山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
会合のたびに「大筋合意か」と伝えられてきた環太平洋経済協力連携(TPP)は、どうやら暗礁に乗り上げたようだ。あいまいな表現をするのは、TPPは各国に「守秘義務」を課し、交渉内容は国会にさえ報告されないからだ。
とはいえ、12か国が参加し20を超える分野で政府関係者が交渉しているのだから、情報は漏れてくる。伝えられるところによると、最大の障害は「知的財産権」だった。著作権や特許権、具体的には薬品特許やディズニー映画の放映権などを何年後から無料開放するか。「知的財産」で儲けたい先進国とカネを吸い上げらえるのがイヤな途上国の対立が解けなかった。
◆先進国の都合で進められてきた経済交渉
TPPは、経済から国境を無くし関税や制度を一つにしようという試みだ。競争力をむき出しにしてビジネスをしようという自由貿易の考えが土台にある。対等な競争では分(ぶ)がない途上国は不安だ。先進国に度量があった頃は、途上国の主張をのむこともあったが、グローバル化で多国籍企業が世界市場を席巻する昨今、甘い話はできない。その対立をTPPは超えられなかった。
どの国も得意分野では他国に市場開放を迫るが、守りたい産業がある。日本は自動車を売りたいが農産物はダメ。アメリカはその反対。日米ともに「知的財産は保護しろ」と主張し、途上国は「薬価が上がったら医療体制がもたない」などと反対した。
経済交渉とは何なのか。これまでの流れを振り返ると分かりやすい。ガット(GATT=貿易と関税の一般協定)に始まる戦後の貿易交渉は先進国の都合だった。まず先進国間の市場開放がお互いの産業を切磋琢磨(せっさたくま)するという考えから関税の引き下げが進んだ。
その動きが、産業化が進む途上国を巻き込むようになる。「エマージングマーケット(新興市場」として魅力が出てきた途上国に市場開放を迫る口実が自由貿易だった。そして、工場を造ったり販売網を整備したりするなど投資先としても途上国は大事になる。GATTからWTO(世界貿易機関)へと発展し、世界規模で経済国境の撤廃へと動いたのは先進国の都合だった。途上国が抵抗する。先進国でも「グローバル資本の身勝手な利益追求を許す」という声が市民から上がり、WTOは機能不全に陥る。
◆米国が小国の集まりを「ハイジャック」
世界規模の自由貿易は無理なら、調整が可能な地域で始めよう、とシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4か国が始めたのがTPPだ。シンガポールはハイテク・物流、ブルネイは天然ガスに頼る一本足経済、チリは鉱物資源、ニュージーランドは畜産。得意分野がはっきりしている小国の集まりだった。自動車などどこの国でも造っていない。つまり弱い産業ははじめから諦めている仲間内の集まりだった。
米国が参加したことで流れが変わった。アジア太平洋が成長市場と見たオバマ政権が小国の集まりを「ハイジャックした」のが今回の交渉である。そこで日本が誘われた。アメリカ対小国ではバランスが取れない。アジアの経済大国を巻き込んで、やがては世界に広がる「新経済ルール」をつくってしまおう、という野望である。
WTOで失敗した世界規模の自由貿易を「環太平洋」で実現する。その視野に中国が入っている。欧米流の自由貿易に抵抗する中国を周囲の国から取り込み、やがては米国主導の経済ルールに従わせる、という長期戦略である。オバマ政権が掲げる「リバランス」と呼ばれるアジア重視政策の経済版が「TPPの乗っ取り」といえよう。
オバマ政権はイラク、アフガニスタンから兵を引いた。共和党政権が広げた戦線を縮小するのがオバマの仕事だ。海外での戦争は国威発揚となり国民は一時熱狂するが、死傷者が増えるにしたがい戦争は不人気政策になる。武器弾薬の集中投下は一部の産業は喜ぶが、政府予算を食いつぶす。地球の裏側まで大部隊を送る戦争で、米国財政は支払い不能(デフォルト)にまで追い込まれた。
「世界の保安官」を諦め、軍事予算を削り、経済発展に重点を置く。それがオバマの方針で「発展市場であるアジアで稼ごう」というTPPは、「重点地域の見直し」を意味するリバランスそのものだった。
アジア市場を取り込む、という方針で日本市場が標的になった。やがては中国も含むアジア全域だが、手っ取り早く成果を上げるには経済大国で開かれていない市場をこじ開けることだ。農業・医療・保険・金融が重点分野になった。TPPと並行して始まった日米2国間交渉が舞台だ。「守秘義務」のベールに包まれているが、日本はコメ、牛肉、豚肉など農産品の輸入拡大、日本郵政ネットワークの米資本への開放などに応じた。TPPは漂流しても2国間で合意した事項は遠からず履行が迫られる。
◆米国に市場と自衛隊を差し出す日本
TPP交渉こそオバマ政権の大方針である「リバランス」の経済的側面だ。軍事的側面は「安保法制の改変」である。
日本では中国・北朝鮮の脅威が喧伝(けんでん)され、「周辺の安全保障環境が大きく変わったから米国との連携を深める」と説明されるが、米国は尖閣(せんかく)諸島や北朝鮮で日本を助ける気などさらさらないだろう。
米国は中国をけん制するが、一戦を構える気は毛頭ない。偶発的な武力紛争が起きることを極度に警戒している。むしろ尖閣を巡り対中敵愾心(てきがいしん)を煽(あお)っている日本政府の現状を心配している。
「尖閣で小競り合いが起きたら、日本を応援することはない。むしろ止めに入るのが米国だ」。防衛省OBで内閣官房副長官補だった柳澤協ニ氏は言う。
財政難の米国は軍事費の削減が大命題だ。日本の防衛予算(約5兆円)に相当する額を毎年減らし続ける計画だ。その一方で、太平洋に張り出す中国海軍を抑える兵力を維持しなければならない。イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)の脅威にさらされる中東の治安維持にも目配りが必要だ。だからこそ、敵視してきたイランとの和平にも動いた。日本に求めるのは、米軍が担ってきた軍事行動の一部を肩代わりさせることだ。
日米安全保障条約は、日本防衛のため極東地域で日米が協力することを約束している。ところが、このほど改定された「日米防衛協力に関するガイドライン」では、米軍と自衛隊の協力に極東という縛りが無くなり、世界に広がった。世界で手薄になる米軍の機能を日本が補うことが期待されている。
TPPでは市場を、安保法制では自衛隊を米国に差し出す。リバランスに伴う日本の動きは対等な2国間関係と言えるだろうか。
ちなみに、TPPの漂流は先進国と途上国の関係だけではない。農産物を巡る先進国間の対立が影を落とした。カナダは乳製品の関税引き下げを譲らなかった。ニュージーランドは完全な自由貿易を求めた。
「われわれはTPPのオリジナルメンバーだ。自由貿易を推進するためにこの交渉がある。我が国はTPPから離脱する考えはない」とするニュージーランドの言い分には理がある。
もともと小国の集まりにアメリカが乗り込んできてTPPの性格が変わった。アメリカの都合で運営するな、ということである。TPPはカナダ、ニュージーランドという同盟国でさえ自国の核心的課題である農業は譲らない。日本はどうなっているのか。
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