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「日本の長期低迷の原因」その4 「イノベーション」後編
『視点を磨き、視野を広げる』第45回

8月 26日 2020年 経済

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古川弘介(ふるかわ・こうすけ)

海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。

前回の要約

前回は日本の長期低迷の原因を「イノベーション(革新的な製品開発や生産方式導入、新市場開拓、組織改革など)」の不足に求めた。要約すると――日本の高度成長はイノベーションが大きく貢献した。しかし欧米先進国へのキャッチアップ後は成長力が低下し始め、1990年代以降は長期低迷が続く。イノベーション力(革新力)が低下したことが原因だ。イノベーションを阻害しているのはヒトの流動化を阻む日本型雇用モデルである。したがって米国流のヒト・モノ・カネの流動化を進めれば、イノベーションの活性化は可能である。しかし同時にイノベーションが持つ負の側面への備えが必要――である。

今回も経営学者の清水洋(早稲田大学教授)の『野生化するイノベーション――日本経済「失われた20年」を超える』を参考に、日本でイノベーションを起こすためにはどうすればよいかについて考えていきたい。

イノベーションの負の側面

・破壊的である

イノベーションとは、人々の便益を増やす、あるいは生産性を上げることによって新たに価値を創出することをいう。しかし一方で、「破壊的」という側面を持っている。既存の手法をあえて破壊して新しい商品や生産方法を創造するので、失業や賃金低下といった負の影響を受ける人々がいるということだ。本書では、イノベーションの効果は長い時間をかけて「じわじわ」波及するのに対して、破壊は比較的短時間に特定の人々に強く出るとしている。そして悪いほうが先にくるので、強い抵抗運動が現れるという。例として、産業革命期の英国でみられた機械の「打ち壊し運動」や、配車アプリのウーバー進出に対するタクシー運転手の反対運動などを挙げる。

・格差を拡大する

イノベーションがもたらす負の側面はもう一つある。イノベーションの成功者は、莫大(ばくだい)な利益を手にするが、運と努力と才能に恵まれたごく少数の人々である。一方、新しいビジネスの出現によって多くの人々が職を失ったり、賃金が低下したりする。貧富の格差が拡大するのである。かつては、富は最初の段階では富裕層を先に満たすが、それが滴り落ちてきて貧困層にまで波及するという「トリクルダウン」理論が説かれた。しかし、実際にはそうした効果は見られず、貧富の格差が拡大している。本書は、米国では1970年以降、大学院卒の高スキルの労働者の賃金上昇が顕著であるとして、大学院卒とその他(大卒、短大卒、高校卒など)との賃金格差の拡大が観測されているとしている。文部科学省のレポート(*注1)によると、米国の上場企業の管理職の最終学歴は、大学院修了者が過半数前後を占めているのに対し、日本は6%にすぎない。米国で働いた経験があるが、米国は、大学院(修士課程)卒でなければ(イノベーションの恩恵を受ける)高収入の職に就くのが難しい。大学レベルの偏差値至上主義が支配的な日本とは次元が違う本物の「学歴社会」なのである。そもそも米国の大学の授業料は高額であり、富裕層の子弟が有利で、貧困層出身者が大学に行くことは困難だ。こうして格差は構造的に再生産されていく。

・負の側面にどう対応するか

イノベーションの破壊的側面に対しては、先進国ではセーフティネット――失業保険や再就職支援――と呼ばれる仕組みがある。それに加えて日本では、終身雇用などの日本型雇用モデルによって労働者は保護されている。しかし本書では、この日本型雇用モデルの存在が企業に大胆な業態転換に消極的な姿勢をとらせる要因となっているという。業態転換に伴って仕事がなくなる従業員を解雇できないからであり、転換を実行する場合は長期間かけて影響を最小限にとどめる方策が取られることが一般的だ。その結果、企業の流動性は硬直化していく。したがって、イノベーションの促進を考える上で雇用モデルの見直しが大きな課題といえる。

