п»ї 独見「チップ」考『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第41回 | ニュース屋台村

独見「チップ」考
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第41回

3月 13日 2015年 経済

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

 バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住17年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

海外に住む日本人にとってなかなか馴染めない習慣に「チップ」がある。「高いレストランに入ったがチップはいくら置いたらいいのかわからず、食事が満足にのどを通らなかった」「理髪店やマッサージ屋などに行く度にチップの額について悩んでしまう」「ホテルのボーイに車のドアを開けてもらったが、チップをあげそこねて後々まで気になってしまった」。こんな経験を皆さんはお持ちではないだろうか?

何を隠そう、米国10年、タイ17年の海外生活を送ってきた私も、つい最近までこうしたことで悩んでいたのである。しかし、アメリカ人やタイ人たちと日常的に付き合う機会を得たからこそ、最近は「チップ」に対しておぼろげながらわかってきたことがある。今回は米国とタイのチップ事情について独見を述べたい。

◆米では「サービスへの対価」、タイでは「施し」

最初に私が提起したいのは「米国とタイではチップに対する概念が全く異なっている」ということである。米国におけるチップは「サービスへの対価」。これに対し、タイにおけるチップは「施し」である。

米国ではレストランなどで食事代の10~20%を基準としたチップを支払う。これはレストランのボーイやウエイトレスの主要な収入源となる。ボーイやウエイトレスなどはこの収入を得ようと精いっぱいのサービスを行う。

10~20%と格差があるのは、属している階級の違いである。高級レストランに行けば20%が基準となり、労働者階級が使うレストランであれば10%が基準となる。この基準となる10~20%に対して、良いサービスを受ければ基準以上のチップを払い、悪いサービスであれば若干少ないチップを置く。チップは顧客の謝意の意思表示であるとともに、その店のサービスに対する評価表でもある。

そもそもチップの概念のない日本人にとって、レストランの食事でチップを置く事は「付加的な費用を強いられること」となり、何となく損をした気分になってしまう。しかし、最初から10~20%付加された金額が正規価格であると思えば、米国で払うチップも割り切れて考えられるであろう。

ここで注意して欲しいのは、レストランなどでいくら悪いサービスだからと言って、1セントなどの極めて少額のチップを置いて帰ることである。米国では最悪のサービスを受けた時に1セントを置いて帰る習慣がないわけではない。しかしこれをした場合は、二度とその店には行けないという覚悟が必要である。

高級レストランのソムリエに対し、店のワインの味に文句をつけ、ワインを変えさせる行為と同等である。酸化作用などで極端に味が劣化した場合などを除いて、もしソムリエにワインの文句を言ったら、あなたはその店から叩き出され二度とその店に行くことはできないであろう。

米国のレストランでチップとして1セントを置く行為をすれば、同じようなしっぺ返しを食らうことがある。ある時、私は米国人の友人とレストランに行って、窓際の席に座ろうとしたが、その席を拒否された。以前に米国人の友人がそのレストランで最悪のサービスに腹を立て、1セントのチップを置いて出たことがあった。その時のウエイトレスが現在はレストランの窓際の席を担当していたのである。

タクシーや理髪店など価格が明示されているものに付随するサービスへの対価は、レストランのチップと同様に、価格の10~20%である。それではホテルのベルボーイや部屋のクリーニングに伴う「枕チップ」などはどう考えたらよいのだろうか?

これについては、サービスに対する一般的な価格水準があるようである。私が米国に住んでいた25年前は、これらの価格は「50セントから1ドル強」であった。その後、米国の物価水準の上昇から、現在は「1ドルから3ドル」と考えて良いだろう。

一方で20年以上にわたるデフレ経済の影響で日本人はすっかり貧困となり、物価に対する感覚も世界標準から乖離(かいり)してしまったようである。

皆さんはご存知であろうか? 日本の2013年の「1人当たりの名目国内総生産(GDP)」はなんと世界で24番目にまで下がっているのである。その後のアベノミクスによる円安の進行に伴い、現在は更に順位を下げていることであろう。

日本は世界の中で決して豊かな国ではないのである。貧しくなった日本人から見れば、3ドルも出せば昼食が食べられる。そんな金額をチップで出すことはなんとなくためらわれる。しかし米国では「米国の物価水準でのチップ」を必要とする。それが高いと感じられるとすれば、日本が貧しくなった証左である。豊かになる努力をするしかないのである。

