п»ї 住まいの多様体(その4)『住まいのデータを回す』第4回 | ニュース屋台村

住まいの多様体(その4)
『住まいのデータを回す』第4回

9月 19日 2017年 社会

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山口行治(やまぐち・ゆきはる)

株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。

数学の話題は日常的ではなく、難しいだけで役に立たないと思われるかもしれない。前回「住まいの多様体(その3)」で、「複素数の実在性」の話をした。筆者の物理的直観を素直に述べたものだが、多くの人は言語を信じることはあっても、数字は信じないだろう。数字は道端の石ころのようなもので、そこに在って躓(つまず)かないようにしても、信じる対象ではないからだ。しかし、複素数の実在性を信じると、世界が違って見えてくることを、つたない言葉で伝えたい。

◆私という他者

「住まい」に住むのは私と私の家族だ。筆者は賢妻と2人暮らしだが、かつては娘や猫たちと暮らしていた。もっと昔には両親や妹たちもいた。もし私が1人暮らしをするようになっても、家族の記憶と共に住むことになる。もっと面倒なのは、私という他者と住んでいるということだ。私という他者を、単純に自己の内部としての私と、外部から見られている私という位置づけてみよう。外部から見られている私は、近所付き合いをして見栄っ張りな私だ。しかし厄介なのは、それぞれ自己の内部としての私も外部としての私も、1人とは限らないということだ。内部としての私が「人格」として複数になれば、精神科のお世話になることになるけれども、複素数の実在性を信じる私と、ウナギが食べたいと思っている私であれば、多少おかしくても許容範囲だろう。外部としての私も、会社では社長であっても、ごみ出しをする近所のおじさんでもありうる。哲学的な議論をしようというのではなく、複素数の実在性とは、文学的には「私という他者」のようなものかもしれないということが言いたかった。表と裏、内部と外部が同時に存在する場合、複素数はとても都合がよい。実数では片面しかとらえられないので、居心地が悪いのだ。多様体の理論も、複素数の場合に真価を発揮する。

◆住まいの多様体

「住まい」を多様体のようなものとして、私とか私の家族が住む空間の抽象的な特徴を考える場合、最も大切な性質は局所的に微分可能で、流体力学や統計力学のような、力学的な素描が可能になることだ。局所的に微分可能だから、ドアの出入りが部屋の中の移動とは別に記述できるようになる。部屋の中の移動も、定位置からの巡回と定位置の移動に分解できる。力学的なイメージには微分が役立ち、データを取得するためには、微分の逆演算としての積分が大切になる。微積分学の基本定理(※参考1)を拡大解釈して、住まいの中で定義される微分可能な変量の総和(積分)は、住まいの境界、すなわち出入り口における積分された変量の総和となるのだろうか。

住まいの多様体として、生活データを再考する動機は単純で、「住まいのデータを回す」ことに他ならない。生活のリズムを分析して、認知症のような慢性疾患の予防および治療に役立てようという、それだけの目的なら面倒な数学は必要ないと思われるだろう。しかし断片的な生活データが得られたとしても、そもそも慢性疾患や「私という他者」との関係を理解するためには、慢性疾患や「私という他者」も回転して、全てのデータが住まいの多様体における力学的運動として記述しうる、共通の空間を必要としているという発想だ。

◆遺伝子も回っている

慢性疾患が回っているイメージは理解しがたいだろうか。認知症の症状が、良い時もあり悪い時もあり、それでも次第に悪化していくという現象そのものはよくあることだろう。その周期性は日内変動であったり、月周期であったりするかもしれない。環境因子の周期が重要であることは間違いないが、慢性疾患においては、代謝回転や異常たんぱく質の発現の周期に問題があることも十分に考えうる。細菌や藍藻(らんそう)などの原核生物は、1本の環状の染色体をもっている場合が多い。生物か無生物か分かりにくいウイルスの多くやウイルスよりもさらに単純な遺伝子だけの生物(?)プラスミドも環状の遺伝子(DNAやRNA)からできている。環状の遺伝子は化学的に安定なので進化論的に有利かもしれないけれども、高等生物では老化に関連した遺伝子を、DNA鎖の末端に配置するという高度な戦略を開発した。筆者の解釈では、ウイルスやプラスミドでは環状の遺伝子とすることで、遺伝子発現を物理的に回していたけれども、高等生物では遺伝情報を複数コピーし、多数の遺伝子が相互に遺伝子発現を調節することで、プログラムとして実行ループを作っているのだと推測している。