また、格差拡大に関しては、社会保障制度による所得再分配機能によって格差拡大を抑制する仕組みがあるが、それにもかかわらず欧米では富裕層への富の集中が著しいとして大きな社会問題となっている。しかしながら、本書では、経済学者の森口千晶(一橋大学経済研究所教授)(*注2)の分析を引用して、日本は世界と違う現象――高所得層への富の集中が観察されず、一方で低所得層の貧困化が進行している――が見られるとする。

この見解に同意したい。拙稿第30回『新・日本の階級社会』で述べたように、現在の日本が抱える問題は、欧米諸国のような超富裕層への富の集中ではなく、働いているのに貧しいワーキングプアーの増加にある(こうしたアンダークラス層は推定で約1千万人)。また、純金融資産の階層別割合をみても、超富裕層(純金融資産5億円以上)が全体に占める割合は、金額ベース(2000年と2017年を比較)で微増にとどまり、欧米のような顕著な富の偏在は見られない。さらに一般の勤労者世帯(2人以上)の実収入、可処分所得、消費支出は、いずれも過去のピークは1997年であり、それを下回った状態が20年以上続いている(*注3)。この事実が示すのは、貧困層だけではなく中間層も含めて日本社会全体が貧困化しつつあるということだ。その原因はイノベーション力(革新力)の不足にある。イノベーションが停滞しているから大金持ちが増えないし、高賃金の雇用も増えないのである。日本全体の貧困化という問題は深刻であり、イノベーションの活性化を通じた経済再生が必要だと考える理由である。

政府と企業の役割分担:誰がイノベーションのコストを負担するのか

本書では、イノベーションのコストをだれが負担するのかに関して、二つの論点を提示する。一つは研究開発費の負担の問題だ。二つ目はイノベーションの破壊によるコスト負担の問題である。

・論点1:基礎研究を誰が負担するのか

イノベーションを生み出すためには研究開発費が必要である。日本でイノベーションが不活発なのは、研究開発費が不足しているからなのだろうか。それを確認するために、文部科学省が毎年発表している『科学技術指標2019』を見る。それによると、日本の研究開発費(2017年)は19兆1千億円で、米国(55兆6千億円)、中国(50兆8千億円)に次いで、世界第3位である。対GDP(国内総生産)比率でいえば日本(3.43%)は世界トップクラスで、米国(2.76%)だけでなく西欧主要国を上回っている。米国と比べ絶対額の差はやむを得ないとしても、日本は研究開発費を頑張って支出してきたのである。それにもかかわらず、イノベーションの実現で米国と大きな差があるのはなぜなのか。

本書の答えは、基礎研究に差があるというものだ。研究開発費は基礎研究、応用研究、開発研究に分かれるが、企業は開発研究の比率が高く基礎研究は少ない。一方、大学は基礎研究の比率が高い。不確実性の高い基礎研究は大学、応用研究や開発研究は企業という棲(す)み分けが理にかなっている。実際、米国では大学や国の研究機関で生み出された基礎研究の成果を、産学連携や大学発のスタートアップの(企業による)吸収合併を通じて活用しているという。大学と企業の分業が成立しているのだ。これに対して日本の大学は基礎研究を減らしており、それを企業が負担している形になっているというのである。「民間資金の活用」と言えば聞こえはいいが、財政難で政府が金を出せないために民間企業を頼っているというのが実態だろう。

では、米国では大学が基礎研究を担う資金をどうやって調達しているのだろうか。有力大学は潤沢な基金を持っているから、あるいは民間からの寄付が多いからといった答えが浮かぶが、本書は、それにもまして、国防総省の予算が基礎的な研究の資金源になっていると指摘する。特に同省の国防高等研究計画局(DARPA)(*注4)は不確実性の高い基礎研究に重要な役割を果たしており、過去にはインターネットやGPS(全地球測位システム)といったデジタル経済の基幹技術を生み出した実績がある。また、研究は軍への納入という形での初期需要が確保されていることも大きな利点となっているという。米国では研究開発というイノベーションのコストを、国が負担しているといえるだろう。

