迎洋一郎(むかえ・よういちろう)
1941年生まれ、60年豊田合成入社。95年豊田合成タイランド社長。2000年一栄工業社長。現在中国、タイで工場コンサルタントを務める。自称「ものづくり研究家」。
アジア通貨危機の発端となったタイバーツの大暴落の翌年の1998年、タイ国トヨタ自動車は1トンピックアップトラックの海外輸出を開始した。その海外輸出記念セレモニーが行われることになり、タイ皇室からはシリントン王女、ほかに日本とタイの政府関係者が多く出席された。トヨタ自動車からは、豊田章一郎会長(当時)が参加された。今回は、私が豊田合成タイランド社長当時、豊田会長を私たちの工場にお迎えした時の思い出とその際に学んだことなどについて紹介しようと思う。
◆現場の中に自ら飛び込んでいく姿勢に感銘
セレモニーは、タイバーツ暴落に伴う極度の経済不振の中、人々に落胆ムードが広がっていたが、こうしたムードを払拭(ふっしょく)する熱気あるものとなった。タイ国トヨタ自動車の一次サプライヤーも全社が招待され、私も参加させていただいた。「タイの自動車産業をこれからもっともっと育成し、国内はもとより海外への輸出拠点としてさらに発展させていこう」というトヨタの強い決意を発信する場であった。
セレモニーに参加した各サプライヤーは、トヨタのこうした前向きな決意を感じ取ったとはいえ、まだ本音では「明るさ半分、心配半分」の境地だった。豊田会長はあらかじめサプライヤーのそうした気持ちを感じておられたのであろう、セレモニーが終わるや否や、午後の4時間ぐらいを使ってサプライヤー5社を訪問する強行スケジュールを組まれた。我が豊田合成タイランドも最終訪問先として、午後4時40分から5時まで来社されるとの通知を受けた。
タイの日本人の間では、「タイ時間」という言葉がある。交通渋滞のような要因はあるにせよ、とにかく物事は時間どおりには進まない。まず何かにつけてスケジュールとおり進まない遅滞が一般的であったので、豊田会長の来社に当たっても「最終訪問先である我が社は時間切れでカットになるかもしれない」と思いつつ、受け入れの準備を始めた。
わずか20分そこそこのトップ巡視である。来社いただく目的はどこにあるのか、それに対して何をどう案内すれば良いか? 幹部を集めて事前検討会を開き対応することにした。
トヨタグループには、トヨタ自動車の主要役員とサプライヤーの取締役の経営交流を目的とした「会社トップ懇」という会合がある。私が愛知県一宮市にある豊田合成尾西工場長を務めていた89年と93年の2回、幸運にも会社トップ懇の開催会場として尾西工場が指定され、私は豊田会長を始めとしてトヨタグループの主要役員の工場巡視時の案内を仰せつかった。
93年の「会社トップ懇」のときの話である。豊田会長は所用があり少し遅れて尾西工場に着かれた。すでに懇談会が始まっていたため、私は豊田会長一人を工場にご案内して説明した。
そのとき豊田会長は、飾り立てた説明資料やきれいにペンキで塗りなおした通路などに全く興味を示されなかった。わざわざメーン通路をはずれ、工員が働く現場に入っていかれた。工場現場で行われた製造方法の改善実績などに大変関心を示されたのである。私は、現場の中に自ら飛び込んでいかれる豊田会長の姿勢に強い感銘を覚えた。
◆時と状況を踏まえたトップの言動
豊田会長の98年のタイ訪問では、会長はバーツ暴落によって痛手を被っているサプライヤーを励ます目的でおいでになるに違いない、と私は考えた。豊田会長の現場主義の考えを踏まえ、以下の基本方針で会長をお迎えしようということになった。
その方針とは、①バーツ暴落後に豊田合成タイランドが行ってきた諸施策を具体的に説明する②通路のペンキ塗りなどの体裁づくりは極力避け、現状を見ていただく。また発表資料の特別展示などもしない③工場への案内は日本人が行うが、現場の説明は実際に働いているタイ人主体で行う――である。
