п»ї 崩れ落ちた間違いだらけの私の西洋史観 『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第129回 | ニュース屋台村

崩れ落ちた間違いだらけの私の西洋史観
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第129回

10月 12日 2018年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

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バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住20年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

バンコック銀行の定年年齢である60歳になってから始めた夏のヨーロッパ旅行。バンコック銀行は寛容にも私の雇用を延長してくれたが、あわせて長期の夏休みを許可してもらった。今年で4回目となる長期の夏休みである。これまでの3年間、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダなどヨーロッパの主要国を訪問してきた。すでにヨーロッパの主要国は訪問し終えたため、今回はヨーロッパの中心国ではないオーストリア、チェコ、ハンガリーなどを訪問することにした。しかし、この認識自体が私の大きな間違いであった。私の無知のなせる誤解である。オーストリアなど中欧諸国は決してヨーロッパの非中核国ではない。むしろヨーロッパの歴史の中でヨーロッパの覇権国であり続けたのである。

◆欧州でのオーストリアの位置づけ

私が中学、高校で習ってきた世界史は一部中国の記述を除いては、ヨーロッパの歴史が中心であった。ギリシャに始まり、ローマ帝国の建設、カトリック教会の支配、16世紀にはこれに対峙(たいじ)する宗教改革、その後プロテスタンティズムに支えられた勤勉な市民層が誕生し、絶対王政に抵抗し市民革命が勝利する。市民革命は資本主義と民主主義を生み、ファシズムにも打ち勝って現代にいたる。

かなり大ざっぱに言えば、世界の歴史はこうした流れであり、この世界の歴史に登場する国はギリシャ、イタリア、イギリス、ドイツ、スペインなどである。そして、この西洋史観こそが世界の標準だと長い間私は信じていた。

ところが、1998年にバンコクに赴任して、私はこの認識が間違っていることに気づかされた。タイ赴任後、私はすぐにタイのことを勉強した。残念ながら、タイには当時、日本語で書かれたタイの歴史書がなかったため、イギリス人とフランス人が英語で書いたタイの歴史書を読み、年表を作った。この他にも、仏教や社会学の本からこのタイの歴史理解を補強してきた。そこには私が全く知らなかったタイの歴史の流れと必然性が存在した。私がこれまで習ってきた西洋史観とは全く異なった歴史認識である。数千年の歴史に裏打ちされた現在のタイの社会、文化、タイ人の考え方。タイを知れば知るほど、「我々日本人は軽率にタイを馬鹿にしてはいけない」と私は肝に銘じたのである。

ところが、今夏中欧を訪問してみて私が学生時代に勉強し信じていた西洋史観そのものの信頼性が崩れ落ちたのである。今回はオーストリアの歴史についておさらいするとともに、オーストリアが演じてきたヨーロッパ内での重要な役割についてお話ししたい。

◆ハプスブルク家の栄光と終焉

オーストリアは中欧という地理区分に属するが、その中心部を東西にドナウ川が横断する。このドナウ川はロシアのボルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河で、ドイツ南部の森林地帯「シュヴァルツバルト(黒い森)」に始まり、中欧・東欧の10カ国を通り黒海に流れ込む。また、このドナウ川の河口にはドナウ・デルタが広がる。

人間の移動は蒸気機関が発明される近代までは水運をつかさどる海と川の役割がきわめて大きかった。ヨーロッパの歴史を理解する上でも、川の位置は重要である。ヨーロッパの大都市は例外なく川の流域に建設されている。支流を含めれば、ドイツのみならずイタリア、スイスにも通じるドナウ川の流域にあるウィーン及びオーストリアが栄華を誇ったのも合点がいく。

もう一つ地理上で重要なことは、ドナウ川の流域にあたるオーストリア北部からハンガリー、ルーマニアに続く平原。更にはウクライナからモルドバ、ルーマニアを通ってドナウ川河口に流れ込むプルト川の流域など、中欧・東欧地帯は広大な平野を有していることである。この平野の先は、中東諸国やアジアにつながっている。このため、アジア・中東から度々侵略を受けたが、一方で交易を通じて経済繁栄と文化興盛に大きく貢献した。こうしたこともオーストリアが中世ヨーロッパに君臨した大きな要因であった。

さてオーストリアは、中世から近代にかけ650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第1次世界大戦直前もイギリス、フランス、ドイツ、ロシアと並ぶ欧州5大国の一角を占めたが、ローマ時代にはケルト人が住みつき、ローマ帝国の属国となっていた。385年にローマ帝国は東西に分裂、476年にはゲルマン人によって西ローマ帝国は消滅。その後、ゲルマン人中心のフランク王国が出現する。この時代、オーストリアはスラブ人、バイエルン人やアジア系のアヴィール人(現在のハンガリー人)の侵略を受けながらケルト人との同化が進んでいく。オーストリアは東フランク王国の辺境領として幾つかの王家に治められていく。このオーストリアに一大転機をもたらしたのがハプスブルク家である。

ハプスブルク家は10世紀ごろはスイス北東部にあった貴族の分家であったが、11世紀から13世紀にかけてスイス各州で貴族の利権を獲得。更に婚姻政策を推し進めることによって、スイスで中堅クラスの公国をつくっていった。当時ドイツはローマ帝国の正統な継承者を自称するため「神聖ローマ帝国」を名乗っていたが、実態は強大な軍事力を有する有力ドイツ諸侯の連合体であり、神聖ローマ皇帝はこれら有力ドイツ諸侯の互選で選ばれていた。

