古川弘介(ふるかわ・こうすけ)
海外勤務が長く、日本を外から眺めることが多かった。帰国後、日本の社会をより深く知りたいと思い読書会を続けている。最近常勤の仕事から離れ、オープン・カレッジに通い始めた。
◆ はじめに
新型コロナ禍によって、国家を意識することが増えた気がする。理由は二つ考えられる。一つは、グローバル化の進展で勢いを増すヒト・モノ・カネの流れの中で、垣根が低くなっていくばかりと思われた国境の復権に象徴される領域国家としての存在感の高まりである。EU(欧州連合)域内での移動制限や国家間のワクチン争奪戦を見ていると、その思いを強くする。もう一つが、新型コロナ対策で国民の自由や私権を制限する一方で、生活を保障する強大な権力――国家の怖さとありがたさ――を実感したためである。特に、欧米諸国での政府の対応の「厳しさ」と日本の「緩(ゆる)さ」とのギャップを再認識したことは、(日本という)国家のあり方を考える良い機会となった。
今回はMMT(=Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)の4回目である。MMTの貨幣論の基本は「国定信用貨幣論」である。これは、貨幣の本質を信用・負債関係でとらえる「信用貨幣論」と、貨幣の価値の源泉は国家権力にあるとする「表券主義」を結合させたものだ。前回までの3回にわたって検討してきたのは、信用貨幣論に関する主流派経済学からの疑問や批判であった。一方、表券主義に関しては、主流派はあまり注目しているようには見えない。しかし、中野が目指しているのは、『富国と強兵』の書名が示すように、富国(経済)と強兵(政治力・軍事力)を総合して分析することである(中野は「地政経済学」と呼ぶ)。そして経済は、MMTの発動で復活させ(富国)、政治力・軍事力に関しては、地政学的思考を取り入れ、自律性のある国家を志向していく(強兵)ことを主張する。
このように現在の日本よりも強い力を持った国家を目指すならば、前稿の終わりに述べたように日本でMMTを支持する政治的基盤をどこに求めるのか、政治・安全保障面での自律は対米関係を考えれば現実的な選択肢となりうるのだろうか、といった疑問が浮かんでくる。本稿では中野の国家観、歴史観、さらに地政学的思考を確認した上で、そうした問題への中野の考えを検討していきたい。
◆ 表券主義への批判的見解
前稿で、主流派ながら同じケインズ派(ニューケインズ派)の観点から、貨幣論においてMMT(ポストケインズ派)と共有しうる基盤があることを示した松尾匡立命館大学教授は、MMTの表券主義に対してコメントしている数少ない一人だ。松尾は、「(MMTにおいては)国民はもともと生まれながらにして国家に対して納税の義務を負うということを前提にしている」と理解し、MMTが国債を国民の側の資産(国家の負債)とすることを挙げて、「(国民の)外にある国家に対して、国民は生まれながらの一方的な義務を負っている」と批判的にとらえる。さらに松尾は、これはイデオロギー――愛国主義的ではあるが、非共和主義的――だとし、「天皇の赤子」という連想が浮かぶと言う。さらに「共和主義的な愛国主義のイデオロギー」を対置して、そこでは「国家は国民によって構成される国民のものであるからこそ、国債は国民の側の債務としてとらえられている」としている(*注1)。
日本は立憲君主制か、共和制かを問われれば、象徴天皇を戴く広義の立憲君主制という理解が一般的だと思われる。その感覚からすると、むしろ松尾の「共和主義」に強いイデオロギー性が込められているように感じてしまうのであるが、松尾の指摘自体は中野流MMTの本質を突いているのも事実である。ただしそれは、松尾の指摘が連想させるような、戦前の天皇制とナショナリズムに彩られた強権主義的な国家を、中野が想定していることを意味するものではない。それを知るために、中野が前提とする国家像とは何かを次に考えていきたい。
◆ 中野が考える国家像
・国民国家の本質――国家による資源動員
