小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住16年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
第47回衆議院議員選挙の投票が14日に迫っている。大半の読者の方々はこの記事を読まれているころには既に今回の総選挙の結果をお聞きになっていることであろう。「大義なき解散」と言われながらも、政治状況を見るに敏な安倍首相は勝てる選挙を目指してこの時期を選んできた。
残念ながら大半の政治家にとって最も大事なのは国家の運営ではなく、自分の権力基盤の維持強化にある。この点からいって安倍首相は当たり前の事をやっただけである。そして選挙の争点は「過去2年にわたるアベノミクスの成果とその是非について」と見事に矮小(わいしょう)化されてしまったのである。
アベノミクスによって経済は良くなったのか悪くなったのか、現状認識について見方が二分されている。株価の値上がりや円安により日本経済のムードが大幅に良くなったという人がいる。一方で富める者が更に富み、貧しき者は余計貧しくなったと主張する人がいる。円安効果についても同様に、正反対の意見が語られている。
しかしこれら「さまつな論点」の中で人々は政治への関心を急速に失ってしまった。当たり前であろう。自民党、民主党ともその主張に大きな違いがなく、国家の運営方針に大差がないことを国民は見抜いているのだから。
しかし、日本の国家としての破綻(はたん)は確実に近づいている。その問題点を日本の社会構造から見てみたい。
◆日本社会のプレーヤーの行動原理
私は日本の社会構造上の特徴を「他者依存性社会」と名づけている。極めて大くくりに、日本社会のプレーヤーの行動原理を私なりに記述すると、以下のようになる。
【企業】
1990年代までの繁栄が忘れられず、過去踏襲型の経営がなされ、新しいものへの挑戦ができていない。社内には厳しいコンプライアンスルールが設定され、このルールにのっとった行動が要求される。
このコンプライアンスルールはそもそも欧米のコンサルタントや会計事務所によって開発され、日本の監督官庁のお墨付きを得て「企業憲章」とまで昇華されている。企業内ではリスクを取らない姿勢が評価され、企業は過去の蓄積を徐々に取り崩すことによって生き延びている。
【マスコミ】
世論受けを気にし、国民に厳しい内容をあまり通知しない。新聞やテレビのニュース番組などでは、問題解決責任を国や政治に振り向け、「弱者に対し国家が補償をすること」を推奨する。しかしその国家補償が税金によって賄われることはほとんど語らない。
主要収入源である広告のクライアントとなる大企業に対しても正面から批判することはしない。大半の記事は記者クラブ経由で官庁、警察の公式・非公式の発表に基づき構成される。
【官僚】
国家責任論を逆手にとって自分たちの責任領域を拡げ、権限を強めようとする。国家予算の配分をなるべく多くし、受け取る努力に奔走(ほんそう)。多くの外郭団体を作り、天下り先として将来の俸禄(ほうろく)を確保する。
【政治家】
ほとんど世襲制と化したこの職業は、選挙に勝つことが最優先課題となり、大半の政治家は選挙民への利益誘導型政策に終始する。与野党の政治家とも基本的には「ばらまき政策」を支持。その原資である借金は次世代である若者につけ回していることを一切語らない。
【国民】
教育、雇用、老後生活、生活保障などについて多くの者は国家や政府の責任と信じている。過去の蓄積により、ある程度の豊かさを享受(きょうじゅ)し、自らチャレンジをしようという人は少ない。国内志向が強く、日本の相対的な没落に気づいていない。マスコミの耳当たりのいい情報に慣れ、自らの目で確かめ、自らの頭で考えることを放棄してしまっている。
すべての企業、マスコミ、官僚、政治家、国民が前述のように振る舞っているとは思わない。しかし大枠はこうした原理に支配されながら、停滞した日本が具現化されていると考えるのは、私だけなのであろうか?
◆今の世代が次世代の富を先食い
2014年8月に1千兆円を超えた国の借金は、現状のままでは更に増え続けていく。いずれ国民が払わなくてはいけない借金である。現在でも国民1人当たり約800万円を支払わなくてはならない。更に2014年度の国家財源は以下の通りで、年間50兆円以上の収入不足となっている。
歳入 45兆円 歳出 100兆円 <内訳> 社会保障費 31兆円(年金20兆円、生活保障3兆円) 地方交付税 16兆円 公共事業品 5兆円+5兆円(景気対策追加予算) 防衛費 5兆円 科学文教費 5兆円 その他 10兆円 国債借り換え 23兆円 |
ここで歳出の内訳を見ると、面白いことに気づく。アダム・スミスの「国家論」以来、本来国家の役割とされているインフラ整備(公共事業費)と他国からの侵略防衛(防衛費)については多額の支出も理解できる。しかしこれ以外に国民が国や政府の責任と感じる教育、雇用、老後生活対策、生活保障などの支出が日本では突出して多いのである。
これらの大口の支出項目はまさに「企業」「マスコミ」「官僚」「政治家」「国民」がそれぞれ責任や結果を他人任せにして自分に都合の良い果実だけを追求した結果なのではないだろうか?
現実の姿は明らかに、今の世代が次世代の富を先食いしたものであり、世代間の不公平な分配が行われている。このいびつな構造は遠くない将来、国民に大きな痛みを伴って降りかかってくるのではないかと、私は恐れている。
◆アメリカ的な行動原理が問いかけるもの
政府に任せ切って教育、雇用対策、老後生活対策を行うことが本当に良いことなのだろうか?「他者依存性社会」ではないアメリカであれば、その是非を判断する前に、まず他者を信じることをしないであろう。
もともと「大きな政府」と「小さな政府」を対立軸として米国内では民主党と共和党が存在するが、更に一切政府を信じない一派として「茶会派」が登場し、無視出来ない勢力を維持している。
他人を信用しないからこそ銃規制はいつまでたっても進展しない。警察や社会システムを信用しないからこそ金持ちは自分の費用で自宅に警備システムを導入する。労働の流動性が高く解雇が当たり前の社会がゆえに、アメリカ人は切磋琢磨(せっさたくま)して勉強をする。老後の生活も政府などに頼っていない。自ら金を貯め、自ら運用方法を勉強し、将来に備える。
人を信用出来ないアメリカ人は「さびしいアメリカ人」なのかもしれない。しかしアメリカは、ブラックマンデー(1987年)やIT不況(2001年)、リーマン・ショック(08年)など危機に何度も直面しながら、その自立した姿勢で復活を成し遂げ、世界一の豊かさを誇っている。
アメリカ的な行動原理に賛成されない方もいるだろう。しかし少なくとも、今回の総選挙がこうした日本の行動原理そのものを問う選挙であってほしかった、というのが私の今回の問いかけである。
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