引地達也(ひきち・たつや)
コミュニケーション基礎研究会代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP等設立。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。
◆世論調査好き
日本は世論調査が好きな国である。各メディアが内閣支持率の調査を行い、その数字を報じる。世論調査だけをやりながら、政策を住民投票によって決するという文化まではなかなか広がらなかったが、17日の大阪市の住民投票では橋下徹市長による「大阪都構想」についての賛否が明らかになり、「民主主義」の政策決定のプロセスとして、一つの方法を提示したように思う。
この投票活動の底辺にあるのが「世論」であり、この言葉を世に出したのが、米国のウォルター・リップマンである。その著書『世論』は今や古典として位置づけられているが、世論に敏感にならなければならない新聞記者なら誰でも読んでいるはず、と思いきや、実感として読んでいる割合は驚くほど低い、と思われる。これもジャーナリストの位置づけや養成する仕組みとジャーナリズムを技能として育んでこなかった日本メディア周辺の責任かもしれない。
もっと言えば、『世論』を読んでいる記者は「小難しい奴」で、「使いものにならない」という雰囲気さえある。今回、あらためて序文「外界の人間の頭の中の影像」だけ読み返すと、ニューメディアとソーシャルメディアが錯綜(さくそう)する現代こそ、問題を整理する上で必読であると考える。
◆フィクションは可変
この論文で、重要なポイントに「疑似環境」がある。人間とその環境との間に挿入されているもので、「人間の行動は、その疑似環境に対する反応」との主張だ。前提として、われわれ人間が見るものや、その観念やイメージを不完全なものととらえている点に注意すべきであろう。しかし結果として人は行動するものだから、「その結果は行動を刺激した疑似環境にではなく、行動が生起する現実の環境に作用する」とした。
だから「私はフィクションという言葉を嘘(うそ)のという意味に使ってはいない。それはその人に合わせて縮小したり、拡大したりする環境の表象を意味する」とし、フィクションは環境において可変するとの斬新な見解を示している。ジャーナリズムの世界でこの法則の前提に立てば、ニュースのファクトは「疑似環境」の可能性が高いということになり、それをファクトとして流布されれば、それは真実ではない。
そして実際に、そんな報道は古今東西日常的に行われてきたと言えるし、ネット社会においては、なおさらに「疑似環境」が闊歩(かっぽ)している状況だ。
「疑似環境は『人間性』と『諸条件』の混血児だから」、このかけあわせを理解した上で、われわれは物事に対処しなければならず、その処理と分析が瞬時にできる力こそコミュニケーション能力なのだろう。加えて「人間の行為は世界をどのように想像しているかによって決定されるが、人間が何を達成するかを、決定はしない。それは、人間の努力、感情、希望を決定するが、人間の達成と結果は決定しない」を理解できてこそ、人文主義に根差すコミュニケーターになれるはずであり、現代風に言えば「コミュニケーションに関するストレス解消のポイント」である。
その上でリップマンは人間の可能性にも言及している。「記憶することのできなかった世界の広大な部分を、心で見ることを学びつつある」から、やはり人間は素晴らしきものとしたい。
◆世論とは何か
一方、『世論』の定義は、「人間の頭の中の影像、彼ら自身についての、他人についての、彼らの欲求、目的、関係についての影像は、彼らの世論である。人びとの集団によって、あるいは、集団の名の下に行動する個人によって影響される影像は、大文字の世論である」とあり、個と社会両面での定義付けをしており、私たち1人1人も世論という考え。そして、「新聞が今日のような状態ではなく、健全であるならば、世論は新聞に向かって組織されねばならないというのが私の結論である」と指摘する。
これは、モンロー主義や啓蒙主義に根差す社会の可能性を感じられて、肌触りの良いものではあるが、米国の多様性からは離れている印象もある。
大阪市の橋下市長は、住民投票の結果を受けた記者会見で、メディアの重要性を口にした。民主主義の素晴らしさとメディアの重要性を口にした。それは真のジャーナリズムに向かう者への叱咤(しった)にも聞こえた。リップマンは世論という切り口以外にも、ジャーナリズムを語るうえで重要な指摘を多く残しており、それは今一度、メディアを考えるうえで指標ともなるはずだ。
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