近代国家は、「国民国家」である。辞典(*注2)で定義を確認すると、国民国家(nation-state)とは――国家への忠誠心を共通のアイデンティティーとしていると想定される人々を「国民」として持つ領域国家――である。この定義が意味するものは、前近代の国家と国民国家を分ける重要なポイントは、「国民」意識の形成と「領域(主権が及ぶ範囲=領土、領空、領海)」の存在だということだ。また、主権という言葉が出てくるが、国家の「主権(sovereignty)」とは――①統治権(国民及び領土の統治)②国家主権(国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利=対外主権)③国民主権(国家の政治を最終的に決定する権利)――とされる。
国民国家はどのようにして形成されたのであろうか。中野は、「国際関係の圧力が国家を規定する」という考え方に立つ。国際関係の圧力の最たるものが「戦争」である。国家は、戦争に備えるために構造を変えてきたと考えるのである。そして、国家の本質といえる戦争のための人的・物的資源の動員問題を解決したのが、国民国家であるとする。中野は「(国民国家は)戦争のための資源動員に最適な国家体制として発明された」と表現している。
そこでは、資源動員は、国家の直接的な強制力の行使によって実現されるのではなく、(国家の強制的な指令が)市場機能を介して影響を及ぼす形で行われた国(例えば17世紀以降の英国)が、いち早く国民国家を完成させて優位に立ったとする。市場を介することによって、「より効率的かつ大規模に資源の動員が可能になった」結果、「国家の資源動員の能力が強化されたにもかかわらず、市場経済も著しく発達することになった」というのである。国民国家は資本主義を活用しながら戦争を通じて互いに発展した――資本主義は国家が育てたもの――という理解である。
・経済政策と資源動員――総力戦の視点
中野は続けて、このような資源の動員は、現在では「経済政策」だと理解されているとする。すなわち、経済政策とは――国家が経済的な目的を達成するために物理的及び人的資源を動員すること――であり、マクロ経済政策とは――国家による資源の「総動員」に他ならない――ということになる。同じ観点から――戦争による資源動員からは、国家体制だけでなく、さまざまな技術や制度が産み落とされた――と考えていく。そして戦後の福祉国家もそうであり――福祉国家は、強壮な兵士の育成という戦時中の政策が戦後に民政化されたものであった。福祉国家とは、国家総動員体制の「平和利用」なのである――という理解が導かれる。
中野は、ケインズ主義的な国家の経済への関与と福祉国家は「第2次世界大戦を起源」とすると考えるのであるが、この指摘は、総力戦論(*注3)を想起させる。ただし総力戦論は、総力戦体制を資本主義の高度化・システム化としてとらえ、現代社会における個人の抑圧という側面を批判的に考察する。しかし、中野が考える国家と個人の関係は異なる。
・制度経済学における個人と国家
中野は自身をポストケインズ派制度経済学の立場だとしている。制度経済学とは、経済の組織と管理を研究対象とし、制度――社会的慣習の集積――を重視する。そして、人間は「社会的存在」であり、「他者との関係や社会環境の影響を受けて意図や嗜好(しこう)を形成するものであると想定されている」と考える。
一方、主流派経済学が分析の対象とする「個人(「経済人」と呼ぶ)」は――自己の物欲を満たすという利己的な目的を達成するために、利害損得を合理的に計算して自律的に行動するような個人――だとする。したがってその分析手法は――経済現象をこの「経済人」の合理的な選択行動に還元して説明しようとする「方法論的個人主義」――となる。制度経済学の人間観が社会との関係を重視する「社会的存在」であるのに対し、主流派経済学は「個人」が単位となり、「社会」は想定されていないということである。
また、中野は、制度経済学における究極の制度が「国家」であるとし、国民国家の政治権力を「インフラストラクチャー的権力」――制度を通じて市民社会と交流・調整しつつ、資源を動員する――ととらえる。そして中野は、人間は――いずれかの主権国家によって権利を付与され、かつその権利を保障されることによってはじめて、「私」「個人」といった権利主体として存在しうる――と理解する。近代的個人とは、「言わば領域国家のインフラストラクチャー的権力に依存する存在」ということになる。こうした理解は、社会の中で生きる人間の本質をとらえているように思える。しかし、本来的に人間は自由だ――国家からも――という思想の流れがある。新自由主義思想はその一つであるし、個人の自由を尊重するという意味ではリベラルとも親和性があるだろう。後述するように、それがMMTの日本での受容に影響を与えていると思われる。
