引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など経て現職。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆議論より実行
米国のトランプ大統領の就任以来、どのように彼を受け入れたらよいか、困惑し、うまく処理できないでいる。作家の佐藤優氏はトランプ大統領が所属するキリスト系保守派の持つ特性から、彼の行動が「目的を達成する」というプロセスの中にあり、議論よりも実行に重きを置かれていることは、ごく自然であると指摘したのには、少し解釈の手がかりをつかんだような気がする。
つまり、プロセスで議論にはならない、ということである。協議中に異なる意見との折衷を試みたり、合意形成を丁寧に行ったりすることは、宗教上の理由からも、彼ら突き進んで生きたビジネスの流儀からも、眼中にはないのかもしれない。
しかし、多数の合意形成を意思決定の基本に置く、民主国家そして、いくつもの州が組み合わさって形成された連邦国家ではなおさらに、大統領の横暴だけでは、国家は良い方向には進まない。
◆ドイツ観念論から考察
絶対的な価値観を考えると、トランプ大統領はその価値観からずれている。ずれているからこそトランプ氏であり、既得権者を批判した源泉でもあるのだから、米国民は自覚した上で彼を選んだのかもしれないが、やはり考えてほしいのは、絶対的な価値観の堅持は世界全体の問題である、ということである。
近代社会では、とりわけ第2次世界大戦後の世界構造において米国は中心的な役割を担ってきたし、その中心にいることを米国自身も望んできたはずで、米国という中心を取り巻く周辺との意思疎通をどうやっていくのだろうか。
トランプ大統領にいきなりカントの厳格主義や平和思想を持ち出して比較するのは無謀かもしれないが、私たちは市民社会を築く上でよりよい思想を考えて、悩み、行動してきた歴史がある。
その長い議論の中で磨かれたいくつかの思想は、私たちが守るべき大事なポイントを示していることを考えれば、やはりドイツ観念論の哲学者たちであるカントやフィヒテ、シェリング、ヘーゲルらは今もなお、市民社会の形成について重要な示唆を与えてくれる。
カントの厳格主義で言えば、「難民は危険だから入国させるべきではない」との考えを、難民の置かれた立場に同情しながら自分の生活が脅かされることを承知の上で難民を助けようとするのが、厳格主義であり、この思想をベースにカントは平和論を打ち立てたのだが、「米国第一」の思想はそれとは相反する格好だ。
ドイツのメルケル首相は、欧州の中心存在として、自覚的に全体の状況と自国の痛みを認識しつつ、カントの平和思想に近づこうとの意志が感じられる。それはナチス・ドイツの苦い経験があるにせよ、タフな取り組みであるが、難民にとっては希望でもあるのだろう。
◆弁証法での位置づけ
ヘーゲルの弁証法は、歴史の過程にいる私たちにとって、国家のあり方や理想の市民社会に向けて、私たちはまだまだ完成を知らないことを、トランプ現象を通じて思い知らせてくれる。
あるものが成り立っている、という前提である「定立」(テーゼ)があり、その内部の矛盾が明らかになり、自己自身に対立するようになる「反定立」(アンチテーゼ)を経て、「定立」と「反定立」を乗り越えてより高次元のステージに到達する「総合」(ジンテーゼ)という真理に至るという弁証法にあてはまると、欧州統合も米国の二大政党制や大統領制度もすべて真理には到達せずに、弁証法として真理を模索しているのに過ぎないのである。
そう考えれば、トランプ大統領という存在をもはやアンチテーゼでとらえるのではなく、テーゼ化して、アンチテーゼを市民社会で考えて行き、あらたな総合という真理に向けて考えていくのがわれわれの役割であろう。
※『ジャーナリスティックなやさしい未来』関連記事は以下の通り
第92回 尊敬する「人倫国家」への失望と、そして切ない希望(2016年11月10日)
https://www.newsyataimura.com/?p=6070
■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/
■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link
■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/
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