玉木林太郎(たまき・りんたろう)
経済協力開発機構(OECD)事務次長。35年余りの公務員生活の後、3度目のパリ暮らしを楽しむ。一万数千枚のクラシックCDに囲まれ、毎夜安ワインを鑑賞するシニア・ワイン・アドバイザー。
「建物は所有者に属するが、その正面(ファサード)は全ての人のものだ。」とはヴィクトル・ユゴーの言葉らしいが、パリの街を歩けば建物の壁にはめ込まれたプレートがやたらに目につく。先日も場末の変哲もない道の変哲もないホテルの壁に「周恩来が1922年から24年までこの建物に住んだ」と彫像入りで立派なプレートがあるのを見つけた。当時この建物に在欧州の中国人青年の共産主義組織(旅欧中国少年共産党)の本部が置かれ、その機関誌の印刷を若き鄧小平が担当して「ガリ版博士」とあだ名をつけられていたそうな。
パリに来てすぐのころ、パンを買いにサン・ジェルマン・デ・プレ界隈を歩いていたら、とあるバールの脇の扉に小さめのプレートがある。近寄ってみると≪リシャール・ヴァグネールここに住む、1841年10月30日から1842年4月7日≫と読める。おお、ワグナーの失意のパリ滞在(1839年から)の最後の住処(すみか)はここか、と大いに感じ入った。
この通り、6区のジャコブ通りは今でこそカルチェ・ラタンの西部でパリらしい地域として人気も高いが、この七月王政の時代にはパリの繁栄はもっぱら右岸のグラン・ブールヴァール周辺であり、左岸のこの辺りは学生や貧しいお針子・ボヘミアンなんかの世界だった(「ラ・ボエーム」の設定と場所も時代もほぼ同じである)。
ワグナーはこのパリ滞在では全くうまくいかない。パリはマイアベーアの天下である。ワグナーは書く「私には奴隷的なところがあります。尊敬する師よ、私を買ってください」。「リエンツィ」と「オランダ人」を書き上げたものの上演の見込みが無いまま、糊口(ここう)をしのぐために何でもやった。『ベートーヴェン詣で』とか『パリに死す』とかの小説も書いた。
驚くなかれ、このワグナーの小説は『ベエトオヴェンまいり他三篇』として1957年に岩波文庫から翻訳が出ている。翻訳は高木卓、幸田露伴の甥(母は露伴の妹の幸、有名な幸田姉妹の妹で日本のヴァイオリニストの草分け)である。この高木先生、芥川賞の長い歴史の中で唯一の受賞辞退者として光彩を放っている。ワグナーファンはぜひ探してご一読を。
パリに最も多くのプレートを残している音楽家は同じ時代にパリに居たショパンだろう。1831年にパリに到着して住んだポワソニエール街27番地から、49年に息を引き取ったヴァンドーム広場の家(今は宝石のショーメの建物である)まで、数えきれないほど引っ越しをし、プレートを残している。ワグナーがプレートのある左岸の陋屋(ろうおく)で貧困に苦しんでいた1841年に、ショパンは初めてジョルジュ・サンドのノアンの館で夏をすごし、秋にパリに戻るとサンドの住むピガール街に引っ越している。ショパンはワグナーよりわずか3歳年上なだけなので(そしてリストはこの二人の中間、ショパンより1歳下である)、同じ30歳前後の才能あふれる音楽家のパリでの境遇は、右岸と左岸に分かれて大きく違っていたわけだ。
◆1枚のプレートから浮かぶさまざまなイメージ
例によって脱線するが、ショパンの伝記にたびたび出てくるサンドの館のあったノアンとはどこだかご存知ですか? ノアンはNohantと綴り、パリからほぼ真南に300キロ下ったベリー地方の一邑(いちゆう)である。近くに大聖堂で有名なブールジュの町はあるものの、ろくにワインも出来ないような所を訪ねる機会はなかったが、意を決してこの夏スペインに行く途中で寄り道してみた。
どこまでも真平らな土地で、よくあるフランスの田舎としか言いようがない。芸術的感興を引き起こすような風景も、サンドの館以外に大きな建物もない。夏はパリより暑そうなこの平凡な土地にパリから片道30時間(!)馬車に揺られてくる気がしれない。とはいえリストも、バルザックも、フローベールも、そしてショパンの友人としてドラクロワも皆ノアンの客となっているのだから、余程サンドに磁力があったのだろう。
子供のころ、講談社少年少女世界文学全集で『愛の妖精』を読んでほとほと退屈して以来サンド姐には遠慮させてもらっていたが、フランスに来てみるとなかなか大きな存在で、厚いフローベールとの往復書簡集などいまだに手に取る人も多いようだ。
金策で頭がいっぱいのワグナー、パンを買いに歩く疲れた顔の妻ミンナ、そして白い山羊(やぎ)革の手袋をパレ・ロワイヤルで誂(あつら)えるショパン、一枚のプレートからこんなことがイメージできるのがパリの街を散歩する者の特権だ。犬のフンに気をつけながら上の方も眺めないと。
今日はシャトレにヴァイオリンを聞きに行く。その前にどこを歩こうかしら。
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