これに対して、日本は政府の研究開発費への負担が少ないと本書は批判する。日本はイノベーションのコストを国に代わって企業が負担しているというのだ。前述の『科学技術指標2019』によれば、研究開発費を負担主体別にみると、日本は政府17%、企業72%であるのに対し、米国は政府23%、企業64%と国の負担割合が大きい。さらにDARPAのような不確実性の高い研究に資金を出す機関がイノベーションのタネまきをしているのである。本書は、こうした仕組みの違いを理解せずに、米国流の流動化を進めてしまうのは危険だと警鐘を鳴らす。イノベーションのコストを企業が負担してきた日本で、イノベーションの野生化が進むと企業は手近な果実だけもぎ取り、代わりに基礎研究を行う組織も資金もないという事態になり、その結果、イノベーションのタネがまったくない国になってしまうと警告するのである。

・論点2:破壊によるコストを誰が負担するのか

イノベーションは破壊力を持っている。特にドラスチックなイノベーションはそうだ。代替される仕事に従事している人々は、職を失ったり、賃金が低下したりする。こうした人々のためにセーフティネットが必要である。本書ではこのコストの負担のあり方は、国によって異なるとして日本と米国を比較する。

米国流の雇用モデルでは、企業がレイオフや整理解雇などで不採算事業や遊休資産となった人員の整理を行いやすい。その結果、企業は遊休資産を社内に抱えることなく、新しいビジネスへと転換していくことができる。イノベーションの破壊的コストを国民が負担しているといえるだろう。一方、日本では企業が整理解雇を簡単に行うことができないので、事業転換に時間がかかる。遊休資産となった人員を社内に抱えながら事業を行わなければならないからだ。したがって、日本でイノベーションの機会を増やそうとすれば、米国流の雇用の流動化を促進すべきということになる。

しかし、日本は企業が雇用を維持することで社会的安定が保たれてきたのであり、企業が社会的コストを負担してきたといってもいい。この負担から企業を解放すると、代わりに誰が負担するのかという問題が出てくる。本書は、イノベーションの破壊的コストは国が負担すべきだという意見である。そして政府によるセーフティネットの整備を進め、イノベーションとの関係が補完的な(給与が高い)仕事に従事できる人をいかに増やしていくかを考えるべきだという。

提案:日本をイノベーション志向に変えるために必要な施策

イノベーションを活性化するためには、ヒト・モノ・カネの一層の流動化をすすめるべきである。平成の歴代政権はそうした認識をもって様々な成長戦略を推進してきたと思われる。しかし十分な効果を上げていないのは、ボトルネック(制約条件)があるからだ。ここでは、その対策を考えてみた。

<イノベーションを活性化する施策>

・イノベーションを起こすための活動をリードする独立機関を作る

イノベーションは、相互に影響し合う(特定の地域・時代に群生する)が、一方で、時間がかかる、偶然が大きい、といった習性を持つ。こうした不確実性の高いイノベーションにつながる研究に、資金を投じることができるのは政府しかないことは明らかだ。政府はもっと基礎研究に金を出すべきだ。ただしそれだけではイノベーションは起こせないだろう。そこで参考になるのは、米国のDARPAの役割である。国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)がまとめたレポートから分かったDARPAの強みをまとめてみた。

DARPAの予算は28億ドル(約3千億円)である。少ない金額ではないが、驚くような多額でもない。国防総省の全体予算は5254億ドル(約56兆円)、うち研究開発予算712億ドル(約7兆5500億円)、その中の科学技術研究予算は119億ドル(約1兆3千億円)であるからDARPAの予算は、その25%程度である(残りは陸海空軍の研究予算)。DARPAの特徴は、ハイリスク・ハイペイオフ研究の支援に特化していることだ。自らは研究所や施設を持たず、大学などの基礎研究と実用化とのギャップを埋める橋渡し役を行う。対象は画期的なブレークスルーを志向する研究支援である。DRAPAを動かすのはプログラムマネジャー(PM)である。PMは、プロジェクトの企画・立案・推進において大きな裁量権を持つ。約100人いるPMに採用されるのは、軍や企業、政府、大学などで経験を積んだトップレベルの人材だ。経歴をみるとほぼ全員が博士号取得者である。PMは特定の技術分野の専門知識と人脈だけではなく予算管理能力(大きな決定権がある)、説明能力、コミュニケーション能力が重視されるという。リーダーとしての高い資質と能力が求められるとうことだ。そしてDARPA自体がフラットで小さな組織(約240人)であり柔軟に動きやすく、「失敗を許容する文化」を重視するイノベーション志向の組織である。そして最も重要なのは、官僚主義的弊害(軍隊は究極の官僚組織であることを忘れてはならない)を排除する自立性の高い組織だという点である。

