記者M
新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間100冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング。
タイの首都バンコクの混乱が止まらない。日本の新聞やテレビを見ていると、「常態化」「日常化」などという言葉が据わりのいい表現になってしまった。政治、経済、社会の領域にとどまらず、現地日本人社会にまで影響が及ぶ国際ニュースがしばらくなかった特派員たちには、まさに恵みともいえる。ただ、その報道ぶりを見ると、どれもほぼ同じ内容で深く掘り下げたものはなかなか見当たらない。「タコつぼの中にいると周りが見えなくなる」といわれるが、混乱のさなかにある現場にいると、一触即発の危機に神経過敏になるのか、いま起こっていることだけに目をとらわれがちで、揚げ句の果てには「たら」「れば」で危機感をさらにあおり、大局観が失われてしまうようだ。
かつて、同じような現場で同じような体験をした者として、「さもありなん」と思いつつも、いまの日本での報道ぶりを見ていて、タイに住んだことがある者ならおそらくはだれもが感じているだろう「物足りなさ」「食い足りなさ」、そして「違和感」を、自戒とともに感じている。同じ隊列の末端にいる者として「天に唾するもの」と言われかねないが、最近のバンコクの混乱に関する日本での報道ぶりについての違和感の正体を突き詰めてみたい。
◆タクシン政権の功罪をどう評価するか
混乱を招いている対立の基本軸は、「タクシン派」対「反タクシン派」ではっきりしている。それぞれのグループの成り立ちや構成する階層などについてはこれまでの報道で書き、言い尽くされているのでここでは書かない。
ただし、その報道ぶりを見ると、「タクシン派」が悪で、「反タクシン派」が善という印象を受けてしまう。なぜか? ポピュリズム的な政治手法のタクシン元首相が生んだ金権政治には、田中角栄元首相の時に日本のメディアが学習した効果としてダーティーなイメージが付きまとう。だから、首都を大混乱に陥れている「反タクシン派」を勧善懲悪的にとらえてしまうのだろう。
果たして、タクシン氏は「悪」なのか。唐突かつ極めて根本的な問いだが、現在の混乱の一因は、タクシン氏に恨み骨髄のグループが扇動してその答えを「悪」と急がせたことにあると思う。日本の政治がさまざまな混乱や政党の離合集散を経て成熟してきたことに照らし合わせると、タクシン氏はまだ緒に就いてまもないタイの政治の進化の過程で登場したいわばヒーローであり、「悪」か「善」かを検証するにはまだまだタイ政治史の時間軸が短かすぎると思う。
「ばらまき」「金権」は悪いに決まっている。しかし、タクシン政権の時代にようやくタイ東北部にも開発の光りが当たり、住民の生活は飛躍的に改善された。道路網が整備され、街灯がともり、だれもが携帯電話を持てるようになった。僕は1980年から81年にかけて大学を休学してタイの難民キャンプでボランティアとして働いたが、それから20年を経て特派員としてタイの各地を回ってみると、特に農村部で「隔世」を肌で感じた。「タクシン政権時代に格差が拡大した」と指摘する識者もいるが、それはタイ全体が成長するなかで派生したものであり、タクシン氏の政治手法が元凶とは言えない。
「反タクシン派」に与(くみ)するタイのある芸能人が「日本のように民主主義が成熟した国の物差しでいまのタイを判断してもらっては困る。タイはタクシン政権時代に腐敗と汚職にまみれ、現在もその異常な状態が続いており、なんとしてもそれを打ち破らなければならない」と、主導するデモの正当性をインタビューで語っていた。なんとなく説得力があるようだが、よくよく考えてみると、非常識な力に訴えるしかない者の議論のすり替え、詭弁(きべん)だと気づく。
「一強」のタクシン派政党に対してアピシット党首率いる無力な民主党という構図は、自民党一強支配の今の日本の政治勢力の構図にも似ている。しかし日本では、特定秘密保護法がゴリ押しで成立したからといって、反対する人たちは地道に抗議活動を続けているし、メディアも論陣を張り続けている。これが民主主義下で反対を主張する健全な在り方であり、タイに限らずすべての国で通用する抗議の形だと思う。
