迎洋一郎(むかえ・よういちろう)
1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。
入社以来、自動車用ゴム押し出し、型成型部門、製造部門で働いてきたが、1989年1月に樹脂外装部品やハンドル、さらには新しく開発されたエアバッグの量産を担当する一番歴史の新しい工場の工場長に就任した。
日本経済は当時バブルに突入し、労働力不足は深刻で猫の手も借りたいとはこのことだと思い知らされた時期である。従業員も新規採用者が多く、納期、品質、収益においても常に問題の多い工場であった。
この時期、自動車は大衆化が進み高級感への転換が著しく、ハンドルも樹脂材料から柔軟性の高いポリウレタンに変わり、さらに革巻きハンドルについてはその受注が5倍、10倍と激増していたのである。今回は「サプライヤーも自社の一部門である」ということを、身をもって学んだ当時の苦い経験について詳しく紹介したい。
◆人生最大の危機
全職場でのヒヤリングや前工場長からの引き継ぎなどを踏まえて、課題を整理。生産の混乱の元凶は品質保証管理の弱体化と考え、最優先で改善を行うべく陣頭指揮を執り始めた。ところが、大きな落とし穴が待ち構えていた。私にとって、人生最大の危機を迎えるに至ったのである。
その工場では、革巻き加工は協力工場に100パーセント丸投げしていた。革の世界は専業の会社が独占しており、外部委託するのが一般的だった。協力工場の管理は、弊社の工場工務課が行っていた。協力工場を監督する弊社の管理責任者からは、「協力工場の増産対応は問題ないことを確認してあります」と報告を受けていたので、外注工場のことは担当部署に全面的に任せていた。
ところが3カ月ほど過ぎた頃から、納入遅延件数が増加し始めたのである。そこで再び、「外注は本当に大丈夫なのか」と担当部署に確認すると、「A協力会社の社長が責任もって頑張ってやる、と約束してくれました」との返事が返ってきた。
会ったこともない、見たこともない社である。不吉な予感が走り、まずは関係者を集め現地に乗り込んだ。車中で内容に詳しい担当者に事情を聞くと、「革が硬くハンドルにかぶせる工程の作業が間に合わないのです。人を充当してもすぐに退職してしまいます」と本音が出てきた。
加工工場に直行し革をかぶせる現場をみると、10人余りの男性作業員が必死の体(てい)で仕事をしている。すぐに私は作業者に代わってもらい要領を教えてもらって作業をしてみたが、革を伸ばす力が不足して簡単にはかぶせられない。四苦八苦してかぶせても、今度はハンドル本体と革の位置合わせがうまく出来ないのである。
その作業者曰(いわ)く、「朝から夜遅くまでやらされると、手が腱鞘炎(けんしょうえん)になってしまいます。だからみんな退職してしまいます」と強い口調で文句を言ってきた。
張り合わせた革は縫合しなくてはならない。無理に伸ばした革なので口開きも大きく、縫い合わせる作業もこれまた困難をきわめた。糸締めによる革の切れ、さらに革の外観品質不良多発などの多くの問題を抱えていた。
このような状況下で、革巻きハンドルは5倍、10倍に増産されようとしているのである。計算してみると、あと2~3カ月のうちに縫製作業員だけでも400人、その他の加工でも100人近い作業員が必要となる。時はバブルの最盛期で、求人広告を出してもらうが応募者ほとんどなし。「断崖絶壁に立つ」とはまさにこのことだと悟った。
こうした苦難な状況ではあったが、社長の強力なリーダーシップのもと、緊急対策として他部門から100人の応援部隊をもらい人海戦術で対応した。一方、取引先の自動車会社の生産管理部門担当役員もすぐに工場に足を運び、事態を理解した。当時は革巻きハンドルを広くオプション売りとしていたが当面、これを中止。また当時、74色の革巻きハンドルを用意していたがこれを30色に絞りこんでもらい、作業遅延の混乱の早期解消を図った。
◆協力工場の作業見直しで飛躍的に改善
一方、われわれ製造現場では早速、協力工場の作業見直しに着手した。皮革は当時高額商品で、歩留まり率を高める目的で協力工場では革をハンドルに巻きつける際に30%の膨張率を見込んで引きのばし作業を行っていた。しかし、この作業は技術的に難しく、熟練工でもハンドル1本巻きつけるのに1時間かかっており、また作業途中での引きちぎりなどで30%の不良率が発生していた。
このため、材料費のコスト増を覚悟の上で、巻きつけ作業時の膨張率を10%まで引き下げてみた。これにより巻きつけ作業はかなり容易になり、作業時間は30分に短縮、不良率も最終的に5%まで低下し、材料費のコスト増は不良品比率の低下で補ってまだおつりが出てくる状態となった。
縫製作業員の不足状態は依然解消されていなかったが、革巻き作業が容易になったことで近所の主婦たちに内職作業をお願い出来るまでになってきた。こうした中で、80年代後半から家電メーカーなどの中国移転が進展。その下請け企業の業態転換が必要となり、4社が革巻き作業を引き受けてくれ、危機を脱出できたのであった。
製造作業の大混乱の原因は、一義的には革巻き加工サプライヤーの不始末ではある。しかし、それを予測し得なかった弊社の生産本部や工場工務課の怠慢、つまり丸投げして管理をしなかったことも大きな要因である。また、事の重大さを定量的に解析し、予想される問題を関連部門にも提起し、その課題の一つ一つについて現場を検証する活動も全く行われなかったために対応が遅れてしまったのである。
サプライヤーは自社の一部門であるという認識を持っていたら、こうした問題は起こらなかったであろう。また、私が工場長就任と同時に協力工場に赴いて実情を把握していたら、もう少し解決は早かったであろう。私自身、大いに反省し悔やんだ次第である。
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