日本でイノベーションが生まれやすい環境を整備するにあたって必要とされるのはDARPAのような活動を強力にリードしていく組織だと考える。米国とは違い軍事ではなく平和目的であり、日本が直面する諸問題のブレークスルーとなる革新的な研究支援(例えばAI〈人工知能〉技術、バイオテクノロジー、量子技術、マテリアル、エネルギーなど)(*注5)を対象とする。重要なのは官僚の介入を極力排除する自立性の高い組織とすることだ。ラディカルなイノベーションを起こすためには、「失敗を許容する文化」が大切だ。失敗を認めようとしない官僚主義は、イノベーションにとって天敵なのである。独立性、自立性の確保が鍵となるだろう。

・大学への支援強化

次に、ラディカルなイノベーションを生み出すための基礎研究の拠点としての大学への支援強化が必要である。研究開発のアウトプット指標として論文数が使われることが多いが、この20年間に日本は論文数で米国に次ぐ第2位(シェア8.5%)から第4位(同4.3%)に順位を下げている。特に注目度の高い論文(トップ10%)でみると低下傾向は顕著で、第4位(シェア5.9%)から第9位(2.7%)に下げているのだ。(*注6)また、世界の大学ランキングを見ても、トップ50校に入っているのは1校のみである。こうした数字が示すように、日本の大学の研究力の低下が懸念されている。

政府はこうした状況を受けて、国立大学の独立行政法人化など大学改革を進めて研究力の向上を目指している(「大学改革の検討状況について」内閣府 平成30〈2018〉年)。しかしそれを見ると、イノベーションとの関係で一つ気になる点がある。政府の改革案では、積極的に民間資金の活用を促しているのだ。ちなみに、主要国の高等教育機関向け支出規模の比較(対名目GDP比、2014年)(*注7)を見ると、日本は公的支出が0.5%と米国(0.9%)、ドイツ(1.1%)フランス(1.2%)を大きく下回り、主要国の中で最下位である。その分民間支出が多く(1.0%)、全体ではOECD(経済協力開発機構)平均(1.6%)を少し下回る水準を維持しているのである。

そこで、公的支出をOECD平均のGDPの1.1%に高めることを提案したい。不確実性の高いラディカルなイノベーションを生むためには公的負担による大学の研究力強化が不可欠だからだ。現在の公的支出0.5%との差額0.6%に、GDP(約550兆円)を掛けると3兆3千億円になる。そんな予算はないと言われそうだが、日本の未来のための投資であり、イノベーションを通じて世界へ貢献することにつながるのである。日本の防衛費はGDPの1%、米国は3.5%である。この差額2.5%の4分の1程度を日本の将来の安全保障に貢献する平和のための研究開発に支出すると考えればどうだろうか。年間3兆3千億円として30年で約100兆円になる。この資金を、例えば研究大学(政府が22校選定している)に集中的に投入する。世界の発展に貢献できる投資であり、その趣旨を世界に知らしめ、海外からも優秀な生徒を集める。卒業して日本企業で一定期間働けば永住許可を与える。なお、移民に関しては拙稿第40回及び第41回で考えたように、安い労働力としての移民には反対である。理由は、安い労働力の導入は日本の現在の格差を温存し、複雑化するだけだからだ。ただし、移民そのものに反対ではない。移民は優秀な人材で高い給与の職に就く人に認めるべきである。この場合、優秀な人材を巡って諸外国との競争になるので、大学・大学院の段階で来てもらって日本の良さを知ってもらう。そして日本を好きな人だけ残ってもらえばよい。また、地方の国立大学も研究拠点になるので、人材が世界中から集まるし、地場企業とのイノベーション連携の可能性が広がる。それによって地域活性化にも資するはずである。