◆「独裁者」フジモリ氏の功罪
僕はタクシン氏を、かつてペルーの大統領として権力を自らに集中させ強権をふるったフジモリ氏にそのイメージをダブらせることがある。フジモリ氏は軍による民間人殺害への関与や人権侵害、汚職の罪で禁固25年の刑が確定し服役中だ。首都リマで2013年10月に開かれた横領罪の公判に出廷し、09年の公判以来4年ぶりに公の場に姿を見せたが、うつ病などを患っているとされ、ベージュのズボンに黒いセーター姿のその写真からは、やつれた様子がうかがえた。絶頂期のふくよかで自信たっぷりの表情はどこにもなかった。
フジモリ氏は大統領として権力の真っただ中にいた1992年4月、憲法を停止し議会を解散するという強硬策に打って出た。上下両院(当時、現在は一院制)ともフジモリ氏に反対する勢力が多数派を占めていたため自らの政策を進めることができないとして、大統領自らがクーデターを起こしたのである。しかし、独裁的ともいえる非合法なこの手法を大方の国民が支持し、以来、左翼ゲリラの暗躍で危機的状況にあった治安が飛躍的に改善する一方、膨大な借金とハイパーインフレにあえいでいた経済も安定軌道に乗り、現在に至っている。
僕はこのクーデターの数日後、知人を介してフジモリ氏の実姉フアナさんの手引きで首都リマにある大統領府の裏口からひそかに入り、執務室にいたフジモリ氏とアポなしで面会した。自らが起こしたクーデター直後で来客もないのか、上下ともジャージー姿。机の周りには陣取るようにパソコンのモニター画面がたくさん並んでいる。すべての省庁のあらゆるデータが一目瞭然(いちもくりょうぜん)だといい、「この地区の側溝の工事はいま何メートル進んだかもわかる」と得意げな表情でキーボードをたたいて見せた。10分にも満たない会見で、フジモリ氏は「これから視察に行く」と言って慌ただしくヘリポートに向かったが、その後ろ姿は「独裁者」というより「緻密(ちみつ)な計算にたけた学者」のようだった。その後の欧米や中南米各国のフジモリ氏への肯定的な評価をみると、クーデターという荒療治も結果的に納得できる。
フジモリ氏が大統領に就任した当時のペルーは、ガルシア前政権当時の腐敗と汚職の「負の遺産」にまみれ、国民の政治不信は頂点に達していた。大統領選では当初、泡沫(ほうまつ)候補の一人とされていたフジモリ氏はあれよあれよという間に有力候補となり、上位2人による決選投票で、その後ノーベル文学賞を受賞したバルガス・リョサ氏を破り、当選した。
フジモリ氏に寄せる国民の期待は大きかった。そして、フジモリ氏はそれに応えようとした。政府系機関の人事にも大ナタを振るい、中央銀行や国税庁などカネが絡む関係機関のトップはすべて日系人で固めた。自らの同胞ということもあるが、ペルー社会で日系人の信頼度は非常に高く、カネや許認可権に近いところにいても透明性のある仕事を遂行できると評価されていたのである。
しかし、憲法を改正して大統領の再選規定が破棄され、フジモリ氏が1995年に再選されたあたりから、さらなる強権ぶりに国民の間から不満が出始めた。96年には左翼ゲリラによる日本大使公邸人質事件が発生し、翌年に軍による武力突入で解決に導いたが、独裁色はいっそう強まった。2000年に三選されたが、既に政権はレームダック化。ブルネイでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席するため出国後、滞在先の日本からペルー政府あてに大統領辞任のファクスを送り、事実上の政治亡命をした。
その後、05年に日本からチリに移り、大統領選出馬の機会をうかがっていたが、ペルー政府から出されていた身柄引き渡し要請をチリ最高裁が認め、07年にペルー当局に引き渡され、「刑事被告人」として帰国したのである。
フジモリ氏ですぐに思い浮かぶのは腕時計のことだ。共同会見の場でも、なぜか僕はいつもフジモリ氏のすぐ隣の左側に座るよう指名されていた。フジモリ氏は腕時計をいつも左手に、文字盤が手の平の向きにくるようにはめていた。大統領就任直後の91年に初めて大統領府で面会した際はシチズン製だった。そして、97年7月に来日した際に東京・千代田区の帝国ホテルの一室で面会した際は金無垢(むく)のロレックス。一介の記者のひがみかも知れないが、権力が集中する大統領を長く務めるとはこういうことなのかと、氏の腕時計を見ながらひとり合点したものだ。
