/3の人達とビジネスが出来る。オランダ人にとっては当り前のことだよ」という答えが返ってきた。「世界中とビジネスすることが当り前だ」と思っているオランダ人にびっくりした。島国に引きこもりになっている日本人とは大きな違いである。

次にびっくりしたのが、寛容性と理念の使い分けである。オランダでは麻薬は合法である。街中でたばこを吸っている人も多くいる。「身体に悪いから」などと言って、国が個人に干渉することはない。民族も多種多様に受け入れている。宗教についても同様である、オランダの東インド会社がイギリスのそれよりも商才に長けていたのは、スペインの宗教弾圧から逃れたユダヤ人の活躍によるものだといわれている。またスペイン・ポルトガルの宣教師によるカトリック布教活動を禁止した江戸幕府がオランダだけに貿易を認めたのは、キリスト教の布教活動に執着しなかったからである。江戸幕府がオランダを唯一の貿易国としたのはそれなりの理由があることで、それがオランダの歴史に裏付けられていると考えると面白い。

一方で多民族、多宗教であるがゆえに多様性を共存させるための理念の高さが必要になってくる訳である。オランダ人は環境問題について意識が高く、まずは自転車を利用する。どこまでも続く平原であるからこそ自転車の利便性がある。どんな田舎町に行っても自転車道が整備されており、歩行者より自転車優先の趣きがある。現に横断歩道を渡る際も自転車は歩行者に対して止まってくれない。

電気自動車の普及率もオランダはノルウェーに続いて世界第2位である。アムステルダムの街中を歩いていても至る所に電気自動車用の充電器が設置されている。商才に長けていながら経済合理性だけではないオランダ人の生き方には考えさせられるものがある。

我々にとってオランダは近くて遠い国である。日本の西洋化の基礎はオランダなくしてありえなかった。しかしそのオランダは、多くの点で日本と大きく異なっている国である。オランダの特殊性によって日本の近代は救われたといっても過言ではない。しかし私達はそんなオランダのことをどのくらい知っているのだろうか? 我々もオランダ人に学び、他国の人と交わり、他国のことを知る努力が今まさに必要である。

アムステルダム①

アムステルダム②

アムステルダム③

アムステルダム市内の街並みと運河のようす=どれも筆者撮影

※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第62回 長崎紀行
https://www.newsyataimura.com/?p=5124#more-5124

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