木村 文(きむら・あや)
元朝日新聞バンコク特派員、マニラ支局長。2009年3月よりカンボジア・プノンペン在住。現地で発行する月刊邦字誌「プノン」編集長。
「フン・セン首相は、もうカンボジアにはいない」。
7月28日夜から29日にかけて、そんなうわさが、プノンペンを駆け巡った。その日、カンボジアでは国民議会選挙(総選挙、定数123)が実施された。投票のために多くの人たちが地方へと戻り、首都は、盆休みの初日のように静まり返っていた。
投票は即日開票された。だが、中央選管による公式結果はすぐには発表されず、フン・セン首相の与党・カンボジア人民党と、既存の二つの野党が合併した野党・カンボジア救国党が、それぞれ「勝利宣言」をする奇妙な事態に陥った。
与党・人民党の報道官は、非公式な独自集計としながら、人民党が68議席、救国党が55議席を獲得した、と語った。改選前は、人民党90議席、救国党を構成する旧サム・ランシー党と旧人権党は合わせて29議席だった。人民党が辛勝したものの、与党は大幅に議席数を減らし、野党は大躍進という結果だ。人民党報道官は「我々にとって、目が覚めるような結果だった」と述べ、国民の与党に対する不満や批判を甘んじて受ける姿勢をみせた。
一方、野党の救国党は開票翌日、「この結果を受け入れない」と強硬な姿勢で対抗。「野党は少なくとも63議席をとっている。我々は勝った」と主張した。さらに、選挙で100万票を超える行方不明票があり、多数の不正があったとして、国際社会もまじえた合同調査委員会の設置を求めた。
◆フン・センの沈黙にさまざまな憶測
この混迷に拍車をかけたのが、フン・セン首相が選挙当日の7月28日に投票して以来姿を見せず、沈黙していたことだった。首相の自宅周辺は厳重に警備され、「フン・セン首相はすでに亡命した」とのうわさが飛び交った。「やはり、与党は負けたのではないか」。そんな空気が流れ、首都の混乱を恐れて、投票のために地方に戻った労働者たちが、プノンペンに戻ってこないという現象まで起きた。
7月31日夕方、フン・セン首相はようやくプノンペン市内の視察で姿を見せる。そして野党に事態解決のための話し合いを呼び掛け、選挙の不正について調査を受け入れる、とした。また、国民に向けて、自分が国を去ってなどいないこと、党を把握していること、を強調した。
これを受けて与野党は不正調査委員会の設置に向けて協議に入った。だが、それはたった一日で決裂。中央選挙管理委員会が提案した委員会の構成メンバーに国連など国際社会の代表が入っていない、というのが理由だ。与党側は「国際社会に頼らずとも解決できる」として譲っていない。
◆「フン・センがいないカンボジア」の行方
フン・セン首相が姿を見せなかった3日間、与野党関係者から「水面下の動き」として伝えられる情勢は振り子のように変化した。与野党協議などと言い出したフン・セン首相に不満を持つ与党の一部がクーデターを計画している、いや、それよりも先に選挙のために合併した野党が選挙後の方針を巡り分裂した――。
飛び交う情報に振り回されながら、国民も、私たち在住外国人も、カンボジアをめぐる国際社会も、おそらく内戦後初めて真剣に考えたのではないか。「フン・セン首相がいないカンボジアはどうなるのか」について。それぞれが、それぞれの立場で計算した結果がどう総計されるのか、まだ分からない。だが、8月6日、プノンペンで開かれた野党・救国党の集会には、選挙期間中に野党支持者が醸し出していた熱狂を感じることはできなかった。ひとつの答えが出ていたような気がする。
カンボジア中央選管による集計結果発表は、9月上旬までに予定されている。現状では、やはり人民党が勝った形で発表されるのではないか、という憶測が強まっている。ただ、このまま与党が逃げ切ったとしても、火種は残る。野党がなぜ、こうも躍進したのか。野党が、急速な経済成長の影で拡大する貧富の格差や、長期政権が組み上げた利権構造に不満を持つ国民の声の受け皿となったことは想像に難くない。与党内には、「国民の声は無視できないほど大きくなったということだ。与党が政権を維持したとしても、大胆な政治改革を迫られるのではないか」という声も出始めている。百戦錬磨のフン・セン首相が、野党勢力や国民に、あるいは与党内の声に、どう向き合っていくのか、注視したい。
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