п»ї 相模原で「亡くなった事実」で、追悼することから始めてみる『ジャーナリスティックなやさしい未来』第85回 | ニュース屋台村

相模原で「亡くなった事実」で、追悼することから始めてみる
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第85回

8月 05日 2016年 社会

LINEで送る
Pocket

引地達也(ひきち・たつや)


コミュニケーション基礎研究会代表。就労移行支援事業所シャロームネットワーク統括。ケアメディア推進プロジェクト代表。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長など。東日本大震災直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。

◆奪われた幸せ

神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害された事件で、亡くなった方々を心から追悼することを考えてみる。

それは、就労移行支援事業所という福祉施設で知的、身体、精神の各障害者とともに未来を描く活動を日々している立場として、そして、メディア出身者の視点から「人の心に向き合う」行動を促す「ケアメディア」の概念化を進めている立場として、さらに1人の市民として、の追悼である。

それが正しいのか、どうかは読み手次第ではあるが、ケアの視点から、市民にとって事件の最も重要なポイントは、犯人がどういった人物か、よりも、亡くなった事実に心を悼めること、である。障害があろうが、なかろうが、彼ら彼女らは、呼吸をし、生きながら、それぞれの「幸せ」を生きてきたはずであり、その「幸せ」を尊重することを前提に社会は構成されているのだから、その「幸せ」が奪われた無念を共有すべきだろう。たとえ名前が公表されなくても、追悼の気持ちは揺らぐことはない、と言いたい。

ここで神奈川県警が、通常は発表するはずの被害者の名前を公表していないことに、二つの反応がある。

報道機関とすれば、公正で瑕疵(かし)ない捜査を保証するために、重要な事件のファクトである被害者の氏名は公表すべきだとの立場であるが、一方で遺族らはメディアスクラムに象徴されるような、遺族への取材・報道で関係者への精神的苦痛など二次被害が及ぶ恐れを懸念する。

また、障害者のいることを、周囲に知らせないままで過ごしてきた家族もいるようで、公開によるダメージが一般の人よりも大きいかもしれない。これは双方の立場が違うのだから、どちらが正しいかという問題ではない。

バングラデシュのテロ事件では、被害者それぞれの名前は公表され、生前の活動が報道で紹介され、多くの人がその死を悼んだ。一般的にも人が死んだら、新聞などで知らされて、多くの人が、生前に親交のある人が、悼むことを知るのである。しかし、今回はその個人名がない。顔写真もないから、知的障害者19人という特質と数だけが独り歩きしてしまっている特異なケースとなった。

◆能動的な「知りたい」に

今回の事件は、名前がないことも含めて、私たちは悼まなければならないのだと思う。そこに様々な人生があったことを想像しながら、追悼しなければならないのだと。今回名前を公表されなかったのは、メディアスクラムを繰り返してきたマスコミにも責任あるし、その報道を面白がってしまう風潮にも責任があるかもしれない。

そして何より問題にしなければいけないのは、障がい者が、その事実を隠さなければいけなくなった、その社会的連鎖である。障がい者にやさしくない社会、それが日本社会。障がい者を持つ親が社会の中で追い込まれている社会、それが、私たちの住む社会である。

だから、たとえ名前が出ても出なくても、追悼する気持ちを持ち、その追悼の思いは、被害者の家族や関係者を想像することで成し得るという、新たな気づきが必要になってくる。

その上で、名前を知りたい、顔が見たい、と思うのは、自然に垂れ流される情報として受け入れるのではなく、能動的に知りたいとの思いから発出するもので質が違ってくるはずである。そうなったとき、初めてその行為の意味が出てくる。「追悼したい」という強い思いの結集により、顔と名前を知らせてほしいという声が大きくなれば、メディアスクラムも社会から排除される方向になるのではないかと淡い期待を考えつつ、悲しいかな、社会はそれほど高い倫理観を持ち合わせていない、という想像も立ち上がってくる。

◆逡巡するメディア

「ケアメディア」で確認しているのは、障害のある人も障害のない人も、私たちの社会はつながっている、そして、誰もが関わり合いの中で生きており、死が訪れれば、それを追悼する人間の反応を正常に動かすため、関わり合いを機能化するためにメディアがあるという考え方である。

メディアだから、これまでのジャーナリズムが主張しているように、権力の監視を、情報公開を通じて市民に広く事実を知らせることで成す機能もあるし、人のストーリーを広く知らせて、人を勇気づけたり救ったりする機能もある。

前者が意味の行動とすれば、後者は感情の行動。この二つのかけ合わせにより正常なメディア活動をしなければいけないのだが、ケアの視点でとらえれば、当然人の関わり合いは感情の正常な行き交いを大事にしなければならないとなるから、常に私たちは関わり合いを考えながら情報発信と交流をしなければならない。

そうなると、正常な関わり合いの基本となるのは「公正」である姿勢。自分の心にうそがないか、欲がないか、人を傷つけはしないか、という自問が出てくる。逡巡(しゅんじゅん)しながら発出されるアウトプットが、ケアメディアとしての発信コンテンツとなるのではないだろうか。

ケアの視点を鍛えるためにも、相模原市の事件では、まずは1人1人を想像しながら死を悼むことから始め、そこから自分のできることを考えなければならないと思う。

関連記事は以下です。

人の心に向き合う情報誌「ケアメディア」創刊します
https://www.newsyataimura.com/?p=5641

舛添都知事の「肝いり」障がい者雇用政策の向かう先
https://www.newsyataimura.com/?p=5571

■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
http://psycure.jp/column/8/

■ケアメディア推進プロジェクト
http://www.caremedia.link

■引地達也のブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kesennumasen/

コメント

コメントを残す