遺伝子と病気の関係は遺伝病だけではなく、ほぼすべての疾患について網羅的に調べられている。日本遺伝学会は「優性」「劣性」という遺伝表現を改め、「顕性」「潜性」とするそうだ(※参考2)。「変異」は「多様性」となる。筆者も優生保護法が1996年まで存在していたということも含めて、遺伝がいかに誤解されているかということには無関心ではない。しかし、遺伝子発現としてタンパク質に翻訳される場合は誤解されないことが大切だが、発現調節の遺伝機構はほとんど未知の領域であることを、まず知っておくべきだと思う。遺伝子変異から遺伝的多様性が生じるメカニズムも定説はない。そもそも「多様性」の検証可能な科学的定義はない。遺伝子が回っているというイメージが実感できるようになる日がくるのだろうか。DNAは二重らせんなので、1本鎖とするときにはものすごいスピードで回転することになるという説もあったけれども、もちろんそのようなことは無い。

◆回る世界と線形代数

統計計算は、ほぼ全て行列計算となる。線形代数の世界だ。統計計算が可能になるのは、逆行列が計算できる場合で、逆行列の計算は一般には簡単な課題ではない。逆行列が存在することが分かっているのに、計算できない場合は、近似的に計算することになる。このような近似計算はいつ終了するかわからず、計算し続ければ近似が向上する保証もないので、数学者は信用していない。データを見ていると、このような数学的な問題よりも、データそのものの問題が大きいので、近似計算であっても大きな問題には思われなくなる。

おそらく読者は(もしいるとすれば)、このような話題はどうでもよいことを延々繰り返していると思われるかもしれない。本当は逆なのだ。筆者は、多くの賢者たちと同じように、行列計算に満足していた。テンソル解析やスピノールで行列計算を拡張できることにも興味を持っていた。しかし、そもそも線形代数が特別なのは、容易に解が求まる、少なくとも解の存在が保証されているので、近似計算をすればよいと「信じて」いたことに問題があることにやっと気づいたのだ。微分方程式の解が厳密に求まるのは線形方程式だけではなくて、楕円関数の世界でも同じ事情で、複素数の世界は線形性と回転を同等に扱うことができる素晴らしい世界であることを知らなかった。知らないということは恐ろしいことなのだけれども、私たちは限りなく無知な世界で生きている。

◆目標を設定して達成するループ

ビジネスの世界(損得が問題になる世界)で仕事をしたことがあれば、See-Think-Plan-Doのサイクル(その精密なバージョン)の話を聞いたことがあるはずだ。筆者は英国で運転免許を取得したときに、初めてこのサイクルを教えてもらった。自動運転の時代では、このサイクルを人工知能が実行するのだろう。しかし、このサイクル自体は目標を設定していない。運転して目的地に行く場合でも、自動車競技のように、時間を争う場合もある。ビジネス以外で、目標(ゴール)が明確になることは稀だろう。筆者の好みである「愛と冒険」の物語においても、究極のゴールは明確ではなく、当面のゴール(結婚したり無事に帰宅すること)で満足していることが普通だ。あえて言えば、こういったループを回し続けていれば、いつか究極のゴールに近づけるということを信じているだけのことかもしれない。

