森下賢樹(もりした・さかき)
プライムワークス国際特許事務所代表弁理士。パナソニック勤務の後、シンクタンクで情報科学の世界的な学者の発明を産業化。弁理士業の傍ら、100%植物由来の樹脂ベンチャー、ラストメッセージ配信のITベンチャーなどを並行して推進。「地球と人にやさしさを」が仕事のテーマ。
「ニュース屋台村……」。本当はニュースにちなんだ話をする場所です。でも、知的財産は特殊な世界です。ニュースよりも、まずはその「得体の知れないもの」の雰囲気を知っていただく場にしたいと思います。
前回、なぜ日本で膨大な特許出願がなされてきたか、日本人の気質をもとに説明をしました。では、それだけ多数の特許出願でこの国はどうなったのでしょうか。
◆特許法
特許法の第1条(目的)には、
この法律は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的とする。
とあります。つまり、「どんどん発明をしなさい、そうすれば産業は発達しますよ」と。
そして日本企業は長年大量の特許出願をしてきました。さて、産業は発達し、国力は強くなったのでしょうか。
スイスのビジネススクールであるIMD(国際経営開発研究所)は、毎年各国の国際競争力を評価し、発表しています。それによると、2015年の総合ランキングは、1位米国、2位香港、3位シンガポール、……10位ドイツ、19位英国で、日本はさらに後、27位です。なちみに、80年代後半から90年代前半にかけて日本は1位でした。
日本は1位だった頃だけでなく、そのあとも2005年まで世界一の特許出願件数を誇ってきました。もし特許出願がまっすぐに産業の発達に寄与するのであれば、90年代中盤からの日本(技術立国です)の国力の急落は不思議です。特許法は一番大事な第1条でウソを言っているのでしょうか。
この図、日本製品の国際シェアの推移です。
これを見たとき衝撃を受けました。製品がはじめて世に出るとき、日本のシェアはダントツで世界一です。当然です。最初は日本から出るのですから。しかしそのあと急落。日本がずっと世界一の特許出願をしてきた期間の出来事です。
◆誰のせい?
一体、だれのせいなのか。
特許庁?
弁理士?
通産省・経産省?
企業の知財部?
どれも少しずつ正解かもしれません。(あ、ここに「政治家?」と入れなかったのは、わかりっこないから免責してあげたのです。) しかし、それよりも、日本の特殊性と、特許権の効力範囲が「ニワトリとタマゴ」のようにややこしい関係で絡み合っていて、それが原因なのです。難しいけど、説明してみましょう。
まず、「特許権」。憲法で規定される権利であり、憲法は各国で決まっています。ほかの国に影響しません。日本の特許権の効力は当然日本国内に限られます(国際特許という言葉がありますが、それは日本で出願したらほかの国でも同時に出願したとみなされる、ということであり、権利はあくまでも国別です)。
つぎに、「日本が特許出願数で世界一」というのは、正確に言うと、日本国特許庁に出願される特許出願の数が世界一ということで、かつ、日本国特許庁に出願する人は、大半が日本企業なので、「日本企業の特許出願数は世界一だった」と言うことになります。日本人が日本で大量の特許権を発生させた、ということです。
実例で言いますよ。
日本企業AがLCD(液晶ディスプレー)の発明をしました。そして日本で特許出願をし、日本で特許権を得ました。その特許権は日本で有効なので、日本では他社BはそのLCDを作れません。AとBがライバルなら、Aはこの特許権で一歩先んじることができます。一方、Bだって黙っていません。報復に次ぐ報復で日本における特許出願の数がふくれあがります。
ここに日本のひとつ目の特殊性があります。製造業、とくに先端技術のライバルは、だいたい日本にいたのです。だから争いは日本の中で発生し、わざわざ外国で特許をとるなんてことにならない。敵は目の前です。
ふたつ目の特殊性。日本は十分に大きな市場でした。1億人ですから、まずは国内市場でいいのです。外国で特許をとるなんて二の次になります。この構図が70年代から40年間も続きました。日本企業はひたすら国内のライバルをターゲットに特許網を構築したのです。各国の企業の海外出願率(自国への出願数に対する外国への出願数の割合)において、日本はずっと米国や欧州の半分以下でした。
◆木を見て……
日本はまさに世界の教師でした。日本企業どうしが特許で縛り合っている間、海外の企業は、日本企業の公開特許公報(特許出願は審査状況に関係なく出願から1年半で公開される)を見放題、まねし放題でした。日本企業が外国で特許出願しない以上、外国では特許権も発生しえないのですから、外国ではパブリックドメイン(共有財産)になります。
目の前の敵と近視眼的に戦っている間に、遠いところで将来のライバルがただでどんどん力をつけていました。
整理します。
日本は技術力で進んでいた
→ ライバルは日本の中にいた
→ 特許は日本でとればよい(日本は国内市場も大きい)
→ 日本国内に大量の特許権が生まれた
→ 日本企業どうしが互いに製造・開発・販売を縛り合った
→ その間、外国のライバルたちが「ブラインドサイド」を走り抜けていった……
気づいたときには、日本製品の世界シェアはぼろぼろです。
リーマン・ショックの頃から、特許庁は「グローバル出願率を高めて下さい」と企業に指導するようになりました。日本ではなく、外国で特許をとってください、ということです。
大企業を中心に、日本国内の特許出願を減らし、外国出願を増やす取り組みがなされるようになりました。歓迎すべき傾向ですが、もっと早く気づくべきでした。特許は出願から20年の寿命をもちます。発明が生まれてから主力製品に育つまで数年、長いと10年、15年かかることもあります。特許出願の戦略変更は早くても数年先でないと成果に結びつきません。
これだけ大きな国です。氷山を見つけて舵を切ったものの、間に合わず衝突した豪華客船を思い出します。
なお、2002年、小泉内閣は「知財立国」なる言葉を発しました。
あれはなんだったのでしょうね。
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