引地達也(ひきち・たつや)
特別支援が必要な方の学びの場、シャローム大学校(みんなの大学校)学長、博士(新聞学)。一般財団法人福祉教育支援協会上席研究員、ケアメディア推進プロジェクト代表。コミュニケーション基礎研究会代表。精神科系ポータルサイト「サイキュレ」編集委員。一般財団法人発達支援研究所客員研究員、法定外見晴台学園大学客員教授。
◆ウェブ授業での発見
日常的にマスクをした生活をしている中で、人と会話をする時に自然と相手の目を集中的に見るようになっていることで、最近は新しい発見が生まれている。目がモノを言っている、という新たな実感である。
真剣なまなざしは、発せられる言葉やそこにある思いの悲壮感や切迫感も伝わってくる。一方で、思いがなければ、目は何も訴えかけてはこないのもよくわかる。最近はいくつかの個別の悩みも真ん中に置いて対話することが多く、その「目の」違いは歴然であった。さらにウェブ会議システムを使っての講義でも、学生たちと顔の画像でやりとりしていると、その顔に集中することで、表情から発する新しい情報を獲得するケースもある。
コミュニケーションの発信者も受信者も神経を集中することで、敏感な交信が可能になる一方で、敏感にならなければ、機械による機械的・無機質な会話になってしまう恐れもある。これはコミュニケーションを知る重要な岐路なのかもしれない。
◆「窮屈さ」の源流
緊急事態宣言を受けて休校状態だったシャローム大学校は5月の連休明けからウェブ講義が始まった。「人間と生活」の授業は社会の成り立ちや社会の見方を学んでもらう方針で、この講義の受講者は知的障がいがなく、知的好奇心が旺盛な方ばかりで、大学の講義に近い社会学の基本の習得を目指している。
最初の講義では、社会学の父であるコントとスペンサー、そしてジンメル、デュルケム、ウェーバーを学んでもらった。フランス革命後の激動期にコントは社会学を確立していくのだが、それは社会を科学することから始まったはずが、最後は最愛の人を亡くすと「人類教」という宗教を立て、自ら大司教となるという非科学的な行動に出ることから始まり、初代文部大臣、森有礼に影響を与えたスペンサーの教育思想に注目し、フランスのルソーとイギリスのロックの違いなどに触れると、学生たちは妙に納得した目をしてくる。一般の学校生活になじめなかった経験を持つ彼らにとって、スペンサーやロックの考えに自らが感じた「窮屈さ」の源流を見るのであろう。
とはいえ、コントとスペンサーでは「社会学」はおぼろげな輪郭で、次の世代のジンメルが「人と人の間」に着目すると、ミクロな視点で社会をとらえられるようになるから、自分たちの目線から「社会」を捉えられるようになってくる。こうなると学生の目も開かれてくる。
ここでデュルケムの「われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである」との逆説的な見方に打ちのめされたようになって、デュルケムの自殺論を考えると少々気が滅入るのだが、当時彼が提起した「1 自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する 2 自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する 3 自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する」などの命題を考えると、自殺というシリアスな問題を分析的に捉えようとする心持ちとなり、それぞれの目に命がみなぎってくるようになるから面白い。
◆ウェーバーに「この人好き!」
最後のウェーバーでは価値自由などの難しい概念は置いて、彼の数々の言葉を示すと、学生からは「この人好き!」という声が上がった。時の政治状況を念頭に「その国の政府は、その国に生きる人の鏡である」(ウェーバー)のは、自分の政治参加を考える上では重要なイメージである。社会学を切り口に社会の見方が面白くなって、これまで感じた「生きづらさ」が少しでも解消してもらうとありがたいのだが、そんな簡単なものではない。
「生きることは病であり、眠りは緩和剤であり、死は根治療法なのである」(同)に学生らは納得する言葉を示したのが象徴的だ。これから、私も学生も学びあうことで成長することを目指す時に、効果的なのは目を見て対話する時間を多くすることだろう。
コロナ禍で気づかされた目で伝えることと伝わること、それにも目を向けていきたい。一緒に「生きる」を考えていきたい。
■学びで君が花開く! 支援が必要な方の学びの場、みんなの大学校
http://www.minnano-college-of-liberalarts.net
■精神科ポータルサイト「サイキュレ」コラム
■ケアメディア推進プロジェクト
■引地達也のブログ
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