なお、大学での基礎研究支援強化や日本型DARPAの財源は、使途が超長期の観点に立ったものなので、超長期債の発行で賄う。国債は既に40年債の発行実績があり、「イノベーション債」と名付けて同じように40年債として発行してはどうだろうか。

<セーフティネットを整備する>

・日本型企業モデルの問題点

日本型雇用モデル(終身雇用、年功序列賃金など)は、雇用が持つ不確実性を縮減することで労働者の不安を取り除いてきた。対価として、仕事は無限定(何でもする)であったし、会社都合での配置転換や(海外を含めた)転勤を求められた。また、長時間労働も常識であった。ただ、それは「会社」という共同体のメンバーとして会社の発展のために当然のことと考えられており、毎年給料が上がってポストが増えていた時代には苦にならなかったのである。しかし、経済が低迷期に入ると、適応障害を起こし始める。日本型雇用モデルが阻害要因として機能し始めるのである。

問題1:経済が低迷してもメンバー(正規社員)は解雇できないので、企業は正規社員の新規採用を絞った。その時に不運にも就職できなかった学生はシステムの犠牲者といえる。そして正規社員の新卒採用抑制の代替として非正規社員を増やしたのである。たとえ同じ仕事をしていても、社会保障の恩恵をフルに受けられるのは正規社員だけで、非正規社員とは身分格差が存在する。しかし企業にとっては、経済合理性に基づいて行動しただけである。その結果、本来人間労働を守るはずの日本型雇用モデルが、差別装置として機能したことに問題があると考えるべきだ。

問題2:日本型雇用モデルにおいては、定年まで同じ会社で勤務することを前提としている。その方が社員の業務理解度が進み、常に社内での知識の共有が行われることでメンバーの一体感も醸成しやすいので、会社にとっては有利だからである。また、社員にとっても失業の心配なしに同じ会社に長期間勤務することは、生活設計上も安心できたからである。したがって、長期間勤務すればするほど有利な仕組み――年功序列賃金、退職金、企業年金など――が形成された。さらにこれらは、税制――例えば退職金にかかる税金は勤続年数20年を境に退職金所得控除額が違う――によっても補強されている。こうした制度の下では、自己都合で辞やめると金銭的メリットを放棄することになり、経済合理性の観点からは退社して起業することを躊躇(ちゅうちょ)する要因となっている。本書では、労働の流動性を低下させ、イノベーションの阻害要因となっているとしている。

問題3:日本では新卒一括採用が慣行として一般化しており、入社後は様々な職場を経験して(ジョブローテーション)、必要な能力はその経験を通じて習得していく。仕事は無限定で、欧米のようにジョブディスクリプション(職務の内容を細かく記述したもの)はなく、欧米のジョブ型に対し「メンバーシップ型」と呼ばれている。しかし、今回の新型コロナウイルス禍でリモートワークを強いられて、日本のメンバーシップ型の欠点が顕在化している。在宅勤務で業務効率が低下したり、業務管理が十分にできなかったりしているという。また、それによって個人の評価に支障をきたすことになってくるだろう。すなわち、メンバーシップ型はデジタル時代に適さないのである。

・雇用モデルをどう変えていくか

こうした問題点が示すのは、日本型雇用モデルが環境の変化に適応障害を起こし、むしろ阻害要因として機能しているということである。変えるべきなのであるが、それには新しいモデルが必要だ。古いモデルが果たしていた不確実性を縮減する機能を代替するためだ。モデルとしては、EU(欧州連合)が推奨する「フレキシキュリティ」(*注8)が考えられる。経済の活力を増すために雇用の柔軟性と失業時の手厚い保護を同時に行う労働市場政策である。解雇規制を緩和することで成長産業に労働力の移動をしやすくし、失業者は手厚いセーフティネット(失業保険、職業訓練、就職支援など)で守る仕組みである。ただ、日本への導入は長期間をかけて労働者と経営者間の合意を形成することが前提となり、すぐには無理である。また、イノベーションの活性化のために日本のすべての企業の雇用モデルを変えようというのは、現実的ではないだろう。そこで、現在のモデルの一部手直しで、できるところから雇用の流動化を促す方法を考えてみた。

