記者H
日本のメディア勤務。経済記者として20年。現在、東南アジア経済と政治を勉強中。趣味はゴルフと自転車、山歩き。「週末は書を捨て原っぱへ」がモットー。
タイ政情が再び不安定化している。2000年代前半、タイ経済を立て直し、政治的、社会的に圧倒的な人気と権力を掌握した元首相タクシン・シナワット氏をめぐる国内対立が再燃したのだ。今年11月に火を噴いた反タクシン・反政府デモは、タクシン氏に強く反発する勢力の力がいまだ衰えていないことを改めて示した。
◆唯一の対立軸
ここ数年のタイ政治の対立軸は、イデオロギーや政策ではなく、「タクシン」というただ一点に尽きると言っていい。11月に始まった反政府デモは、有罪判決を受け、“国外逃亡中”の身となっているタクシン氏を無罪放免とし、帰国を実現させるという法案が下院で強行採決されたことが直接のきっかけとなった。
野党民主党は直ちに反政府デモを計画し、バンコク中心部のビジネス街シーロム通りでは、一般の会社員ら2万人がデモに参加。この動きは他のビジネス地区にも広がり、反政府デモのムードは一気に高まった。
反政府運動の盛り上がりは、インラック首相と、与党「タイ貢献党(プアタイ党)」にとって意外だったようだ。首相は強行採決から1週間も経たず、テレビ演説で法案撤回を表明。事態の幕引きを図ったが、燎原(りょうげん)の火のごとく広がった運動は容易に鎮火できず、その後の政権・与党の対応のまずさも手伝い、エスカレートする状況を招き、現状に至っている。
◆CEO首相めぐる評価
ここで、なぜタクシン氏が火種であり続けるのか、その理由を簡単に書いておく。01年2月に首相の座に就いたタクシン氏は、企業経営者として成功した手腕を政治の世界でもいかんなく発揮し、「CEO(最高経営責任者)首相」ともてはやされた。特筆されるのは、過去、タイで行政制度の外に置かれてきた地方農民を向いた政治を果敢に推し進めたことだ。
30バーツ(約100円)で受診できる医療制度、地方振興を目的とした「村落基金」の創設、農家の債務返済猶予など。いずれも「バラマキ政策」の類だが、これによって、タクシン氏は人口の多数を占める地方農民の支持を集め、今日に至る盤石の権力基盤を作った。
しかし、「政治はビジネス同様、スピードがすべて」と言ってはばからなかったタクシン氏のCEO的国家運営は、透明性に欠け、汚職などの不正疑惑が常につきまとった。それでも選挙では無類の強さを見せ、疑惑への説明責任を果たすことはなく、おごった姿勢ばかりが目に付くようになっていったという。
タクシン批判は確実に広がり、特に金銭をめぐる不正疑惑がいくつも浮上したことで、追放の動きは大きなうねりとなっていく。そして06年9月。軍部のクーデターによって、タクシン氏はその座を追われる。さらに08年、首相時代の不正で有罪判決を受け、以来、タイの土を踏めていない。
◆現政権の最優先課題
インラック政権は、11年8月に発足。同年7月の総選挙でタクシン派政党「タイ貢献党」は、下院500議席中265議席を獲得し、他党との連立によって300議席を押さえる安定政権を樹立した。そのインラック政権は、過去2年3カ月の間に今回を除き2度、タクシン氏の「帰国実現」に動いた。
有罪判決を受けながら、服役することなく国外で生活を続けるタクシン氏を、服役させずにいかに帰国させるのか――。その方策は3つ。
1つは国王恩赦。2つ目は憲法改正。3つ目は恩赦法案の成立。インラック政権は、大洪水被害のショックがさめやらぬ11年11月、突如、タクシン氏を対象に含む「恩赦勅令」を閣議決定し、国王に奏上した。反タクシン派は、すぐにデモ活動を展開。政府側は、反対運動が盛り上がるのを受け、「タクシン氏は対象者ではない」と公式に否定せざるを得なくなり、矛を収めた。
◆最後の手段
次に目指したのが憲法改正。クーデター後に成立した憲法を全文改正するもので、これによってクーデターを否定し、クーデター後のタクシン氏への各種訴追を間接的に否定するというものだった。またこれと並行し、クーデター後の政治運動で有罪判決を受けたり、起訴されたりした人を無罪放免にする「国民和解法案」の成立を目指した。
