п»ї クラシック少年だったころ『タマリンのパリとはずがたり』第3回 | ニュース屋台村

クラシック少年だったころ
『タマリンのパリとはずがたり』第3回

5月 09日 2014年 文化

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玉木林太郎(たまき・りんたろう)

経済協力開発機構(OECD)事務次長。35年余りの公務員生活の後、3度目のパリ暮らしを楽しむ。一万数千枚のクラシックCDに囲まれ、毎夜安ワインを鑑賞するシニア・ワイン・アドバイザー。

パリでの私の勤め先(OECDという国際機関)に日本が加盟してから、今年で50周年になる。当時の写真が展示されたり、総理が来訪されたりと、こちらではなかなかの盛り上がりで、私もやや回顧モードである。

50年前といえば1964年(昭和39年)、新幹線が開業しオリンピックで沸いた年だが、私自身はまだ東京・新宿の小学生だった。しばらくして中学に進むころにクラシック音楽に関心を持つようになったのだから、私のクラシック歴(聴いて楽しむだけだが)も長い。半世紀近く飽きずに続いた趣味はこの他には将棋くらいだろうか。音楽を聴くのに費やした時間とエネルギーを学校の勉強に向けていたら、どんな立派な人になっていただろう。

◆小遣い2000円 買えぬレコードに憧れと恨めしさ

最初に手に入れた(そして今でも大事に持っている)レコードは(もちろんLP)、スメタナの『わが祖国』とアルゲリッチ(当時はアルゲリッヒと表記していた)のピアノ曲集。いずれも嫌々通っていたピアノの先生から頂いたもの。前者はターリッヒ指揮チェコ・フィルのモノラル録音だが、『チェコ・フィル来日記念』とあるから、69年のノイマンとの2度目の来日の時のものだろう(この時は名古屋でも演奏会を開いている)。地図帳を探してもモルダウなる川が見当たらず、余程小さな川に違いないと思った記憶がある。

アルゲリッチのリサイタル盤は何回聞いただろう。今でもスケルツォの3番や舟歌を聴くと中学生に戻ってしまう。ジャケットは青い服を着て茶色い髪のアルゲリッチ(まだ10代だ!)だったが、すぐ後(70年)の初来日を東京・新宿にあった厚生年金会館に聞きに行ったら(もう2度目の結婚をして子供もいたのだから当然だが)黒い服・漆黒の髪の大人の女性が現れて驚いたものだ。

小遣い2000円のクラシック少年だけでなく、誰だってレコードを次々と買えるわけではなかった。オペラの全曲などとても無理。CD以前の60年代末から70年代に発売されたレコードの記憶は克明に残っていて、今でも憧れと(手に入れられなかった)恨めしさの両方の思いがある。

ジャケットも日本盤独自のものがたくさんあり、その左側にタスキが被さっていた。レコードのタスキには、レコード会社苦心のコピーが縦書きに―これでレコードのタスキがなぜ日本独自のものなのかなぞが解けました!―されているばかりでなく、何枚か集めて送るとTシャツがもらえる特典券なんかも付いていた。ポリーニのエチュードが『これ以上何をお望みですか?』のセリフとともに売り出されたのは72年。友達からショルティの『大地の歌』を借りたら、書家による雄渾(ゆうこん)な表題一行だけのジャケットに音楽以上のインパクトがあった。

◆若者の心をあくまで自由にしたパリの空気

高校・大学と進むうちにN響や巌本真理(懐かしいでしょ)などを通じて音楽の世界が広がっていったが、そのころの(少なくとも私の周りの)クラシックの世界は、今思えば因循と言ってもいいような不思議な世界だった。

説明しにくいが、ベートーヴェンはロマン・ロランと、モーツァルトは小林秀雄と共に語られ、そうした臭みの無い吉田秀和の評論がとても新鮮だった時代だ。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏は「幽玄」、ワグナーの『指輪』は「クラシック音楽の奥の院」などと書かれていたものだから、気の弱い私なんぞはそうした「深い」「精神性の高い」音楽はよっぽど勉強し修業を経てからでないと手の届かぬものと敬して遠ざけていた。

20代半ばにパリで暮らすために乗った飛行機で、隣り合わせたのが(一目でわかります)武満徹。おそるおそる言葉を交わしただけだが、ラ・ロッシェルに行くという高名な作曲家が食べたり寝たりしているのを見たことが、それまでとても抽象的・精神的だったクラシック音楽の世界を人間の活動の一部として理解するための第一歩だった。

そしてパリの空気は若者の心をあくまで自由にした。年に200回、オペラ座から小さな教会まで至る所で音楽を聴き、ショパンやリストの街を歩き、音楽は生活の一部になっていった。

私はこうして頭でっかちのクラシック少年から卒業したのだ。

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