小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住19年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
「東南アジアでは華僑の存在を無視して商売はできない」といわれる。特にタイでは華僑の存在感が強く、バンコク都民のかなりの数が華僑だといわれる。またタイの政治は、①タイ人勢力②潮州系華僑勢力③タクシン元首相を中心とした新興勢力――の三つどもえの利権争いであるというのが従来からの私の主張である。「華僑の何たるか?」が分からずしてタイや東南アジアで十分な仕事は出来ない。
◆「海外に住みついた中国人」では定義できない
一口に華僑と言っても、中国本土を出てきた時期や出身地、住みついた国によってその在り方は違ってくる。私がタイに赴任した20年前、私はタイのことを知ろうとしてタイ関連の本を読んだり、タイ人に話を伺ったりした。最初の頃、タイ人と華僑の違いがよく分からなかった私は、会う人毎に「あなたはタイ人ですか? それとも華僑(オーバーシーズ・チャイニーズ)ですか?」と伺った。何となく肌の色が白っぽい人が華僑で、黒っぽい人がタイ人ではないかと勝手に決めつけていた。
ところが、事はそんなに単純ではなかった。肌の白い女性に「あなたは華僑ですか?」と聞くと、「いえ、私はタイ人です。でも私の血の4分の1は中国人の血が流れています」と言う。逆に肌の黒い男性に「あなたはタイ人ですか?」と聞くと「いや私は華僑です。若い頃、毎日リヤカーを引いて物を売り歩いていたため、肌の色が真黒になってしまいました」と答えてくる。どうも肌の色だけではよく分からない。
ある時、私が仲良くさせて頂いた元大蔵事務次官であったチャンチャイ・リータウォンさんと、財界の大物であるAさんの話をしていた。チャンチャイさんは、イギリス育ちの皮肉をこめて「Aさんは華僑でタイ語がしゃべれないからね」と言われた。
タイの実業界の大物であるAさんがタイ語をしゃべれないわけがない。「Aさんはちゃんとタイ語をしゃべっているではないですか?」と私がチャンチャイさんに聞き返すと、「Aさんは宮廷で使う正式なタイ語がしゃべれないのです」と繰り返された。
温厚で皆から尊敬されているチャンチャイさんがこう語ったのでびっくりした。タイ人による華僑への差別意識を強烈に感じた瞬間である。ところが会話を進めていくと更に驚いた。チャンチャイさんの祖先は中国から来た中国人だという。いったい華僑とは何なのだろう? 私達が単純に考えていた「華僑とは海外に住みついた中国人」という定義では計り知れないものがあるようである。
そもそも中国人が海洋活動を積極的に行い、海外居住を始めるのは明の時代からである。14世紀に入り、帝位の相続争いから元(モンゴル)の統治能力が低下した。紅巾の乱を起こした紅巾軍の一将領であった貧農出身の「朱元璋」が元を打ち破り、1368年に明を建国。自身は太祖洪武帝として即位し、中央集権体制の確立と農業振興に注力する。1402年に成祖永楽帝が即位すると、永楽帝は海外への侵攻を繰り返す。モンゴルやシベリアなどの北侵、チベットやベトナムなどの南侵も行い領土が拡大する。
1405年から1433年にかけて60隻、2万人以上の大船団をアフリカ東岸まで派遣し、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。日本は足利義満の時代であったが、義満は1401年に遣明使を派遣。1402年に足利義満は永楽帝より「日本国王」の称号を封ぜられ、1404年から日明貿易が開始された。
こうして明国は領土を拡大。領土の拡大により経済の繁栄期を迎えるが、銀本位貨幣経済が農村にも普及し、農民の税金(田賦)も銀納が義務付けられることとなる。このため銀ならびに銀貨の調達が出来ない農民は急速に貧困化し、多くの農民が田畑から離れ流民化する。この流民化した一部の農民が海外に渡り、華僑のはしりとなっていった。
一方、明国政府は海外との朝貢貿易で巨額な利益を受けるが、この利益に目をつけたのが沿海部の住人達である。倭寇として海賊化し、海外進出を図っていく。倭寇と名が付いているものの、16世紀の後期倭寇の多くは、中国人によって組織されたものだといわれている。
◆「国の歴史」と「民族の歴史」
さて、この当時の事情をタイの側から見てみよう。そもそも日本人が世界の歴史を考える上できわめて苦手なことがある。それは、世界の多くの国が「国の歴史」と「民族の歴史」の二つを持っていることである。