◆階級によって支払われる額は異なる

次にタイのチップについて考えてみよう。最初に申し上げたように、タイのチップは「施し」である。その前提として、タイが階級社会であることを理解しなければならない。

タイの階級社会は「貴族」「平民」のような明確な階層があるわけではない。そもそも餓死も凍死もしない豊かな国土を持つタイ人は、西洋史で語られるような「土地をベースとした階層分化」が進行しなかった。

一方で、米作を行う農耕社会は共同作業が要求される。これを可能としたのが、「保護・非保護」をベースとした緩やかな人間関係である。この「保護・非保護」の関係は、現在のタイの階級社会の特徴である。階級を構成するものは出世、学歴、貧富の差、職業など複合的に錯綜(さくそう)している。こうした中で「保護階級」が「非保護階級」に対して行う行為が「施し」である。チップもこの「施し」の一形態であると考えるとわかりやすい。

しかし日本人には、この「施し」の概念は更に理解しがたいものとなる。タイに住むほとんどの日本人は、タイのチップも米国のチップと同様にサービスの対価と考えている。このためそれぞれのサービスについて、相場を考えて払おうとする。

ちなみにゴルフのキャディーに対しては300バーツ(1バーツ=約3.7円)、タイ式マッサージには100バーツ、レストランでは料金を支払った後のおつりの小銭を置いてくる人が多い。15年ほど前は、ゴルフのキャディーとタイ式マッサージのチップは同じ100バーツが相場であった。その後、若い女性の多いキャディーへのチップは、日本人男性ゴルファーの気前の良さで年々上がり現在300バーツ。一方、タイ式マッサージのチップが現在も100バーツに据え置かれているのは、個人的には少しかわいそうな気がする。

それでは、タイ人はどのようにチップを払っているのであろうか? 私の経験話をさせていただくと、属している階級によってチップの払い方が明らかに異なっているのである。

最近はあまりゴルフをやらないので、15年程前の話をさせて頂く。当時「100バーツ」が日本人の相場であったキャディーへのチップであるが、バンコック銀行の幹部クラスとゴルフをすると、彼らは「300バーツから500バーツ」のチップを払っていた。更にタイの大臣経験者や、大金持ちのオーナーらとゴルフをすると1人「1000バーツ」のチップを払っていたのである。

当時私がどのくらいチップを払ってよいかわからず困惑していると、こうした人たちはさっさと私の分のチップまで払ってくれた。レストランのチップに対しても同様である。タイの大金持ちたちはレストランの支払額に関係なく、「1000バーツから2000バーツ」のチップを払う。これに対してサラリーマン階級は「100バーツから200バーツ」程度である。

それぞれの階級によって支払われるチップの額は異なる。そして、この払われるチップの額によって人々の敬意の念も順序付けされるのだ。チップの額が少ない人はタイの社会ではあまり敬意を払われない人であり、十分なサービスが受けられなくなるのである。

◆社会の大切な潤滑油

階級社会を経験していない日本人にとって、正規の料金以外に他者に「金」を渡す行為は馴染みの薄い習慣である。ましてやコンプライアンスのうるさい近年の日本では、金品のやり取りはわいろ行為のように受けとられかねない。しかし、階級社会が厳然と存在する世界の大方の国においては、プレゼントなどの金品のやり取りは社会の大切な潤滑油なのである。

これまで見てきたように、米国やタイではチップの概念こそ若干異なるが、チップも同様に社会の大切な潤滑油なのである。日本人が現地社会に溶け込むためにはチップの習慣に慣れ、それぞれの社会に受け入れられるだけのチップを堂々と支払える「心と懐」の余裕が必要である。

最近タイ人は日本人のことをケチだと感じ始めている。今から15年前、円が強くバーツは安かった。またタイの物価も安かった。円で給与をもらう日本人はタイ人に対し気前の良い存在であった。

タイの物価が上がり、一方でデフレと円安により、日本人のバーツ建ての身入りは減少。こんな中で日本人は馴染みのない習慣であろうチップに無関心で、多くを払おうとしない。タイ人から敬意を払われるためには相応のチップも必要である。

日本人がチップを気前よく払えるようになるためには、日本そのものが豊かになる必要がある。経済力を含めた「日本の強い国力」と「円高」は、海外に住む日本人にとっては生命線であると思うのは私だけであろうか。

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