山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
「住まい」にこだわって、本連載のスタート地点としてみた。『延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店、1987年)でも示唆されているように、生物の表現型は個体を超えて身の回りの環境を住みやすいように変えてしまうことがある。すなわち生物のニッチ構築が慢性疾患の治療に役立つという仮説から出発しよう。逆にとらえると、とても住みにくい環境自体が、慢性疾患のリスクファクターとなっているともいえる。先進諸国では長寿化が進んでいるので、産業革命以前と比較して「住みにくく」なっているはずはないのに、生活実感とは大きく異なる。
◆生活実感とかけ離れた技術の進歩
アップル社のヒット商品、アイフォンには「ホーム」と「ヘルスケア」というアプリが何気なく無料で配布されているのをご存じだろうか。「ホーム」は家の電気製品、すなわち照明、スイッチ、コンセント、換気扇、エアコン、カメラ、ドアなどをインターネットに接続するIoT(Internet of Things)の基盤技術(プラットホーム)であり、アイフォンがリモコンスイッチやタイマーとなる。「ヘルスケア」は病歴、血液検査、体重、毎日の活動量、血圧、睡眠などの健康関連データを一元的に集積している。アイフォン内蔵の多数のセンサーからのデータを分析するアプリと、医療機器などからの外部データを分析するアプリに標準データ形式を提供している。最先端技術が日常生活の一部となりつつあるのだ。それでも、認知症を代表的な例として、慢性疾患の治療は満足できる状況ではない。
技術の進歩は認めたとしても、「進歩」はどこか生活実感とかけ離れてきている。筆者はその根源に、デカルト的な直線的な進歩幻像があるのではないかと思う。世界は至る所で回っていて、生物は波動と確率の渦の中で生きているのに、現在の技術、特に情報技術は線形的な世界観で身の回りの物を塗りつぶしている。線形世界の照明が当たっているものしか見えないようになってきた。指数関数的な爆発的増加も広義の線形世界だ。指数関数に虚数を代入してみて、初めて波動の世界が見えてくる(有名なオイラーの公式のこと、※参考1)。
オイラーの公式は高校生数学でも理解できる美しい調和した世界だ。美しいとは思えない乱数の世界や量子力学の世界において、実は素数の波動が聞こえてくるとしたら、それはオカルト話だろうか。うさぎ小屋のような住まいであっても、確率の渦を直視すれば、大宮殿や大病院では不治の病も治癒することがあるかもしれない。
◆なめらかな世界
デカルトはユークリッド幾何学で見慣れた直線や平面に座標軸という目盛りをつけた。この座標軸の威力で、私たちが住んでいる世界は、線形的でゆがみのない3次元ユークリッド空間のように見える。アインシュタインが重力で空間がゆがむことを見抜いて、宇宙規模の幾何学はユークリッド空間のように単純ではないことが明らかになった。原子のような微小な物質を取り扱う量子力学は、もっと奇妙な空間であることもわかっている。私たちが容易に想像しうる世界の幾何学であっても、対象が線や点ではない場合、例えば関数や方程式の幾何学を考えると、ユークリッド幾何学では不都合なことがよくある。世界が完全にはなめらかとは考えられなくなる場合、無限遠点まで広がるユークリッド幾何学よりも、コンパクトな球面の幾何学のほうが取り扱いやすくなる。位相幾何学で球面は平面に一点を加えた空間として説明されている(下図)。球の一番上の点(極)が追加された点で、その他の点は球から平面への写像として1対1対応している。
多様体は球面などをゴムのように変形することまで考慮した、より一般的な空間のことだ。参考書にはドーナツの形が紹介されていることもある。位相幾何学が数学にとって、もしくは物理学にとって無くてはならない道具となったのは、多様体が微積分を計算する基本的な空間と考えられるからだ。数式は省略するけれども、積分する関数と積分の定義領域について、積分と微分が逆演算となる(一般化されたストークスの定理、※参考2)。積分の定義領域を微分すると、円の微分が円周で、球の微分が球面というわけだ。この微積分学の基本定理は非常に強力な定理で、できるだけ多くの場合で成立することが望まれ、位相幾何学に至っている。
住まいの幾何学に恐らく微積分学の基本定理は関係ないだろう。しかし筆者としては、住まいの至る所で回転する現象(波を打つ、ランダムに見える変動)を見いだしたいので、住まいの空間も積分ができる程度にはなめらかな空間であってほしい。住まいの空間は、少なくとも近傍関係(近さ)が定義された、コンパクトな(無限遠点が無くて局所的な近傍系で被覆可能な)多様体であってほしいと考えている。ランダムな変動が「回っている」ように見えるというのは、乱流が渦を作ること(例えばバスタブ渦、※参考3)、コイン投げの実験などから直感的にはありそうなことだけれども、数学的にはとても深い話のようだ。例えば、素数の分布について、『素数の音楽』(マーカス デュ・ソートイ、新潮文庫版、2013年)は数学者の想像力を垣間見ることができる。
◆出入り口は回っている
