引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、シャローム大学校学長、博士(新聞学)。一般財団法人福祉教育支援協会上席研究員、ケアメディア推進プロジェクト代表。コミュニケーション基礎研究会代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆愁いを帯びた女の子
静岡県掛川市の障がい者施設「ねむの木」学園を知ったのは、30年以上前の高校生の頃だった。場所はJR仙台駅前のミスタードーナツ。友人と好きなミュージシャンや小説、オーディオ、真剣な未来像の話を交わした場所である。
しゃれたインテリアの一角に大好きなドーナツを前にした自分が大人の入り口に間違いなく立っているという高揚感もあった。そして、友人を目の前にしたテーブルの横にあったのが大きな絵で、そこには深い群青を背景にした愁いを帯びた女の子が描かれていた。心に残る印象的な表情と色合い。絵の下には金色のプレートで「ねむの木学園」と書いてあった。
「ねむの木学園って何だ?」
そんな疑問を抱きつつ、それが障がい者施設であり、障がい者の芸術作品を創り出していることを知ったのは大学生になってからだった。このねむの木学園の創設者であり、理事長である宮城まり子さんが3月21日に亡くなられた。
◆自由で柔軟な教育
福祉の領域での支援活動に「教育」の概念を取り入れる活動をしている私にとって、宮城まり子さんはいつかお会いして、お話をうかがいたい人だった。私が「ケアメディア」の取材や文部科学省による障がい者の生涯学習の委託研究する中で、「必ず会えるだろう」「会う計画を立てよう」とも思っていた。
しかし高校生の頃に出合ったあの絵の時代そのままに宮城まり子さんは永遠に不死身のような錯覚をしてしまったのが、不覚だった。障がい者に愛を持って、その可能性を信じて、芸術や才能を社会に発出した行動を倣(なら)いたいとの思いを伝え、宮城さんからの言葉をいただきたかった。
就労支援の幅の中で、特性を生かし、その芸術的可能性にも目を向け形にした実績と言えば何か軽くなる印象があるが、制度のない中で施設をはじめ、結果的に人間の真の豊かさを証明した半世紀にもわたる功績は偉大である。
1955年に「ガード下の靴みがき」で歌手デビューし、舞台やテレビで活躍していた宮城まり子さんが日本で初めての肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立したのは1968年だった。
それは管理するための施設ではなく「学園」、学びの場としたのは、それぞれの可能性を信じる信念によるもので、教育方針・運営方針に「絵画・音楽・ダンス・詩・作文・茶道・工芸など感性を育てることを重視した教育を行っている。これは、情感豊かな人間性を育成」することを優先すると明言し、「こどもの多種多様な持てる能力を引き出すためには、それぞれのこどもに応じた自由で柔軟な教育を行うことが必要である」ことが重視されてきた。
◆ミスドから福祉へ
この「自由」「柔軟」の理念は、お堅い福祉の中では反発もあったが、だからこそ宮城さんは燃えたのだろう。結果的にここで創作された絵画は創造性豊かな作品として、世の中に認められることになり、全国の多くの人が知る「学園」となった。
ミスタードーナツが大阪府箕面市に第1号店をオープンさせたのは1971年で、ねむの木学園の子どもたちの絵が展示され始めたのは1979年。その後、ミスタードーナツは1981年に「広げよう愛の輪運動基金」が財団法人として認可され、現在の「ダスキン愛の輪基金」の母体が出来上がった。
このミスドの社会活動への取り組みの象徴が店内の絵と言ってもよいだろう。その絵に印象付けられた自分が福祉の仕事をしていることを考えると、案外、ミスドの絵で福祉職に誘われた人も少なくないかもしれない。
結局、宮城まり子さんの生きた言葉に直接出合えなかったが、「ねむの木村」や「ねむの木こども美術館」など、その遺(のこ)したものを訪れ、感じながら、障がい者と表現や芸術について知見を深めていきたいと思う。
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