п»ї ロイヤルティーとコミュニティー、そして集団的自衛権『ジャーナリスティックなやさしい未来』第21回 | ニュース屋台村

ロイヤルティーとコミュニティー、そして集団的自衛権
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第21回

8月 01日 2014年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。一般社団法人日本コミュニケーション協会事務局長。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。

◆ロイヤルティー

7月1日の政府による集団的自衛権に関する閣議決定を受けて、憲法9条の理念をめぐる解釈から安倍晋三首相の手続き論や「武力行使の新3条件」などの解釈に至るまで、様々な議論が展開されている。他国との交戦権を否定した、いわゆる「平和憲法」を「周辺環境の変化」などを理由に挙げて、解釈の変更に踏み切った政権。ここでいう「周辺環境」は中国や北朝鮮を指すことは当然だが、私個人は、その周辺とは安倍晋三という人の周辺であり、私たちが生活するこの社会の中にある気がしてならない。

それは一言で言えば、ロイヤルティーを求める人と社会、である。

「交戦権の否定」を否定し、集団的自衛権、もっといえば集団的安全保障までをも肯定し、勇ましく国際社会に日本という狼煙(のろし)を上げようとする人々の増加という環境であり、背景には国への帰属意識、つまりロイヤルティーを求める国民ニーズの高まりがある。明確には見えないながらも、うねりのような勢いですでに世間を席巻しているような気がする。

それが、今、私たちが置かれている社会環境である。

◆コミュニティー

「会社へのロイヤルティーを高めたい」。

こんな相談がビジネスコンサルタント・研修講師としての私に相談されることがある。終身雇用制度が昔となり成果主義を社是とし、フレキシブルに働く光景が日常化しつつある中で、例えば「IT業界」ならば、「会社名」よりも、よりよい条件の職場を求め、渡り歩く働き方も珍しくなくなった。

前述の相談をしたのは、IT関係の人事担当者だが、創業期を終え、今後の安定的な事業運営は「会社へのロイヤルティー」が必要だと気づいたようだ。実際に、IT業界に限らず、ロイヤルティーが職員の離職率を抑え、効率的な業務と業績に結びつく、という考えは定着しつつある。

しかしながら、ロイヤルティーをどう養うかの答えを持っている企業は少ない。ましてや付け刃の研修でロイヤルティーを養うことは難しい。

それは、ロイヤルティーの基盤となるコミュニティーが存在していないからである。社会または組織の中で、自分が他者と関わりあう場がコミュニティーであり、それは各個人の存在を確かめる場所。そして、その時の自分は「作業をする」だけではなく、その作業を通じて喜怒哀楽を表現しながら、同時にコミュニティー内の人の感情に反応し、必要ならばその感情に寄り添うことができる場所である。

成果主義の重視など最近の企業動向は、コミュニティーの「血」とも言える感情を抑えて、実績だけを重視してきたから、自然とコミュニティーは崩壊し、ロイヤルティーの基盤がなくなったのである。

つまり、コミュニティーは「感情」とも言える。例えば、常日頃は作業をたんたんとこなしながらも、その緩やかなつながりの中でお互いの人格を尊重しながら、性格の長所短所を受容しあい、誰かが「困った」という感情が表出したときに真っ先に助ける、という集まりである。

要は昔、昭和の時代にあった長屋や村落のマインドとも言えよう。東日本大震災の助け合いは、このコミュニティー内の感情が機能した結果であり、助け合いが成立せずに復興が遅れた箇所にはこのコミュニティーが崩壊していた結果とも言える。

このコミュニティーこそがロイヤルティーの基盤であり、会社内には感情で「つながる」組織づくりこそが、ロイヤルティーを養うことになるのである。

◆集団的自衛権

先ほどのIT企業の例でもわかるように、このロイヤルティーへの意識は社会における個々人にも広がっている。企業からの視点で言えば、企業がロイヤルティーを提供出来ず、コミュニティーも機能しなければ、絶対的に自分の存在を保証してくれる「国家」にその意識が向けられるのは明白である。最近の中国、韓国との歴史認識をめぐる問題でも、自分の帰属する日本という「国家」を陵辱(りょうじょく)することは許されない、という思いも強いロイヤルティーがあってこその感覚である。

そして、ここで言う国家にロイヤルティーを求める人たち、特に若者のマインドの多くは「コミュニティー不在」のまま形成された、いわば行き場を求めた結果の安住地としての帰属意識のような気がしてならない。

ロイヤルティーを求める社会機運の中で、いわばそのロイヤルティーの求めに応じる形で、集団的自衛権行使に向けた政府主導の閣議決定は確実に遂行された。国会前の平和憲法を死守したいという勢力を中心としたデモ活動も、表に出てこないロイヤルティーを求める「ロイヤルティー族」の存在がデモ拡散の歯止めになっているのであろう。

「戦争になる」という議論も現実的ではなく、ここでもコミュニティーの崩壊が影響している。例えば自分の所属するコミュニティーの中に、「息子が自衛隊員」という人がいて、その命が脅かされる、ということを、その家族や息子自身の表情などからイメージできたなら、反対の議論も市井(しせい)の人々の間でリアリティーを持って展開されるはずなのである。

安倍晋三首相は、この安住の地に行き着いたロイヤルティー族を巧みに利用し、そのロイヤルティーをくすぐる説明に終始していることは(自分で気づいているかどうかは別として)、反対する人たちの誰をも説得できていないことに通じる。おそらく安倍首相自身がロイヤルティー族であるから、同じ種(しゅ)の彼らの習性をよくわかっているからなのであろう。

集団的自衛権という個別問題もさることながら、ロイヤルティーは自国尊大主義になる傾向がある。今後も政権が国家へのロイヤルティー重視の道を歩むならば、国家は危険な場所に行くような気がするのである。

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