◆ 地政学的に現在の世界を把握する
・地政学の復活
中野は、「地政経済学」を唱える。地政経済学とは、書名の『富国と強兵』が示すように、富国(経済力)と強兵(政治力・軍事力)との間の「密接不可分な関係を解明しようとする社会科学」だという。しかし経済学も地政学も専門化が進み細分化されすぎているので、総合して分析すべきだと主張するのである。
しかし地政学と聞くと、良いイメージを持たない人もいるだろう。それは日本では「地政学」という用語が、地政学を重視したナチス・ドイツを想起させるからだといわれる。しかし、地政学とは「国際関係を考える際、地理的な条件に注目して、グローバルな広域的視野から行う思考」(*注4)と定義されるように、当然のことを研究する学問である。冷戦の終了によって地政学が復活したといわれているが、それは覇権国である米国の相対的地位の低下と中国の台頭という国際環境の変化を背景にした現象であり、「領土と軍事力を巡る衝突が国際問題の中心に戻ってきた」(中野)から、再び地政学が必要とされるのだということである。
・地政学的に現在の世界を把握する
中野の現状認識を要約すれば――冷戦後に単独覇権国となった米国は、経済における世界の単一市場化とグローバル化、政治におけるリベラルな国際秩序(自由と民主主義、法の支配)は、普遍的真理であると信じた。それらを上部構造とする地政戦略は、協調的な国際秩序を構築することであった。しかし米国流の民主主義への過信が、中東などで失敗を重ね、米国の威信は低下する。その一方で、皮肉にも米国が主導したグローバル化の恩恵を最大限に享受した中国が、米国への挑戦者として台頭する。こうした環境変化が米国の地政戦略の維持を困難にした――であろう。
日本に関して言えば、「冷戦期から今日まで要であった日米同盟に基づく既存秩序に対して、急速に勢力を拡張した中国が挑戦しようとしている」ということになる。ここまでの認識は、中野だけではなく、多くの地政学者に共有されていると思われる。しかし、同じ現状認識から出発した中野の問題意識は――戦後の米国による覇権体制の下で、日本は安全保障を考える必要がなかった。しかし米国の覇権が崩壊(少なくとも東アジアにおいて)しつつあるという国際環境の大きな変化の中で、従来のように安全保障や外交を対米依存一辺倒のまま維持していくことは困難になっている。日本のとるべき道は、対米従属から脱して国民国家として自律性を高める道を模索していくしかない――という点にあると考える。
・対米従属
戦後、日本は米国による安全保障の下で、軽軍備・経済第一主義の道を進むことで、経済大国となった。本書では、「強兵なき富国」を実現したが、一方で安全保障上の自律性を放棄していたとする。中野は、それを象徴するものとして、米国のタカ派の政治学者ブレジンスキーの「日本は保護領」、あるいはリベラル派の歴史学者ジョン・ダワーの「従属的独立」という表現を挙げる。ブレジンスキーの考えは――(冷戦後のアジア情勢に関して)米国は、日本との軍事関係を強めすぎれば、中国との協調関係が崩れる。逆に日米同盟を弱めたり、破棄したりすれば、日本が軍事大国化して、アジアの勢力均衡を乱す――であったとする。この発言が含意するものは、米国にとって日米同盟は「二重の封じ込め」――冷戦下でのソ連封じ込めと、日本の軍事大国化防止(キッシンジャーは中国の周恩来に日米安保を「ビンの蓋(ふた)」と表現したと言われる)――であるということである。
こうした日米関係を、ダワーは、日本は対米従属という「檻(おり)」に入れられていると表現している(*注5)。抜け出そうと思っても、抜け出せないという意味で檻と言っているのであるが、それは平和憲法と日米安保条約はコインの表裏の関係にあるという認識に基づく。こうした従属構造が形成された背景には――①敗戦後の占領期に絶対権力者(天皇の上位)であった米国の自己都合でつくられた構造だということ②日本側も平和憲法の下での安全保障は米国に守ってもらうしかないという現実的な判断があったこと③独立後に変えれば良いことだと双方が思っていたこと――があったと考えられる。しかし、日本の独立後も、この構造は変わらず今日に至っている。
