山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社エルデータサイエンス代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
日本には四季があり、二十四節気や七十二候などの中国由来の暦が生活や文化に豊かな言語表現を与えている。異常気象が続く今日では、四季の気候変化が失われつつあるのではないだろうか。英国で生活していると、日照時間の変化が大きく、長い夏と冬の間に短い秋と春が挟まっている感じだった。中国の国土も砂漠化しているので、実際に四季が感じられる地域は限られているだろう。地球のどの地域でも、夏と冬はあるのだから、春と秋がどの程度の期間で、変化に富んではいるけれども予測可能な気候変動となるのかということを定量的に評価すれば、「四季率」を定義できるだろう。「四季率」は地域ごとに長期的な変動を示すので、地域差や長期変動の要因を探索する。四季率の高い地域は生態系が多様なように思える。しかし筆者の仮説は因果関係を逆転して、生態系の多様性が四季を作るということを考えている。人工衛星から計測可能な気象データから計算できる四季率によって、生態系の多様性が失われる状況を全地球的に監視できるかもしれない。
異常気象もいつものことになれば、防災対策が要求されるようになる。しかし、人類の活動が地球環境に重大な影響をもたらす現代において、過剰な防災対策が異常気象を増長している可能性もある。原因と結果の因果関係は、近代ほど単純でも自明でもなくなっている。では、近未来において、英国の経済学者エルンスト・シューマッハ(1911-1977)が望んだ『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫、1986年)に回帰する可能性はあるのだろうか。米国大統領選挙ではオバマ政権のアンチテーゼでしかなかったトランプ政権が敗れ、オバマ政権時代の大規模な科学技術中心の政策に復帰するという。米国民の半数がエリート官僚による上から目線の政策に疲弊しているという現実はどこに行ったのだろうか。確かに、米国の新型コロナウイルス感染症対策は世界最悪の部類だけれども、最良の感染症対策が中国というのでは、科学技術の限界が明らかだ。現在の科学技術は大量破壊兵器を実現したけれども、生活を守ることには失敗している。米国民の大半は単純で幸せな生活を望んでいるはずで、大規模な科学技術中心の政策への期待感は薄い。オバマ政権のチャレンジは尊敬するけれども、4年間のトランプ政権から何も学ばなかったとしたら、米国の知識人はすでに終わっているとしか言いようがない。「スモール イズ ビューティフル」を発展途上国における中間技術で実現するのではなく、先進諸国におけるデータ技術で実現することを考えてみよう。
生活を守るデータ技術を実現するためには、大量の生活データが不可欠だ。個人情報保護のような犯罪防止の後ろ向きの法律議論ではなく、例えば医療情報を病院や国家、場合によっては生命保険会社が独占している現状を反省してみよう。医療情報は患者自身に帰属するのであって、患者が患者のために利用することが健全な姿だろう。医師のような高度な知識がないと医療情報を利用できないと思うのは時代遅れで、医師よりもAI(人工知能)は学習速度が速く、記憶力もよい。製薬企業が作るのは「もうかる」治療薬だけで、多くの治療薬は、国民の税金で支えられる大学や研究機関の基礎研究から生まれている。食品の安全性はどうだろうか。国家が基準を作り、成分がラベル表示されているけれども、分析データは公開されていない。食品に含まれる全ての工業製品の分析結果をインターネットに公開することは技術的には困難ではなく、ラベルにはQRコードを印刷するだけで十分だろう。残留農薬も、食品添加剤も区別する必要はない。自動分析装置で一斉分析するだけのことで、オリンピックのドーピング検査のようなものだ。生活を守るのは国家や企業ではなく、公開データと自分自身のデータだけで十分なはずだ。
根本から考え直すのは冒険好きの哲学者の役割で、エリート官僚ではない。歴史的に見て、支配者を助ける哲学者、革命家、反逆者、隠遁(いんとん)者など、様々なタイプの哲学者がいるけれども、「新しい概念」を提案する哲学は、いつでも冒険的にならざるを得ない。ひとつの「新しい概念」が、多くの古い概念を破壊してしまう可能性がある。科学技術の大発見も、そのような新しい概念からもたらされる、もしくは新しい概念がないと理解できない。大量の「データ」が生活を守る可能性があるとしたら、それは新しい概念を発見したときだろう。私たちが生きている世界は、いまだに不可知な部分が多く、もっと多くの「データ」が必要で、冒険好きの哲学者が活躍するのは1000年オーダーなのだから、その間、私たちは生活を続けるしかない。このように、筆者にとって常識とも思えることを、エリート官僚や覇権国家が理解していると信じたいけれども、自分が知らないことを知っているのは哲学者だけだから、あまり期待できそうもない。『スモール イズ ビューティフル』を再読して、四季率の計算方法でも考えることにしよう。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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