対応策1企業が経済合理的な判断で行動した時に労働者に不利益を与えない仕組みにしていく すなわち、政府が推進する「働き方改革」の中の同一労働・同一賃金を実現すべきである。同一労働・同一賃金によって正規社員と非正規社員を区別する意味が薄れてくるからである。また同一労働・同一賃金実現のためには、ジョブ型への移行が必要だ。さらに仕事に合わせてヒトを採用するジョブ型に移行すれば、新卒一括採用から中途採用に重心が移ってくるはずである。所与のものだと思っていたものが、変わってくるのである。

対応策2労働者が経済合理的な判断をする時に、賃金や退職金、企業年金を中立的にする すなわち、政府は、同じ会社に長く勤めれば有利な諸制度を中立化すべきである。まず退職金の税制での優遇制度をやめるべきである。また企業年金は「iDeco(個人型確定拠出年金)」の掛け金額の増額(非課税)、手続き簡略化などで、制度の魅力を高めて従来型企業年金からのシフトを促す施策を進めるべきだ。「iDeco」はポータブル(転職しても不利益なく次の会社に持っていける)だからだ。さらに、ジョブ型雇用に移行すれば年功序列賃金は適さないので変わっていくだろう。

対応策3デジタル時代に労働者が働きやすく、企業にとってもメリットがあるモデルへの移行を支援する 今回の新型コロナ禍の経験から、日立、富士通、KDDIなど日本を代表する企業がジョブ型への移行を進めるという動きが最近出てきている。ジョブ型に移行すれば仕事と責任が明確になり、リモートワークに適しているからだ。こうした動きに対して政府は、同一労働・同一賃金の実現をなどで支援すべきであろう。こうしてジョブ型への転換企業が増えていけば、新卒一括採用の必要性は薄れ、中途採用が増加する。終身雇用の問題に踏み込むことなく、その影響は次第に広がっていくだろう。

日本型雇用モデルは法律ではなく、あくまで慣行として定着してきたものである。それゆえに、政府が強制的に変えようとしても大きな抵抗が起きるだろう。しかし、今回の新型コロナ禍で、変化の兆しが見られる。政府はそれをサポートする動きをするべきである。そうすれば、雇用モデルが多様化し、イノベーションが増えて企業の新陳代謝が進むことで、雇用モデル自体も変わっていくだろうと考えている。

・ベーシックインカム(基礎的所得)の導入

イノベーション時代の失業者のセーフティネットとしては、ベーシックインカムが優れていると思う。拙稿第36回から38回にかけて『ベーシックインカムを考える』で検討したが、その時の案は、全ての国民を対象に毎月一定額(8万円)給付するというもので、重複する社会保障を置き換えれば、財政的に実現可能であるという結論であった。

また、欧州では今回の新型コロナ禍の現金給付が一種のベーシックインカムだという受け止め方も出ているという。今回の日本の全国民を対象とした特別定額給付金が毎月続くと考えればよいのである。非現実的な案ではなくなりつつあり、選択肢の一つとして考えるべきである。

おわりに:

・冷戦がイノベーションを生んだ

1957年10月、スプートニク・ショックが米国を襲った。時は米ソ冷戦の最中、ソ連は人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。このニュースは、宇宙開発競争でのソ連のリードを世界に見せつけて米国に大きな衝撃を与えたのである。危機感をもった米国は、宇宙開発競争でソ連に打ち勝つために翌年の1958年に二つの機関を発足させた。一つは陸海空軍でバラバラだった宇宙開発の指揮命令系統を一本化した高等研究計画局(ARPA、後にDARPA)(*注9)である。もう一つが、米国国家航空宇宙局(NASA)である。その後ARPAの宇宙開発関係の業務はNASAに移管され、非軍事の宇宙事業がNASA、国防関係がARPAという棲み分けがなされる。冷戦が生み出したこの二つの機関が、米国のイノベーションに大きな役割を果たしていくのである。

