小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住18年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
銀行員必読の本があるという記事を目にした。共同通信社経済部記者である橋本卓典氏が書いた『捨てられる銀行』(講談社現代新書、2016年)である。本の名前も人の目を引くものであり、早速私も読みたいと思い、バンコクの書店を探したが手に入らない。9月に政策研究大学院大学で講義をするため、日本に行った際に買い求め、1日で読み終えてしまった。
◆金融監督庁設置の経緯
本の内容は、2015年7月7日に金融庁長官に就任した森信親(もり・のぶちか)氏のもとで変貌する金融庁とその金融庁の新たな方針、また地方金融機関の実態などに斬り込んでいる。私にとっては馴染みのある金融用語が並んでおり、かつ文中には私の知っている方々の名前も多く出ていることから、きわめて読みやすい本であった。しかし、手前みその話をすれば、私が日頃から思っていたことや言ってきたことが書かれている本であり、「我が意を得たり」の心境である。この本で書かれている幾つかのポイントについて、私の所見を述べさせて頂きたい。
まず第一に私が共鳴したことは、1999年7月に公表された「金融検査マニュアル」によって、銀行が主体性を失くしていった過去についてである。日本の銀行は92年のバブル崩壊以降、不良債権処理に追われるようになった。幸か不幸か私は日本のバブルを経験していない。87年から94年まで米国に赴任していた私は、バブル経済の中で気が狂ったように貸し出し競争に明け暮れた銀行員の熱狂を知らない。後から聞いてみると、「土地さえあれば100%貸し出しを行う」「10年長期貸し出しの期限一括返済」などが当たり前のように行われていた。「東京23区の土地代でアメリカ1国が買える」というほどの異常事態を誰も疑問に思わなかったのだろうか?
バブル崩壊とともに当然つけがまわってくる。ほとんどの銀行が不良債権に苦しめられることとなる。大手都市銀行も倒産の危機にさらされ、実際に北海道拓殖銀行(98年8月)、日本長期信用銀行(98年10月)、日本債券信用銀行(98年12月)など、大手の銀行が次々と破たんしていった。多くの銀行が自行の不良債権額を少なく見せるため、子会社や関係会社への不良債権の移し替え―いわゆる「飛ばし」を行っていた。現在ではれっきとした犯罪行為である。
更にひどいことに、不良債権に苦しむ銀行は、大蔵省(当時)や日本銀行の検査を恐れ、周到な検査対策を行うために検査日程を聞き出そうと、MOF担(企画部などに属する大蔵省、日本銀行の専任担当者)を中心に常軌を逸した接待を繰り返した。世に言う「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」などがそれである。監督官庁と金融機関の癒着は刑事事件化し、検察庁も乗り出してきた。当時、国際企画部の次長として働いていた私の職場にも、検察事務官が現れ、私の手帳をコピーして帰った。幸いにして、ノーパンしゃぶしゃぶの有名店であった楼蘭の会員名簿からは、当時勤めていた東海銀行の名前は出てこなかった。
東海銀行は当時の都市銀行で唯一桜蘭の会員のいなかった銀行のようである。後日、頭取と海外出張に出掛けた際、半分冗談に頭取が「東海銀行の情報収集力の低さ」を嘆かれたのが印象的であった。こうした事件を受け、98年6月、大蔵省から「民間金融機関等の検査、監督機能」を分離して設置されたのが、金融監督庁-現在の金融庁である。
金融監督庁は早速、金融機関の持っている多額の不良債権をあぶり出すべく準備に入った。99年7月には「預金等受入金融機関に係る検査マニュアル」、いわゆる金融検査マニュアルが制定され、厳格な検査が始まった。
金融機関は依然として、多数の不良債権を抱えている、一方で不祥事を受けて設置された金融監督庁である。襟(えり)を正す意味でも検査内容は厳しいものとなった。更に新設の金融監督庁は当初より人材不足である。不良債権で破たんした金融機関を辞めた人材を中途採用したが、検査経験があるわけでもない。勢い、金融検査マニュアルに基づいた、硬直的な検査とならざるを得なかった。
しかしこの時の金融監督庁と金融機関の攻防が、金融機関側の「トラウマ」になってしまったと思われる。銀行は盲目的に金融検査マニュアルに従うことで自己の存立の安全を確保出来ると信じたのである。元々、銀行員が物事をよく理解していたとは思わない。「そもそも人間は自分で物事を判断するのを苦手としており、それを避けようと行動する」というのは心理学の定説であり、脳医学的に言えば、物事を判断する際は、大量のストレスホルモンが放出されるのである。
金融検査マニュアルは銀行員にとって「渡りに船」であり、金融庁は銀行の「リスクを取らない方針」にお墨付きを与えてしまったのである。
◆金融機関を堕落させた信用保証制度
次に金融機関を堕落させたのが、信用保証制度である。特に金融危機時の98年10月から2001年3月までと、リーマン・ショック以降の08年10月から10年3月までの2回は、中小企業に円滑に資金がまわることを名目に、信用保証協会が100%負担する特別措置がとられた。
これが決定的に銀行を駄目にした。何しろ銀行はリスクを取らなくて良いのである。それでなくても思考停止に陥っていた銀行員である。考えずに貸し出しが出来るならば、これに越したことはない。こぞって信用保証貸出に走り、過去にやった自己のプロパー貸し出しまで、将来のリスク回避のために信用保証貸出に乗り換える始末である。モラルも何もあったものではない。
ここまではタイにいる私でも知っていたが、この本を読むと、信用保証貸出によって、従来の短期運転資金貸出から長期約定返済貸出に貸し出しの主流が替わっていったとのことであった。
貸し出しリスクを管理するためには短期貸出にすることによって、定期的に貸し出し顧客の状況を把握する事は銀行員の基本である。ところがリスクを取らないで済む信用保証貸出により、効率性だけを追求し、長期貸出に乗りかわったと聞いて、私はがく然とした。もう銀行員としての気概は残っていないのであろう。現在バンコック銀行日系企業部の90%以上の貸し出しが短期運転資金枠である。貸し出し枠更新の手間が残るかもしれないが、これがあるからこそ顧客との関係を緊密に保てると確信している。
こうした金融機関の「思考停止状態」と「リスクをとらない姿勢」に対して強い問題意識を持って金融監督行政を始めたのが森信親金融庁長官である。特に、人口減少に直結する地方金融機関に対しては今後の破綻の危険性まで提示して、危機感をあおっている。しかし、私の眼から見ても依然として自覚を持った金融機関はそれほど多いとは思えない。
◆地方創生は地方の金融機関の生命線
あれだけ金融庁からプレッシャーを受けても、地方銀行のアニュアルレポートには相も変わらず横並びで同じことが書かれている。地域ごとの特性を分析したものも無ければ、それに基づいた施策の展開はほぼ皆無である。またアニュアルレポートに書かれている施策にしても銀行自らがやるものは少ない。外部頼みなのである。
衰退する地方にあって、新たな産業育成なくして銀行の生き残りはない。そうした意味で地方創生は地方の金融機関の生命線であるはずである。こうした意識があれば地域金融機関は自らの手で必死になって地方創生の施策を考えるであろう。
地方創生は地方銀行の生き残りの試金石である。「捨てられる銀行」か否かはその銀行の地方創生にかける真剣度と思っているのは、決して私1人ではない。そういう思いを共有出来た本であった。
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