このような懐疑的な考察はデカルトが言う「方法的懐疑」ではない。実数の実在性を疑いながら、複素数の実在性を信じる懐疑だ。もちろん複素数は神ではないから、デカルトのような分かりやすい話にはならない。実数の実在性を疑うのは、あまりに少ない超越数としての実数(π、e、Ωなど)しか知らないということと、√などの無限個ある無理数は有理数体の拡大として取り扱えることを知っているからだ。複素数の実在性を信じるのは、データは回っているという実感だけに支えられている。

データによって表現される世界と、物理的な世界は同一でないことを認めたとしても、全く対応関係が無いとは思えない。数学は人の想像力の産物であり、物理的な世界の実在性に根拠を持っている。データはコンピュータにとっての自然であり、計算可能な世界で生きることを拒否できない現実に根拠を持っている。論理的には真なる命題を肯定も否定もできないことがあることが証明されていても、経済的な支配の合理性を否定できない、コンピュータと共に生きる時代を「前向きに」生きるしかない。

◆チャイティンの生命モデル

ハンガリー出身の米国の天才数学者フォン・ノイマンは、生命の本質はオートマトン(計算の原理を解明するために考案された数学的モデル)によって数学的に探究可能であることを1951年の論文で明確に述べた。この論文は、米国の分子生物学者ジェームズ・ワトソンと英国の科学者フランシス・クリックが「DNAニ重鎖モデル」を1953年に発見して以降、生命の本質はDNA鎖であることを多くの生物研究者に印象付けた。アルゼンチン出身で米国在住のコンピュータ科学者グレゴリー・チャイティンはフォン・ノイマンのモデルを発展させ、生命の本質はプログラムのアルゴリズム的進化機構にあるという数学理論を展開している(『ダーウィンを数学で証明する』〈早川書房、2014年〉)。

筆者はチャイティンの提案は素晴らしいと思う。しかし、「プログラム=アルゴリズム+データ構造」と見抜いたスイスの計算科学者ニクラウス・ヴィルトを尊敬し、データベース技術の実用性を疑わない筆者としては、アルゴリズムだけではなく、生物にとって「データ」とは何かが特に気になっている。

チャイティンが理論生物学の出発点として認めている英国の生物学者ジョン・メイナード・スミスは、進化における情報の役割を詳細に検討しているけれども、「データ」という視点には立っていない。データよりも情報のほうが数学理論として確立しているかもしれないけれども、どちらも数学的には確率論を基盤としている。情報量やエントロピーを議論するのであれば、データには勝ち目はない。しかし統計的「独立性」について熟考すれば、素数の性質に行きつく。数学は素数なしには生きていけない。素数が、自分よりも小さい素数に束縛されながらも、最も独立な整数であることを主張しているように、進化においても、過去の種(または親)に束縛されながらも、独立な生存(筆者は淘汰〈とうた〉よりも独立性を重視する)を模索する生命と素数が重なって見える。

素数を判定するアルゴリズムの進化にデータが重要であっても、情報理論はほとんど役立たない。情報理論は素因数分解による暗号理論に依存していても、その逆ではない。筆者の「データを回す」議論が虚妄や空論である可能性は大いにありうる。しかし同時に、現在私たちが信じている、もしくは信じていない科学理論は、特に確率論は、あるべき姿の百分の一すら見えていないのかもしれない。確率論に関する(筆者自身を含めて多くの人たちの)無理解が、慢性疾患治療の不具合、未発達に関係しているという筆者の視点は、少なくとも新しい方法と動機を与えてくれるという意味で、ロボットや人工知能技術による慢性疾患治療へのアプローチと相補的であろう。

次回は本稿導入部の最後として、当面の目標をまとめてみたい。(1)リハビリテーション医療としての慢性疾患の予防および治療、から始めて、認知症とともに生きる住環境まで、各テーマを5回程度でまとめて、「コマの幾何学」に関する勉強を継続する計画となる。

参考1;微積分学の基本定理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%88%86%E7%A9%8D%E5%88%86%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%AE%9A%E7%90%86

参考2;日本遺伝学会の用語改訂
http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/06/genetics-society_a_23199512/

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