冷蔵庫の扉を開くと、乱雑な別の日常世界が出現する。昨日入れた牛乳はどこにあるのだろうか。近未来の冷蔵庫では、カメラが牛乳を自動認識して、牛乳が出入りする周期を計算しているかもしれない。玄関扉のカメラは家族の出入りの周期を計算する。出入りの周期は、オン(外出)とオフ(在室)の二つの状態が交互に現れる再生過程(renewal process)と考えられる。オン・オフの時間間隔は時刻や曜日などによって影響されるだろう。短いオンに短いオフが続く場合、何か物忘れをしたのかもしれない。科学者はイオンチャネルの開閉について、同様な解析を行ってきたが、冷蔵庫の扉、玄関、トイレの扉、パソコンのオン・オフなど身近な出入り口についてはほとんど興味を示さなかった。日常世界は絶え間なく別世界に出入りしている。普通ヒトは出入り口のデータを解析することなく、日常的な多世界を生きているのだけれども、引きこもりになったら、徘徊(はいかい)をする場合は、事態が深刻になっているのか良くなっているのかだけでも知りたいだろう。
冷蔵庫の話に戻ろう。牛乳の出入りと卵の出入りに関係があるかもしれない。出入りを調べれば、冷蔵庫の中身で何が何と関係しているのか、かなり分かってくるはずだ。時間の前後で原因と結果もある程度推測できる。牛乳と卵の関係は、単純な相関係数ではなく、多次元で回るコマのようなものなのだろう。なぜコマなのか、ゆっくり考えてゆきたい。
◆患者不在の医学研究
本シリーズでは、患者の立場から慢性疾患に気長に付き合う方法を模索している。できれば症状の兆候を早期発見して、様々なリスクファクターを回避・制御することで、本当の患者にならないことを願っている。最近、精神疾患関連の治療薬がうまく開発できていない。そこで日本学術会議は「精神・神経疾患の治療法開発のための産学官連携のあり方に関する提言」をまとめた。内容は科学的に立派なものだし、提言としても企業単独では困難な競争前連携に焦点を絞り、欧米の最新の取り組みと比較している。筆者としてはただ一つ、患者不在の医学研究となっていることを大いに危惧した。
精神・神経疾患は患者自身が自発的に医療を受け入れにくい特殊な疾患といえるだろう。認知症の治療、統合失調症の治療を想像すれば、がんなどの治療とは状況が異なることがよくわかる。むしろ家族など、患者の近親者が医師と相談することが多いのだろう。しかし、最後の最後は、病気による不都合が患者自身でしか分からないのも事実だ。それでは患者の行動を24時間観察したらどうだろうか。よほど特殊な状況で、事前の合意が無い限り、プライバシーの問題で実現できそうにない。心臓疾患の場合は心電図の24時間連続記録が有効な手段となっている。難治性てんかんでは脳波の24時間連続記録を行う場合もある。てんかんの場合は脳波から行動の異常が正確に理解できるので行動を記録する必要はない。認知症の場合は、たとえ脳波を測定できても、脳波から行動の異常を推定することは困難だ。
ドア開閉の時間分布から、認知症の行動異常を検出することができるかもしれない。しかし重要なのは、患者さんの日常生活に役立つ支援が、症状の記録になるような工夫だろう。例えば、鍵の閉め忘れを検出して、閉め忘れを起こしやすい状況を分析する。こういった詳細な日常生活における問題点に関するデータが無い限り、画像診断や血液検査のデータ解析は、医師、患者自身または親近者の主観的な症状判断に依存せざるを得なくなる。
日常生活に役立つ支援とは日常生活への介入であり、臨床試験の枠組みで考えると分かりやすくなる。アップル・ホームやアップル・ヘルスケアは無料のサービスとしてではなく、臨床試験の倫理性として受け入れるかどうか考えたほうがよい。もちろん、グーグルやマイクロソフトも同様なサービスを行っている。そのメリットとデメリットが文章に記載され、いつでも無条件にやめられることが最低の条件になる。最終的に、データは患者個人のものとなる。
医学研究から患者がいなくなり、アップル、グーグル、マイクロソフトが患者さんを含む世界中の人々の日常データを集積している。日本学術会議はグローバル企業の活動にはあまり興味が無いかもしれないけれども、患者さんの立場から、グローバル企業に向けた提言があってもよいだろう。
次回は連想記憶の空間とコマの幾何学を勉強してみたい。
参考1;オイラーの公式https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
参考2;一般化されたストークスの定理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
参考3;バスタブ渦
http://www.jps.or.jp/books/jpsjselectframe/2012/files/12-07-1.pdf
参考4;日本学術会議、精神・神経疾患の治療法開発のための産学官連携のあり方に関する提言(2017年7月28日)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t247-4.pdf
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