NASAには全米から選りすぐりの科学者が集められたが、1970年代前半にアポロ計画が終了して宇宙開発の規模が縮小した。活躍の場がなくなったロケット工学の専門家を迎え入れたのがウォール街であった。ヒトの流動化が進んでいる米国では、優秀な人材はどんどん新しい分野、金もうけのできそうな分野に転出していくが、それが成功した典型的な例である。彼らはロケット工学を金融工学に生かし、「ロケットサイエンティスト」(金融工学の専門家)と呼ばれるようになる。金融工学とコンピュータ技術を融合し、デリバティブ取引や証券化商品などを次々と生み出していった。こうして、リスクを取って高い収益性を追求する金融資本主義が台頭する。

一方、ARPAは数々のイノベーションのタネを育てていく。その一つが、ARPANet (*注10)である。これは、ARPAが大学や研究機関に資金を提供して開始した世界初のパケット通信ネットワークで、冷戦の終了によって民間に開放され、後のインターネットの原型となった。これによってICT(情報通信)革命が加速化していく。主な舞台は米国の西海岸であり、シリコンバレーに多くのICT企業が生まれ発展していく。こうして米国では、東海岸の金融資本と西海岸のテック企業群が経済を牽引(けんいん)していくのであるが、その背景には冷戦が、そして起点には国防予算の存在があったのである。

・米中の新冷戦

米ソ冷戦は、ソ連の崩壊によって米国が勝利を得た。資本主義だけの世界となり、市場は一つになった。国境を超えた経済活動が活発化して、グローバル化が加速化していく。その恩恵を最も享受したのが中国である。ベルリンの壁崩壊から30年の間に、グローバル化が中国を育て、ついに覇権国である米国と対抗しうる存在となった。米中による新しい冷戦が始まったとも言われる。かつての米ソ冷戦は、イデオロギーをめぐる対立であり、ソ連は政治的、軍事的に米国に対抗しえても、経済的には弱体であった。しかし中国は、政治力、軍事力、経済力で米国の覇権に対抗しうる強力なチャレンジャーである。

米国と中国の対立は、資本主義対資本主義の戦いである。あるいは「文明の衝突」だという見方もあるだろう。いずれにせよ、長期にわたり継続される可能性が高い。早期の結着を求めれば、戦争に行き着くしかないことは両国とも分かっているからだ。国家の総力を挙げての戦いであり、軍事費を始めとして相手を打ち負かすために(打ち負かされないために)あらゆる資源が投入されるだろう。これは視点を変えれば、イノベーションが起きやすい環境になるということでもある。デジタルトランスフォーメーション(デジタルによる変革)はこれから本格化し、経済・社会が大きく変化していくなかで、米中新冷戦が展開されるのである。イノベーションの習性――相互に影響し合う(特定の地域、時代に群生する)――を考えれば、米中で大きなイノベーションの潮流が起きる可能性が高まっている。

・日本の進むべき道

そうした環境変化の中で、日本は経済の停滞と貧困化を内部に抱えながら、福祉国家の延命だけが国家目標となっている観がある。これは熟考の末の選択ではない。他に選択肢がないからそうなったといったほうがいいかもしれない。しかし、大きな時代の転換の中で、日本だけが現状維持を図ろうとするのは、時代認識が欠如していると言わざるを得ない。時代環境の変化に対応して行動を起こさなければ取り残され、構造的貧困というマルクス的世界の泥沼から抜け出せなくなるだろう。日本がマルクスの亡霊に苦しみ、中国がシュンペーター的世界に突き進むとは、かつては想像もしなかった悪夢でしかない。

