山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。独自に考案した機械学習法、フェノラーニングのビジネス展開を模索している。元ファイザージャパン・臨床開発部門バイオメトリクス部長、Pfizer Global R&D, Clinical Technologies, Director。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
◆制作ノート
前稿(『みんなで機械学習』第14回)からは、「データにとっての技術と自然」について考えている。ひとにとっての技術と自然は、歴史の底流であって、哲学のテーマとしても様々に議論されてきた。ひととコンピューターが共生・共進化する近未来において、「データにとっての技術と自然」という本論考を、「コンピューターにとっての自然はデータである」という意味不明なテーゼから始めてみよう。機械(コンピューターやロボット)が自発的にデータを収集・分析すること、機械自身の機能や状態もデータ化することなど、機械にとっての自然がデータとなるための技術的な課題を設定することは可能だろう。しかし、機械にとっての自発性や、機械自身といった言葉は、未定義な意味不明な言葉で、どのようにでも解釈できる。そもそも、データ論の立場では、データによって言語を拡張する、もしくは、データの意味を言語では把握しきれない、ということが出発点になっている。機械が人びとのように言語でコミュニケーションするようになるのは遠い未来のことだと仮定して、機械と機械、もしくは機械とひとは、データでコミュニケーションするのが近未来のイメージだ。データによるコミュニケーションは、言語によるコミュニケーションの初歩的な機能を模倣(もほう)したものでしかない。コミュニケーションという意味では、データは言語以下であって、言語の拡張ではありえない。しかし、データはコミュニケーション以外にも、未来予測や自己制御など、機械にとって大切な機能を実現するために不可欠な「何か」でもある。その「何か」を、「機械にとっての自然」として、意味不明なままに探求しようとしている。 記事全文>>