山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
週末農夫の農園「Magley2号」の現在の様子=筆者撮影
農園で土を耕していると、新たな発見が無限にある。四半世紀前、英国で科学論文を書いていた時に、無為に投稿を拒絶され落ち込んでいたら、隣家の老人から土を掘ることを勧められた。世界には同じ志の人が10人はいるもので、土を掘っていると、いつかはつながるらしい。少なくとも何万年かは、そのようにして人びとがつながってきた。
社会的な意味での人びとのつながりが失われてゆく現在、それでも時間や空間に束縛されることなく、ひとつの大地の無限の可能性を信じて、週末農夫を楽しんでいる。東京では家庭菜園を望めないし、山麓(さんろく)の寒冷地では水やりがいらない。そこらじゅうが休耕農地だ。問題は野生動物で、サル、イノシシ、シカ、モグラ、ミミズ、昆虫、カエル、ヘビ。さらには元気な雑草たち、土壌細菌、そして異常気象、それでもたくさん苗を植えて種をまけば、運が良ければ収穫できる。
筆者は「ニュース屋台村」で『データを耕す』『住まいのデータを回す』と、データ論の準備をしてきた。データ資本主義といわれることもあるけれども、そもそもマルクスの資本論のどこにデータの出番があるのだろうか。剰余価値とは、ウィキペディアによると「マルクス経済学における基本概念で、生活に必要な労働を超えた剰余労働(不払い労働)が対象化された価値である」とのことだ。マルクスが労働市場における労働力という特殊な商品を発見したことは、筆者としても最大級の尊敬をしているけれども、マルクスが「生活に必要な労働」を理解していたとは思えない。現代の離婚市場では、家事労働という不払い労働が投機的価値を生んでいる。
生活に必要ではない剰余データという基本概念などあるのだろうか。計算機の立場からは、データベースを構成する、属性が与えられた情報がデータとなる。計算機がデータベースを自動生成すれば、生活にとって必要以上なデータが生産されるようになるのだろうか。剰余所与論(哲学の個体論での所与をデータと読み替えている)は、本来は生活に必要なデータが、なぜ、どのようにして剰余データであるかのように見えるのか、そのトリックを考えていきたい。
計算機やデータを哲学の文脈で考える場合、ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716年)の2進法の発明が出発点となる。ライプニッツの個体論はデータ論そのもので、万能計算機の原型もライプニッツが発案した。『データを耕す』では、ライプニッツは最初のスピノザ主義者として死んでいったのではないか、という問いかけを、不慮の事故に遭った友人の「モナドロジー」という作品へのレクイエムのつもりで書いた。いつのまにか、筆者自身も、バールーフ・スピノザ(1632-1677年)の哲学にとりつかれている。アントニオ・ネグリの『野生のアノマリー-スピノザにおける力能と権力』(作品社、2008年)は政治的なスピノザ再評価を行っているが、「野生の」(英語でsavage)という切り口が斬新で、通俗的な近代合理主義の理解を転覆させている。
『住まいのデータを回す』では、生活環にまつわるデータについて考えて、データサイクルという技術思想にたどりついた。例えば、場所とか位置をデータとして表現する場合、脳の神経細胞は、脳波の位相として表現しているらしい。位相とは、回転する角運動のことであって、加速度を感じる内在的な観察者には自明であっても、外部から観察しているとわかりにくい。位相をそろえたり制御できたりすると、レーザー光のような、新しい世界が開けてくる。野生の感覚は、データに内在する位相を読み取り、属性や概念によらずに、意味や価値による解釈が与えられる以前に、危険を察知して逃げるのだろう。
週末農夫の農園は「Magley2号」という。ショウガの芽出しを行いながら、タマネギの収穫を待っている。サトイモの種イモの冬越しに失敗した。ヤーコンの種イモの熱気にやられたらしい。野菜には、それぞれの体温があることを学んだ。土壌細菌も発熱している。ミミズはとても複雑な空間で、位相を感じながら、違和感や安息感とともに、生きているのだろう。生きる時間は位相にコーディングされている。
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