山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
公正中立、厳格でフェア。客観的観察者の眼で事実を検証する「第三者委員会」。その信頼がいま揺らいでいる。暴力団融資を放置したみずほ銀行が依頼した外部調査の報告書はあまりにも銀行に都合のいいものだった。その結論が頭取らの処分を軽くした。第三者なのか、応援団なのか、判断するのは誰か?
報告書を公表する記者会見に出て、驚いた。委員長の中込秀樹弁護士は、銀行の人かと思うような受け答えだった。
例えば、頭取まで上がっていた暴力団融資の情報を「担当役員止まりだった」と金融庁に伝えたことに、第三者委員会の報告書は「ことさら秘匿したことを窺(うかが)わせる事情は認められない」と断定している。この記述に質問が飛んだ。
記者「隠していない、となぜ言えるのか」
中込「隠す動機がないから」
記者「上層部に責任を波及させたくない、という事情も動機になるのでは」
中込「情報が上に行ったからといって、どうということはないでしょう。たんなる勘違いです」
そんなやり取りが続いた。
暴力団融資を放置していたことは重大問題だが、情報が頭取まで上がっていたことを金融庁に隠し、結果的にウソの報告をしたことはより大きな問題である。
◆ウソかミスか ミス判定に安堵するみずほ
「ウソではない、ミスだ」というのが銀行の言い分だった。ウソかミスかで銀行の責任は大違いだ。ウソだったら頭取の責任が問われる。
第三者委員会はこの点を解明し、納得いく説明をすることが求められていた。
判定は「担当者の記憶違い」。つまりミスということである。だが報告書を読むとつじつまが合わないことが沢山ある。
記憶違いしていた担当者について、報告書は「長年コンプライアンス統括部に所属し、誰よりも詳しく、この人が言うなら間違いなし、とみな信じていた」とある。生き字引のような人はどこにもいるものだ。だが、それほどよく知っていたなら報告が頭取に上がっていたことや西堀利頭取(当時)が問題融資を解消しろ、と指示していたことも知っているはずだ。「頭取に情報を上げていた」という局部の記憶だけなぜか都合よくなくなっている。これは不自然だ。
報告書には、「一担当者の記憶に頼った」とあるが、この担当者が「記憶違いの証言をした」とは書いていない。
「担当者C」とあるコンプライアンス統括部の銀行員がどんな証言をし、それを聞いて金融庁に報告したのは誰か、という核心部分が報告書にはない。事実関係の調査はあいまいで、結論だけ「秘匿が窺われる事情はない」と銀行の言い分に軍配を上げた。
第三者委員会の果たした役割は「みずほ経営陣に大きな責任はない」というお墨付きを与えたことだ。
みずほ銀行は、報告書にこぎつけたことでホッとしたと思う。第三者委員会という強力な防護壁が出来たからだ。
だが、報告書を受け取った金融庁は疑った。みずほには一度騙(だま)されている。「情報は担当役員で止まっていました」という供述を信じたのに、後になって「頭取まで上がっていた」に変わり、銀行の言い分を鵜呑(うの)みにした金融庁検査は、権威に傷を付けられた。今度また「担当者の記憶違いで間違えました」という逃げ口上を信じたら、深手を負いかねない。
◆脚本もキャスティングもみずほ
「みずほ銀行の第三者委員会は、銀行が選んだ関係者の話を聞いて、銀行の筋書きに沿って報告書をまとめたのではないか。そんな報告書を真に受けることなどできない」と金融庁の関係者はいう。
疑われているのは報告書だけではない。第三者委員会そのものが疑われている。委員の人選は依頼者が行い、諮問事項も依頼者が決める。報酬を払うのも依頼者だ。そんな中で依頼者の意に反した報告書を書く正義漢が果たしているだろうか。
というより外部調査を頼む依頼者が、何を託すか、その根本が第三者委員会の方向性を決める。本気で真相解明を求めるのか、都合のいい結論を欲しがっているのか。それによって人選も変わる。
みずほのケースは、「脚本もキャスティングも、みずほ銀行」という茶番劇だった。お粗末な第三者委員会の事例を見せてくれたのが今回だ。
社会的に見ればいい地位までいった裁判官や検察官を並べ、豪華な委員会を作っても、緊張感のない調査や報告書を出せば、分かる人には分かってしまう。
企業経営が様々な問題に遭遇する昨今、真相究明に当事者である経営者がふさわしくないことがしばしばある。公平な第三者の出番はこれからも必要だろう。そんな時「誰が、誰に頼むか」。にわかに結論を見出せない大問題である。
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