教授H
大学教授。専門は環境経済学および理論経済学。政府の審議会の委員なども務める。「知性は、セクシーだ」が口癖。趣味は鉄道(車両形式オタク)。
炭素と聞いて人は何を思い浮かべるだろうか。炭(すみ)、石炭、そしてダイヤモンド。最近では気候変動(地球温暖化)の原因である二酸化炭素がすぐに頭に浮かぶだろう。ダイヤモンドに縁の深い人はそう多くはないだろうけれど、炭や石炭そしてそれを燃やすことによって発生する二酸化炭素はほとんどの人々の生活に何らかのかかわりを持っている。ただし、それ以上思い浮かべようとしても、なかなか難しいのではないかと思う。
ところがよく考えてみると、炭素は人間と深いかかわりをもっていることがわかってくる。何せ私たちの身体を作っている有機物は、炭素と水素と酸素の結合したものだ。人間をはじめとする動物は、水と有機物を摂取することによってはじめて生きながらえることができる。
身近な存在ともいえる炭素は、ほかの元素と結びつくと実に多様な存在として人間の目の前に現れる。それも時には思いもよらないような形で……。そして良い意味でも悪い意味でも私たちの生活に色々な影響を与えているのだ。それを化学と歴史の面から掘り起こし、炭素という元素の奇想天外な側面を描き出したのが佐藤健太郎著の『炭素文明論 「元素の王者」が歴史を動かす』(新潮選書、2013年)である。
◆米、砂糖、アルコール、モルヒネ……罪つくりな炭素
日本人には欠かせない食料と言えばやはり第一に来るのが米である。米を作り上げている主要元素はやはり炭素だ。そもそもデンプンは人間の主要なエネルギー源であり、イモだろうが麦だろうが米だろうが、とにかく人間はデンプンを摂取する必要がある。有り難いことに、日本人は同じデンプンでも食味の抜群な米を手に入れることができた。日本人は米という形で炭素の恩恵を受けているとも言える。
人間にとって不可欠とは言えないものの、食の文化の面で抜きにして考えることができないものの一つに砂糖がある。砂糖の甘みは長く人間を誘惑してきた。たとえ過剰摂取によって肥満になる可能性があっても、また糖尿病という深刻な病気が起きる可能性があっても、人は砂糖を摂り続けてきた。砂糖の甘みの誘惑には耐え難いものがあるのだ。もちろん砂糖も炭素を主要元素とした有機物だ。
人間にとって抗い難いものと言えば、やはりアルコールだろうか。いくら二日酔いで苦しんでも、2~3日すればすっかり忘れ、また一献傾けるという経験はほとんどの人が持っている。アルコールの歴史は古い。既に紀元前4000年ごろメソポタミアでビールが造られていたというのだから恐れ入る。放置された麦芽に酵母が入り込み、発酵が起きることによってエタノールと炭酸ガスができたという。今や人は最新の科学を用いてアルコール造りにいそしんでいる。アルコールの市場抜きにして経済を考えることはできないと言ったら言い過ぎだろうか。
ニコチン、カフェイン、そしてモルヒネなども人間を誘惑してやまない物質だ。これらも立派な有機物である。使い方によっては薬にもなるけれど、逆に人を破滅に導くものともなる。ところがこうした物質のおかげで巨万の富が築かれ、悪くするとその富を巡って戦争さえも行われるというのだから、炭素も罪つくりなものだ。
◆電車を乗り過ごしてしまいそうになるほど夢中にさせる
ダイナマイトも石油もそして最近ではカーボンナノチューブも炭素の賜物と言える。炭素は人間を幸せに導きもするし、また不幸のどん底にも陥れる。こうした炭素の持つ様々な相(そう)をわかりやすく説明したのが本書『炭素文明論』なのである。教室だと無味乾燥に聞こえ、思わずあくびの一つも出そうになる化学が、思いのほか魅力的なものに響くというのが本書の特長だ。そのマジックは、炭素にまつわる化学の発展が歴史の一こまとして読者に親しみやすい形で描かれていることにある。
たとえば、ニコチンにまつわる逸話がそれである。フランスの駐ポルトガル大使であったニコという人物が薬として本国に持ち帰ったのがタバコであった。ニコはフランス王妃の頭痛をタバコを用いて治したのである。このため、タバコを発見したわけでもないニコの名前がニコチンとして今でも残ることになったという。
これは単なる一例に過ぎない。電車に乗っていて降りる駅を忘れてしまうほど夢中にさせる逸話がこの本には満載されている。化学と歴史の不思議な結合、それが地上に0.08%しか存在していない炭素の魅力を余すところなく描き出している。
コメントを残す