フジモリ氏の大統領時代の栄枯盛衰。彗星(すいせい)のごとく政界に進出し、国民から圧倒的な人気を集めて絶頂に到達。そしてその栄華にかげりが出始め、やがては権力の座からまさに転げ落ちるように放逐され国外逃亡するさまは、タクシン氏の首相就任からクーデターで国を追われるまでの劇的な変遷と驚くほど似ている。驕(おご)れる者久しからず。力を誇っている者も永遠ということはなく、それは春の短い夜のはかない夢のようなものである。
そして両者に共通する僕の思いは、「悪」のレッテルを貼ることに躊躇(ちゅうちょ)してしまうことである。もちろん多くの弊害もあるが、彼らの登場で国に新たな政治の息吹が生まれ、国民の政治参加意識を促したことは確かである。目指すべきそのゴールはまだずっと先にあるが、政治が成熟し安定へと収れんしていく過程で、あえて言うなら「必要悪」であったと思うのだ。
◆「安定まで10年」パウィン氏の予想
そこで、日本のメディアに問うてみたいのが、現在のタイの混乱を招いた「反タクシン派」への評価である。野党民主党は今回のデモに組織としては参加していないが黙認しており、それなりの責任がある。また、先に行われた総選挙をボイコットし、自ら政治参加の意思表示の扉を閉ざしてしまった。民主党からすれば、始めから負け戦(いくさ)とわかっていながら選挙を戦うのはばかばかしいに違いないが、タイで最も伝統のある政党が選挙を放棄するというのは民主主義の否定であり、どだい納得できない。
このあたりのことを日本の新聞やテレビはどう伝えるのか注目していたが、その多くは事象面だけを追い、最後は「たら」「れば」で危機感をあおって終わり、という内容だった。最近の報道ですっきりと納得できたのは唯一、1月16日付の読売新聞の企画「編集委員が迫る」で語ったタイ人政治学者、パウィン・チャチャワーンポンパン京都大学東南アジア研究所准教授(42歳)の主張である。
パウィン氏は現在の民主党について「民主党の批判は時代錯誤だ。民主党が選挙に勝ちたいなら、タクシン派より優れた政策で勝負すべきだが、それをしない。民主党はエリート層以外に支持基盤を広げられず、選挙に勝てない。タクシン氏を糾弾するのは責任転嫁だ」と指弾する。また、「反タクシン派」が主張している、いまの議会に代わる任命制の「人民会議」の設置について「反対派のお手盛り機関であり、民主的正当性はない。国際社会の支持も得られない」と言い切る。
そのうえで、いまの混乱の収拾の見通しについて「双方にとって受け入れられる政治合意を見いださない限り、危機は次から次に起こる。ただ、政治合意がどのような内容であるべきか、誰も分からない。誰と誰の合意になるかも分からない。エリート層もタクシン派も一枚岩でない」と指摘。軍の動きについては「タイでクーデターはエリート層の政治的武器と言える。ただ、前回(2006年)のクーデターの結果、反クーデターの機運の中でエリート層に対抗する運動が形成され、タクシン氏の影響力は増した。大衆は政治に目覚めた。外交的にもマイナスだった。軍はその後、首都で大衆運動を起こしたタクシン派を弾圧し、手を血で汚した。だから今回、動けない。何もしないことが軍の既得権維持のための最良の策である」と分析する。
では、今後どうなるのか。パウィン氏は「対立・紛争は続く。王位継承後も10年は安定を見いだせないかもしれない」と予想する。悲観的な見通しだが、パウィン氏の解説を最初から読んでいくと、タイに行ったことがない人でも、現状についてある程度理解が進むと感じた。
あと10年か。結局は「タクシン派」「反タクシン派」の双方が消耗(しょうもう)し厭戦(えんせん)気分に達するまで対立を続けるしかないのか。2006年のクーデターの際、タクシン氏の側近の一人は「これでタイの時計の針は20年逆戻りした」と嘆いたが、それを計算に入れるとタイの政治的進化は優に30年以上停滞することになる。最終的に国民に回されるツケをいったいだれが払うのか。いまの混乱を引き起こした首謀者の責任は、後々検証してみても、計り知れないほど重く大きいはずである。
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