ここに有力ドイツ諸侯のかけ引きが行われ、1273年ドイツ諸侯たちはスイスの弱小国のハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選出した。その後1278年、ルドルフ1世はオーストリア・チェコを支配していたボヘミア王オタカル2世を撃破し、オーストリア公国を設立。もっぱら支配の軸足をオーストリアに移した。

1438年以降、神聖ローマ皇帝はオーストリア大公であるハプスブルク家が世襲するようになる。15世紀にはマクシミリアン1世は「結婚政策」を推し進めることにより、スペインほか、フランス・ブルゴーニュやベルギー、オランダなどを家領として取得。ハプスブルク家が本拠としたウィーンは政治・経済・学問の中心となる。また、スペインは大航海時代の成果として新大陸に植民地を有しており、ハプスブルク家は「太陽の沈まない帝国」となった。

16世紀に入るとドイツではマルティン・ルターの宗教改革が始まり、神聖ローマ帝国は動揺した。各国の国王や諸侯からの寄付金が細り始めたローマカトリック教会は、資金集めのために免罪符の販売を開始。これにルターが立ち上がったというのが当初の構図があるが、「カトリック=悪」「プロテスタント=正義」という単純構造では語れない。カトリック教会から皇帝の地位を権威づけられ、カトリックの擁護者として振る舞わなければならない神聖ローマ帝国のハプスブルク家。これに対して独立を目指したドイツ諸侯が、宗教改革を「錦の御旗」に挑んだ政治の闘いのニュアンスが強いように思われる。

スペインのハプスブルク家も同様に非カトリック教徒への迫害を強めたため、商才に長けた多くのユダヤ人が羊毛業で栄え始めたオランダに移り住んだ。これがオランダが海洋覇権国の座をスペインから奪った最大の要因だ、と私は思っている。宣教師を先頭に立て、キリスト教社会の征服を企てたスペインに対し、商売による互恵関係を重視したユダヤ人中心のオランダ。この構図ではオランダが勝つことは歴史の必然であったのであろう。なぜならば、鎖国下の日本だって「オランダを選ぶ」選択をしたのだから。

16世紀から始まったオランダ独立戦争と並行して1618年にチェコのプラハ城内でカトリックとプロテスタントの小競り合いが起こると、これを契機に三十年戦争が起きた。この三十年戦争は「宗教戦争」と呼ばれるが、その実態はそれまで権勢を誇っていたハプスブルク家に対するヨーロッパ諸国の挑戦である。それが証拠に、キリスト教国であったフランスも反ハプスブルク家側にまわった。この三十年戦争はハプスブルク家の敗北に終わり、1648年ウェストファーレン条約が結ばれる。このウェストファーレン条約は、日本では「プロテスタントの信仰の自由が認められた」ことだけに注目が集まるが、世界の外交史の中ではきわめて重要な条約である。それはヨーロッパ諸国が初めて「内政不干渉」とう原則を認めたことにある。

これ以降、近年アメリカが登場するまでは「内政不干渉」は外交上の不文律の原則であった。ところが「人権外交」などと言って平気で他国の内政に干渉するアメリカの姿勢に、日本国民も「不感症」になってしまったのだろう。昨今の日本のマスコミは他国への干渉記事に満ちている。

三十年戦争以降、ハプスブルク家はその権威が大きく低下し、その実質支配地域はオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどに限定されてしまった。しかし、ハプスブルグ家は依然として神聖ローマ皇帝としてヨーロッパの盟主として振る舞い、旧体制の維持に奔走する。19世紀に入ると、ドイツ統一戦争、フランス7月革命、イタリア統一戦争、ラテンアメリカ諸国の独立などオーストリアが進めていた旧体制が崩壊。ハプスブルグ家は名目的とはいえ、所有していた領土の多くを失う。すでに1806年には神聖ローマ皇帝の称号を返上。1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国として領土を再編し、現在のオーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどを統治する中央ヨーロッパの大国の地位を維持することに成功。帝都ウィーンは世紀末芸術の花が咲くなど繁栄した。

1914年サラエボ事件を契機に発生した第1次世界大戦では、オーストリアはドイツ・オスマントルコなど同盟国を結成し、フランス、イギリスなどの連合国と戦ったが、1918年に降伏。皇帝カール1世は共和制への移行を宣言し、600年にわたるハプスブルク家の統治は終焉(しゅうえん)した。翌年のサンジェルマン条約により、ハンガリー、チェコスロバキアが独立。オーストリアの領土は4分の1まで縮小。その後、第2次世界大戦前にはナチス・ドイツによりドイツに併合されてしまう。残念ながらオーストリアはヨーロッパの現代史では影の薄い存在になってしまったのである。

◆オーストリアの繁栄と栄華を認識

歴史の講義でもないのに長々とオーストリアの歴史を書いてしまったが、我々日本人にとってオーストリアはさほど身近ではないと感じているのは、私だけではないと思う。オーストリアにはオーストリアの固有の歴史があり、そこにはオーストリア固有の偶然性と必然性がある。ヨーロッパの中世は暗黒の時代と見なされるが、その時代に「神聖ローマ帝国」として秩序維持に貢献し繁栄してきたハプスブルク家のオーストリア。私が学生時代に勉強してきた西洋史の中では、オーストリアの歴史的重要性にはほとんど触れられてなかったような気がする。

今回ハプスブルク家が最後に統治したウィーン、プラハ、ブタペストなどの諸都市を見て、オーストリアの繁栄と栄華を初めて認識した。それとともに、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどの現在のヨーロッパの大国だけをつなぎ合わせた私の西洋史観がいかに「浅はか」であったかに気づかされたのである。

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