日本人はその起源こそ議論があるものの、国家が成立してからは国家と民族がほぼ同一である。これはきわめて特殊な事例なのである(ただし、日本でもアイヌ族など一部少数民族が存在する)。そもそも現在のタイ人は太古の時代、中国の黄河流域に住んでいたが、漢民族に押され除々に南下。10世紀ごろには中国雲南省に定住していたが、更に元(モンゴル)に押され、メコン川から途中チャオプラヤ川を渡り、現在のタイに移り住んだ民族である。
年次には諸説あるものの、1281年にスコタイ王朝が出来、1351年にアユタヤ王朝が建国された。中国で明が統治していた時代、タイはアユタヤ王朝が治めていたが、当時のアユタヤは海のシルクロードの中継基地として大変栄えていた。アユタヤ王朝の防衛を支えていたのはポルトガル人や山田長政に代表される日本人などの傭兵であった。また、貿易を担っていたのが中国人である。これがいわゆる「華僑」のはしりの人たちである。アユタヤ時代には3千人から4千人の中国人がいたとされている。
19世紀後半から20世紀前半には大量の中国移民時代を迎える。この時期、中国は女真族の「清」の国家となっていた。女真族は少数民族ながら漢民族と融合を図りながら国家繁栄を享受していた。当時、欧米列強は中国との貿易を行っていたが、絹や陶器、茶葉など豊富な輸出品を持つ中国に対し、イギリスは対価として銀を持ち込んでいた。しかしイギリスにとって銀の流出は大きな問題であった。イギリスは銀の流出を抑えるため、インド産のアヘンを中国に持ち込むことを画策。1840年のアヘン戦争によって香港割譲、広州上湾などの五港の開港を勝ちとった。更に1856年の第2アヘン戦争(アロー戦争)ではキリスト教布教やアヘンの売買を中国政府に認めさせた。
もともと福建省や広東省などの中国沿岸部は人口に対比して耕作可能な土地が少なく、台風などの災害も多い地域である。こうした自然条件による貧しさに加え、アヘンの自由化により中国沿岸部の経済は大幅に荒廃。更に1940年代に入ると、中国沿岸部は中国国民党と共産党との戦闘の主戦場ともなり、農民達は生活の苦しさから流民化せざるをえなくなった。
一方、欧米諸国の奴隷制度は、1807年のイギリスから始まり、米国の南北戦争(1861~1865年)によって廃止されるようになる。従来の黒人奴隷に代わる働き手として、欧米諸国が目をつけたのが中国人やインド人であった。
当時活況に沸いていたアメリカ西部の金鉱開発やアメリカ横断鉄道の働き手として大量の中国人が渡米した。アメリカにとって最初のオーバーシーズ・チャイニーズの人達である。同時期に中国人移民は東南アジアにもたくさん渡来する。マラヤ地域におけるスズ鉱山労働者やタイにおける鉄道建設の労働者として動員されたのである。
ところが、単純労働者に終始した米国への中国移民と東南アジアの移民はその後の歩みが違ってくる。タイを除く東南アジア各国は、欧米諸国の植民地となっていた。欧米諸国は東南アジアの植民地支配に中国人を「仲介者」として利用したのである。そもそも産業育成がなされていなかった東南アジアでは、現地の人達のほぼすべてが農業に従事していた。商業センスに優れた中国人は現地の農業社会に入り込み、商売を通して現地社会と繋(つな)がりを持っていた。
欧米人達はここに注目したのである。欧米諸国の手先となって働いた中国人移民達は度々、東南アジアの人達からの憎しみの対象となり、焼き打ち事件なども発生する。東南アジア各国において、いまだに「華僑対現地人」の対立が発生する要因としては、欧米諸国の植民地支配のやり方があったのである。
◆東南アジアの華僑にとっての第2次大戦
1941年の第2次世界大戦により日本軍が東南アジアに侵攻すると、日本軍は欧米諸国と異なった「直接統治」を試みる。直接統治を実行する上で、日本にとって“最も扱いにくい社会”となったのが中国移民達である。シンガポールのリー・クワンユー元首相があやうく難を逃れた「シンガポール華僑粛清事件」では、シンガポール在住の5千人もの華僑が海岸で機銃掃射により殺害された。東南アジア各国で起こった日本軍による華僑弾圧は、これら華僑を反日運動に追いやり、中国本土の抗日戦争の「人材」や「資金」の補給基地となっていったのである。