また、バーツ暴落後を挟んで、当社が開設以来行ってきた諸施策について、以下の点を説明することにした。
- 売り上げを最小限確保するため、トヨタ自動車の支援を得て皮巻きハンドルの日本向け輸出を始めたこと。また豊田合成本社の配慮で、ダイキン工業向けエアコン排風装置の成形組み付け、輸出を移管してもらった。これにより当社は何とか持ちこたえている状況であること
- 在籍人員の推移を説明し、自然退職の充当を抑え、解雇はせずにすんでいること
- 低賃金国の長所を生かし、設備投資を極力押さえるために、高価な自動設備より手動でやれるようにし、同時に現地オペレーターの成形加工スキル向上に役立てていること
- 機械設備は、タイで作れるものは極力現地調達していること
- 現地雇用したタイ人の育成を心がけ、出向者はやって見せる、やらせて見るに徹する。こうすることでタイ人の中に監督者や管理者が育ちつつあること。
さて、豊田会長による豊田合成タイランド視察の当日になった。会長は午後4時40分を過ぎた頃、当社の玄関に着かれた。私と副社長が出迎えて来社のお礼を申し上げたが、会長は工場入り口に待ち構えるタイ人幹部(班長以上)10人に向かって歩き出され、彼らに「ご苦労さん」とねぎらいの言葉を掛けながら、数人の手を握られた。その時の彼らの感激の様子は後々まで語り継がれている。
早速、工場の案内のスタートである。工場に入ってすぐ作業員通路を使って右に曲がり、手動取り出し樹脂成形機、皮巻きハンドル加工、ダイキン工業向けエアコン組み付け工程と案内し、最後に事務棟に戻ってきた。
すでに予定の午後5時をまわっていたが、厚かましく来社記念のサインと記念写真を、とお願いしてみた。すると「おお、いいぞ。皆入れる人は入りなさい」とおっしゃられた。
我々凡人は、こうした状況の中では「人は何人減らしたか?」「経費節減の手は打ったか?」「設備計画は見直ししたか?」などと目先のことを細かく問い詰めるものである。ところが豊田会長は、タイ人と笑顔で握手を交わし、励ましの気持ちだけを残して帰られたのである。あの状況下で豊田会長の来社は、私にとっても他の従業員にとっても限りない勇気と元気、やる気を与えてくれたのである。「トップに立つということは、時と状況を踏まえた言動がいかに重要であるか」。私にとって貴重な勉強の場なった。
◆トヨタ精神の「人間愛」
その出来事から数日が過ぎたある日、工場現場に出ていた私の携帯電話に、豊田合成日本本社の堀篭登喜男社長(当時)から電話が入った。「朗報だ!迎君。トヨタ朝の会(毎月1回開催される主要11社のサプライヤー社長とトヨタトトップとの会合)で、豊田合成タイランドはよく頑張っていると豊田会長からお褒めの言葉をいただいたぞ」。喜びの声が受話器の向こうから聞こえてきた。
早速この出来事を、毎週行っている全員朝礼の場で皆に報告。私からも従業員全員の努力に感謝するとともに、「今後も周りの期待に応える仕事を全員でやろう。もう一度原点に帰って自分の役割を見つめなおし、(一人ひとりが地球の代表者たる)責任を持って行動しよう」と呼びかけた。
補足だが、2014年3月22、23の両日にわたりTBS系列で放映された「リーダーズ」というテレビドラマは、トヨタ自動車生みの親「豊田喜一郎社長」をモデルにしたドラマである。私はこのドラマを見ながら、トヨタ精神の「人間愛」に胸の鼓動が高まった。
そんな時、ふと思いついたことがある。豊田章一郎会長が豊田合成タイランドに来社された折、最も喜んでいただけたのは「大不況下にあっても一人も解雇せず、耐え忍んだ我々の踏ん張りだったのではないだろうか?」。そんな考えが頭をよぎった。
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