しかし、改正案と和解法案の国会審議がピークに達した12年5月末、2万人規模の反政府デモ集会が行われた上、憲法裁判所も「改正案は違憲」の判断を示したため、この動きも頓挫。そして13年、与党は最後の手段、「恩赦法案」の成立に舵を切ったというわけだ。
野党民主党は、この法案がタクシン氏の帰国を企図したものだと警戒。与党は当初、恩赦対象者にタクシン氏や黄色(反タクシン派)や赤色(親タクシン派)の指導者は対象にならないと繰り返していたが、10月18日、法案の内容が書き換えられ、タクシン氏らを対象とするよう修正された。
◆ピーク時40万人のデモ
民主党や反政府グループは、国会外での抗議活動を開始。法案審議は、当初3日間の予定だったが、前述の通り、審議もそこそこに強行採決されたことで、抗議活動は一気に拡大した。
インラック政権発足後、タイの有力政治家や大学教授らは常に「強引なことさえしなければ、首相は4年の任期を全うする」と口をそろえていた。「強引なこと」とは、タクシン氏の帰国実現を指す。
しかし、政権はこれを急いだ。なぜか。一つは情勢分析の甘さだ。政権側は、「反タクシン」のアレルギーがここまで強いとは思っていなかったのではないか。特に最近は、親タクシン派の赤シャツグループが10万人単位で集会参加者を動員できるのに対し、反タクシン派の動員力の弱さが際立っていた。
実際、タクシン氏は今年7月ごろ、側近に、「反タクシンが集会を行っても、せいぜい1万人」と語ったとの情報が地元メディアなどで伝えられている。しかし、タクシン氏の帰国という具体的な争点が明確に示された11月、ピーク時の集会には40万人もの人がデモに加わった。
◆遠のいた「帰国」
民主党幹部が主導し、「タクシン体制の根絶」を訴えるデモは、12月6日時点でなお継続している。5日、タイはプミポン国王の86回目の誕生日を迎え、デモ隊も活動の一時休戦を宣言した。国王は、誕生日の演説で、「国民は結束し、国のため義務を遂行しなければならない」と呼び掛けたが、デモへの直接的な言及はしなかった。デモ隊は、6日以降の再開に向け、再びうごめき始めており、今後の展開は予断を許さない。
今回の一連のデモで明らかになったことを挙げるとすれば、タイ国民、特にバンコクを中心とする首都圏に住む都市中間層の中の「嫌タクシン派」と呼ぶべき人々の存在が依然、多数存在しているということだろう。日系、欧米系メディアは、彼らを「反タクシン派」と呼ぶが、正確には「嫌タクシン派」と呼ぶべきだろう。
海外暮らしを余儀なくされているタクシン氏は、今も時折、内外メディアの取材を受けている。同氏は今なお自身について、「その人気が嫉妬され、クーデターで追われた被害者」という基本認識によって論を展開している。
しかし、今回のデモで人々が見せたのは、人気への嫉妬というレベルではない、タクシンという存在への強い嫌悪と憎悪だった。タクシン氏自身と、その管理の下にある現タイ政権は、その点の分析を見誤った。
強引な手法の結果もたらされた代償は、タクシン氏の「帰国」がかなり先の将来に遠のいたということだ。仮に今回のデモが収束したとしても、タイ政情はこの宿痾(しゅくあ)によって、折に触れ、不安定化することが避けられないと思われる。
ご質問ありがとうございます。以下、「記者H」さんの回答です。
インラック首相および政権には、①過去十数年、タクシン派政党は選挙に負けたことがないため、次回総選挙でも必ず勝てる②総選挙実施を持ち出せば、「選挙をせずに現政権を倒したい」とする反政府デモ隊の非民主主義的な主張を浮き彫りにでき、国際社会を味方につけて、政権の正当性を示すことができる――という思いがあるのではないでしょうか。
上院は特段、別の主張があるわけではなく、与党寄りの議員は選挙、野党寄りの議員は静観するか、反政府デモ隊が求める「国民議会または人民議会」創設を支持ということだと思います。(記者H)