多くの日本人にとって第2次世界大戦は「遠い過去の歴史」と化しているような気がする。しかし、東南アジアにいる華僑にとってはまだ生々しい記憶である。タイは第2次世界大戦中、独立国を保ったため、他の東南アジア諸国と比べ日本の弾圧が少なく、対日感情が良い国である。しかし、タイで有数の華僑の財閥の総帥の祖父が日中戦争のさなか、日本軍によって殺されたことはあまり知られていない。総帥の親戚の方から聞いた話であるが、その人はまだ日本人を許していないと言う。こうした事実を知らずにその財閥企業と付き合っている日本企業が数多くある。
1949年、中国本土は共産党政権による国家樹立により、外国諸国から孤立する。併せて海外に移住した中国人達の帰国を制限する。海外にいる中国人達は否応なく現地化せざるをえなくなった。東南アジアに渡った中国人の多くは広東省、福建省の人達であるが、出身の町や村によって主に五つの方言に集約される。福建語、潮州語、海南語、広東語、客家語である。これらの人達が移住していった場所にも傾向があり、インドネシアは福建語をしゃべる福建人、タイは潮州人(広東省の北部の町)、マレーシアが広東人、シンガポールが客家(広東省や福建省の山地に住む)などの色分けが出来る。これらの華僑は出身地や定住地での歴史によって少しずつ特徴が異なっているが、今回は紙面の都合でその分析は割愛する。また華僑は過去の苦しい経験から幾つかの生活の原則も持ち合わせているが、これも次回に譲りたい。
◆東南アジアでも異なる華僑の定義
最後にもう一度「華僑とは何か?」と問うてみたい。どうも国によって「華僑」の定義は違うようである。「中国から見た華僑」「アメリカから見た華僑」「日本から見た華僑」「東南アジアから見た華僑」など異なるのである。否、東南アジアでも華僑の定義は異なると思われる。
タイは東南アジアで唯一独立を保った国である。欧米諸国が中国人移民を「中間支配者」として利用して植民地支配をしていた歴史がない。このため、タイ人と中国人の対立が他国ほど激しくない。また第2次世界大戦中、独立を保ったという民族の誇りもある。たとえタイ人の血の中に中国人の血が混ざっていたとしても、である。
タイは1913年に苗字法が制定され従来、貴族しか持っていなかった苗字をタイ人全員が持つこととなった。この時、多くのタイ人は僧侶のもとに行き、ありがたい「上座部仏教のパーリ語の教典」の一部から家族名をつくった。タイ人の苗字が長く、意味不明なのはこのためである。1938年に苗字法が改正され、タイの家族名は10文字以内に制限することが定められ、それ以降の家族名は短いものとなる。
タイで「華僑」と呼ばれる人達は1930年前後にタイに渡ってきた中国人で、本国の中国人移民締め出し政策によりタイでの永住を決断した10文字以内の短い家族名を持った人達に類型化される。これら「華僑」の人の家族名の中には、リー(季)とかタン(陳)とか中国名の一部が隠されている家族もいる。これによってその人達の出身地がわかり、「華僑」としての繋がりが大切にされているのである。
【小澤仁 放談会のお知らせ】
来たる7月14日(金)午前9時30分より、「小澤仁 放談会」をバンコッククラブにおいて開催いたします。今回のテーマは「タイ人との付き合い方」です。「タイの歴史(国)」「タイ人の歴史(民族)」「華僑の歴史」「上座部仏教の教義」などを個別に解説し、タイ人華僑の考え方を分析します。申し込み要領は以下のとおりです。今回の「ニュース屋台村」の記事は講演内容の「華僑」について、ほんのさわりを述べたものです。「小澤仁 放談会」に是非ふるって御参加下さい。
日 時 : 2017年7月14日(金曜日)
9:30開場 10:00 開演 13:00終演(予定)
場 所 : The Bangkok Club
Sathorn City Tower 28th Floor, South Sathorn Rd.
http://www.thebangkokclub.com/
テーマ: 『タイ人との付き合い方 ~
タイ及びタイ人・華僑・上座部仏教の歴史をふまえて ~ 』
会 費 : 2,000バーツ (ランチ付き)
定 員 : 40名様
なお、参加お申し込みは、バンコック銀行日系企業部と預金以外のお取引
(貸出、プロビデントファンド、貿易、iCash 等)のある企業の方に限定させて頂
きます。
お申し込み: ①御社名(ローマ字)②御名前③役職④電話番号⑤Emailアドレス ⑥バンコック銀行担当者名を明記の上、 japandesk@bbl.co.th 宛に、 お申し込み下さい。
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