日本が現在置かれている状況を、ダワーは次のように説明する――平和憲法、講和条約、日米安保条約からなる米国への従属的構造の問題点は、日本人が憲法9条に忠実に従えば、湾岸戦争時のように世界から嘲笑(ちょうしょう)されることになる。反対に憲法9条を放棄すれば、アジア諸国から激しい反発を招く。占領という「檻」から抜け出したのはいいが、次に従属という新しい「檻」に入るという「罠(わな)」に落ちたようである――。
自民党にとって憲法改正は結党以来の悲願だったはずであるが、歴代自民党政権は、本気で「檻」から抜け出そうとしたのであろうか。それともつかの間の安逸に身を委ねて、いつしか年月を重ねてしまったのであろうか。憲政史上最長を誇った安倍政権は、憲法改正に挑戦しようとしたが、実現することはおろか、国民投票もできずに断念せざるを得なかった。中野は、どのような方法でその檻から抜け出そうというのであろうか。
◆ 日本におけるMMTの受容
・米国ではMMTは左派の理論
松尾は、欧米における主流派経済学の財政緊縮論に対抗する勢力を「反緊縮三派」と呼んで、MMT、左派ニューケインズ派、信用創造廃止派を挙げていた。MMTはポストケインジアンの左派が唱えており、信用創造廃止派は左派色がさらに強い。このことから分かるように、反緊縮三派は、新自由主義的政策が貧富の格差を拡大しているという現状認識をもち、政府の介入で社会的公正を実現しようというリベラル的改革志向で一致しているといえよう。ただし、この政治的位置づけは欧米の話であり、日本においては違う政治的立ち位置で受容されたというのが松尾の見立てである。
松尾は、米国では、MMTの論客として知られるステファニー・ケルトン(ニューヨーク州立大学教授)が、大統領選の候補であった民主党左派のバーニー・サンダースの経済政策ブレーンになったこと、また民主党左派のオカシオコルテス下院議員がMMTの必要性を訴えたことを例に挙げ、急進左派系政治家の経済政策を支える経済理論の一つになっているとしている。これに対し、「(日本で)MMT支持を表明した論客や政治家は(れいわ新選組の山本太郎代表を除けば)保守派ばかりだった」と言うのである(*注6)。
・MMTは日本的な受容をされているのか
MMTは日本では米国と違う受け止め方をされているのであろうか。それを考えるにあたって、米国における、保守とリベラルの意味を確認しておく必要があると思われる。
政治学者の佐々木毅(*注7)は、米国を、自由と平等、人民主権を基本原理としてつくられた人類最初のイデオロギー国家だと定義した上で、米国には自由主義しかないという。その自由主義の伝統を守れという思想を「保守主義」と呼ぶ。一方、時代環境の変化によって自由という価値を守るためには、政府による自由への介入も必要だという思想が生まれる。それを「リベラル(自由主義)」と呼んでいる。リベラルも保守も、自由主義をベースとしており、その上で政府の役割の違いを議論しているのである。米国にはマルクス主義は根付かなかった。そうした政治的土壌の中で、MMTは、格差是正などの社会的公正実現のためには政府の介入が必要だと考えるリベラルに受け入れられているのだと思う。
一方、日本では、米国的なリベラルの伝統は希薄だ。戦後、保守主義に対抗したのは、社会主義志向の強い勢力であった。しかしその後、社会主義体制の抑圧的な現実を知り、さらに社会主義体制自体の崩壊によって、マルクス主義に幻滅した左翼勢力は、欧米流のリベラルへの転換を図った。その結果、リベラル派の使命は、階級闘争から「国家や社会や文化の支配から「個人」を解放すること」(中野)となった。