今こそもう一つの選択肢、すなわち、イノベーション志向への転換を図るべきだと考える。その先にあるデジタルトランスフォーメーションの未来をバラ色一色だとは思わない。貧しい人が増えている日本で、富者が次々誕生して富の集中が進み、経済格差が拡大するかもしれない。しかし、賃金の高い雇用は増えていく。そうした良質な雇用をできるだけ増やしていくべきだ。その一方で、所得の正確な把握と再分配機能の強化で修正してバランスを取っていく必要がある。最終的な解決策は、ベーシックインカムしかないかもしれない。また、国家による個人の情報管理という意味では、完璧な管理社会の実現というディストピアが現出する可能性を懸念する人々もいる。しかしそのときにこそ、人権や民主主義といった価値を基盤にした民度が問われると考えるべきである。戦後日本が培った価値の強さを信じたい。

日本は、「延命」より「変革」を選択すべきである。なぜなら、前者はつかの間の安心感を与えてくれるが、それは問題の先延ばしでしかなく、そこには希望がない。後者には、失敗するリスクがあるが、同時に希望がある。この希望こそが、未来を切り開く糧となるのである。

<参考図書>

『野生化するイノベーション――日本経済「失われた20年」を超える』(清水洋、新潮選書、2019年8月)

(*注1)『2040年を見据えた大学院教育の体質改善――関連データ』中央教育審議会大学分科会大学院部会(2018.12.5)、文部科学省より

(*注2)『日本は格差社会になったのか――比較経済史にみる日本の所得格差』(森口千晶、2017年11月)。野口悠紀雄の「1940年体制」論をリベラルの視点から論じている

(*注3)総務省の家計調査によると、「2人以上勤労者世帯所得」の①実収入②可処分所得③消費支出が、すべて過去のピークだった1997年を大きく下回った状態が続いている(1997年→2018年:①▲6.1%/②▲8.4%/③▲11.8%)

(*注4)国防高等研究開発局(Defense Advanced Research Projects Agency=DARPA)

(*注5)政府はイノベーション推進のために『統合イノベーション戦略』(2020年7月に本年度素案を発表)を策定している。目標とする分野は、AI技術、バイオテクノロジー、量子技術、マテリアルの四つである。本稿では、これにエネルギーを加えた五つの分野の基礎研究を対象案とした

(*注6)『科学技術指標2019』科学技術・学術研究所(NISTEP)

(*注7)『国立大学の研究力低下は運営費交付金の減額によるものか』河村小百合日本総合研究所上席研究員(2018年7月)

(*注8)「フレキシキュリティ」:デンマークで成功して注目を集めている。①フレキシブルな労働市場②失業者に対して手厚い給付を行う失業保険制度など③失業者の技能向上を目的とした職業訓練を伴う積極的労働市場政策――の三つの密接な相互連携が鍵とされる。(「デンマークのフレキシキュリティと我が国の雇用保護緩和の議論」〈松淵厚樹、労働政策研究・研修機構、2007年3月〉)

(*注9)高等研究開発局(Advanced Research Projects Agency=ARPA)、後にDefenseがついて国防高等研究開発局(DARPA)となった

(*注10)ARPANet:最初の接続実験に参加したのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、スタンフォード大学(スタンフォード研究所)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)、ユタ大学の4校。(日本ネットワークインフォーメーションセンター 2017年8月ニュースレター「インターネットことはじめ」)

『視点を磨き、視野を広げる』過去の関連記事は以下の通り

第41回「格差と貧困」という視点:『ポピュリズム』その3:『西洋の自死』(後編)(2020年4月29日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-14/#more-10535

第40回「格差と貧困」という視点:『ポピュリズム』その2:『西洋の自死』(前編)(2020年4月8日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-12/#more-10317

第38回「格差と貧困」という視点:『ベーシックインカムを考える』その3(2020年 1月30日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-17/#more-11115

第37回「格差と貧困」という視点:『ベーシックインカムを考える』その2(2019年 12月24日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-16/#more-11109

第36回「格差と貧困」という視点:「ベーシックインカムを考える」その1(2019年11月20日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-9/#more-9676

第30回資本主義の現状:『新・日本の階級社会』を考える―その4 資産から見た階級構造(2019年4月30日)

https://www.newsyataimura.com/furukawa-3/#more-8646

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