引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP等設立。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆不幸せは自殺で
前回、「人を幸せにするコミュニケーション、人を大切にするコミュニケーション、人を思いやるコミュニケーション、人を助けるコミュニケーション、人を守るコミュニケーション、人を活かすコミュニケーション、人を育むコミュニケーション、人が生きるコミュニケーション」はそれぞれで「人を」から「自分を」に置き換えて考え、その各論を展開していくと書いた。
そして、今回から書こうと、最初の「幸せにする」コミュニケーションについて考えたが、その基本である「幸せ」についての説明は難しい。幸せの概念が固定できず、幸せは主観によって変わるから、幸せとは何か、と問われた時、欲望を満たすこと、と言えるかもしれないし、もっと大事な答えがあるかもしれないから、その先で彷徨(さまよ)ってしまう。
答えを探しても科学的な根拠は見つからない。だから、わかっている事実だけで確認する方法として、逆説的に考えてみる。つまり、幸せの正反対に位置付けられる不幸せとは何かと問うてみる。幸せは生きることを前提としているから、不幸せは、自分を否定し、自分を亡くすことと言えるだろう。その象徴行動が自殺である。
日本の自殺者は1998年から14年連続で3万人を超えて長年の社会問題となっており、政府もメンタルケア分野での対策を打ち出し、2012年から3万人(ただ未遂者や遺書のない自殺と断定されないものを含めると10万人以上と言われる)を割り込んだ。だが、これは政府の対策よりも、自殺志願者特有の心理を癒す社会の窓口がオンライン、オフライン共に広がり、増えたのが背景にあると私自身は見ている。
ただ3万人、2万人といった議論は1人の死という事実と当事者と関係者の苦しみにとはかけ離れてしまうから、あまり重要ではない。むしろ最近の傾向として、20から30代の自殺の増加が気になる。そして、全体の70~80%が心の病を患っていたという統計がある。だから自殺は心の病であると言ってもよく、その病には、心も体も充実しているはずの20~30代が最も多い。
◆崇高で儚いもの?
この心の病は、社会や関わる人と関係を断絶する、という選択として自死に至る。つまりコミュニケーションを閉ざすことが多くのパターン。人と軽妙なトークをして「じゃあ、死ぬよ」と言って逝く人はいない。
だから、コミュニケーションが断絶する状況は不幸せであり、この事実から導けば、幸せとはコミュニケーションが円滑にとれている状況であろう。「人を幸せにするコミュニケーション」と言ってみたが、コミュニケーションそのものが幸せの条件であり、ここではその条件を備えること、さらに条件を備えた上で人を「より」幸せにするのを目的としていると考えたい。
もう少し幸せについて考えてみると、幸せの概念が国や地域によって違うことを、多くの幸せに関する研究者から示されている。
西洋の価値観で言うと、ソクラテスの言葉が基本とするのが一般的。すなわち「人生の課題は良い人間になることである。つまり最も崇高なものを手に入れることである。そして、その最も崇高たるものが幸せなのである」。
一方で私たちはつかの間の幸せのために日々、我慢をしたり、苦労をしていたりするのかもしれない。だから、と言って笑い飛ばすのが数々の名言を残した劇作家ジョージ・バーナード・ショーである。「生涯絶え間ない幸せ? 誰一人としてそんなことに耐えられる者はいない。そんなものは地獄でしかないのだから」
国の違いでは、米ロで「自分が幸せの時、周囲に幸せであることを伝えるか」の質問に「はい」と答えたのが、米国人60%、ロシア人15%。米国人の多くが幸せと喜びなどの肯定的感情の結びつきを意識し、それを表現することにためらいがないのに対して、ロシア人の幸せは「無垢(むく)で儚(はかな)いもの」(米カリフォルニア大リバーサイド校ソニア・リュボマースキー教授)というイメージが強いので、人に伝えるという行為にも、その考えが影響しているようだ。
アジアの国では、幸せは手放しで喜ぶだけのものではなく、その背後にある否定的な感情も同居し、日本人と韓国人への調査では、一人の幸福には限界がある、と考えていて、やはり不幸なしには幸福は語れないという感覚があるらしい。
これをコミュニケーションにあてはめれば、不幸でストレスをたっぷりと味わうコミュニケーションを経て、幸せのコミュニケーションに至るのが幸せへの階段なのだろうか。特に米国の独立的自己観に対して協調的自己観の日本では、幸せの概念が個人のものという印象があり、自ら幸福に近付くのを憚(はばか)る気持ちも残り、幸福を共有する行為が暗黙の上に求められている錯覚がある。
そのため、共有化の役割を担うコミュニケーションの位置づけは重要。幸福をテーマにしたコミュニケーションの観点で言えば、民主党政権時代、菅直人首相は不幸になる要素を少なくする「最小不幸社会」をつくることを目標に掲げた。その視点は市民運動家出身らしく、市井の人が考える「普通の暮らし」をより多くの人へ浸透させるという視点に立った、菅首相が過ごしてきたコミュニケーション世界で培われた発想であり、幸せ感といえる。現在の安倍晋三首相が進めるアベノミクスはじめとする政策やそのメッセージは、欲望の経済を循環、肥大化させようという上から目線の幸福コミュニケーションで、それは安倍首相の出自が影響している。
◆幸せは関わること
さて、冒頭の命題である自分を幸せにするコミュニケーションは何かというと、関わるためのコミュニケーションと考えている。
一方的な主張や一方的な受け手ではなく、人や社会と関わって、自分の発したものが、受け手に承認されて、レスポンスが返ってくる。この循環は、人への共感が必要になり、情報のやり取りだけでは済まされず、心が介在するから喜怒哀楽が伴ってくる。
ドイツの幸福論から言えば、この起伏のある人間の諸活動のひとつが幸せである。このコミュニケーションの好循環を生み出すには、自分自身の外向けのコミュニケーションと同時に常に自分の内面とのコミュニケーションも必須で、自分が今、生きて、自分の気持ちは何を求めているかを考え、何らかを発信して、そして承認される。
私はコミュニケーションのお話の中で、その実践の初歩段階として、アウターとインナーのコミュニケーションを意識することを勧めているが、障壁の多い世間でつまずいて、その循環が滞った時、人はストレスを感じる。自分が幸せになるための好循環は、そんな世間に一喜一憂しないことであり、外のあらゆる雑音は放っておいて、自分が心地よいコミュニケーション世界を作り上げて他者と関わっていく順序で勧めたい。
すべては、自分からはじまる、と意識すること、そしてはじめること。これが幸せの出発点であり、人の原点である。と書いてみて、ちょっと心が弱っている人には難しいメッセージだと考え、出発点としては、「今日も楽しかった」「明日はよい日になる」と、自分の心に(インナーコミュニケーション)そっとつぶやいてみることが今からできることである、と付け加えたい。
次回は「人を大切にするコミュニケーション」を説明します。
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