こうした日本の政治的土壌で、MMTは真の「主権」を確立する強い意志と能力を持った国家を前提としていると聞けば、日本のリベラルは腰が引けてしまう。リベラルにとって重要なのは国家の抑圧からの個人の解放や観念的な平和主義であるならば、MMTは危険思想と映るかもしれない。その一方で、自民党の一部の政治家にとっては親和性を感じるだろう。財政規律の制約がなくなれば、かつてのように公共投資を復活させて、地方にお金をバラ撒(ま)くことができるし、選挙にも有利だ。また、独立した強い国家を志向するためには憲法改正が必要だ。これが日本において、MMTがリベラルに警戒心を抱かせる一方で、保守勢力から支持を得る可能性があると考える理由である。しかし、中野は本書で自身を民主社会主義だと言っており、リベラルの立場だということになる。どのようにしてリベラルから支持を得ようと言うのだろう。
◆ 基軸通貨という制約
・基軸通貨である米ドル調達問題
本稿ではMMTの表券主義について考えてきた。表券主義とは、国家権力によって貨幣は成立するというものだ。近代の国家とは領域国家(国民国家)であり、その国の通貨は領域内で発行され通用する。主権国家は、自国通貨を無限に発行する権限を有する。しかし国際間の取引は米ドル建てで行われることが一般的だ。このように、国際間の決済に使われたり、国の外貨準備になったりする通貨のことを「基軸通貨」と呼ぶ。現在の世界の基軸通貨は米ドルである。法律や制度で決まっているのではなく、圧倒的な経済力、政治力、軍事力を背景に米ドルが実質的に基軸通貨として国際的に認知されているのである。米ドルは、米国内で流通する通貨であるとともに、国際間の取引に使われているという二重性を持つ。国際間で使われるドルは、米国が経常収支の赤字やドル建てのファイナンスを通じて供給している。
日本の国際収支を見ると、経常収支黒字が金融収支黒字(純資産の増加を示す)に対応している先進国型である(*注8)。そうしたフローがストックとなり、現在日本は世界一の対外純資産国(約342兆円/平成30年末)である。ただし、金融収支の黒字は、国内に投資先がないので海外に資本が移動していることが背景にあることを忘れてはならない。こうした環境下で、日本企業の海外投資(ドル建てが一般的)は高水準が続いているが、それをファイナンスしているのは邦銀である。また邦銀は、国内の運用難を背景に海外資産を増やしてきた(*注9)。したがって恒常的にドル調達が必要である。しかしドルの供給者である米銀は、米国内の諸規制を充足するために資金を出さない傾向がある(*注10)。そのため、邦銀が市場でドルを調達するのは容易ではない。そこで、為替スワップを利用してドル資金を調達することが一般的に行われている。とはいえ需給関係がタイトなのは同じなので、平常時でも余分なコスト(プレミアム)を払わなければならない。金融システムが不安定になると、このコストが跳ね上がる。
今回のコロナ危機に際して、世界的なドル需給の逼迫(ひっぱく)懸念が起きた。ドル資金不足は、金融危機を誘発する可能性があり、なんとしても危機発生を防がねばならなかった。結果的には、FRB(米連邦準備銀行)が主導して主要国の中央銀行に、ドル資金を供給することで危機発生を未然に防いだのであるが、その際の日銀の危機対応が多くのことを示唆していると思われるので、ここで取り上げたい。元日銀副総裁の中曽宏大和総研理事長が講演で、今回の危機対応を次のように要約している(*注11)。
①(今回のコロナ危機時に)日銀が最も懸念したのは、ドル資金の枯渇(こかつ)である。ドルは基軸通貨なので貿易や金融取引の決済に必要であり、コロナ危機でドルへの需要が予備的なものも含めて飛躍的に高まった
②(手をこまねいているとドル決済ができず危機に陥るので)日銀が円を見合いにFRB(米連邦準備銀行)からドルを調達して(これを「ドルスワップ」と呼んでいる)、国内金融機関に供給し、国内金融機関はそれを企業に供給することで支援した
③当時FRBは全世界の中銀(14行)に4500億ドル(約45兆円超/昨年5月のピーク時)のドル資金を供給したが、全体の半分を日銀が占めた
④中央銀行による自国通貨の発行は無制限に可能なので、FRBのドル供給は無制限に可能であり、そのスワップの対価としての日銀券の発行も無制限に可能である。したがって、中央銀行間のドルスワップの仕組みに理論上は限度はない(この中曽の発言はMMTを認めているわけではなく、事実を述べただけである)
・MMTをフルに活用できるのは基軸通貨国の米国だけ
通貨主権によっていくらでも発行できるのは自国通貨だけである。外貨を獲得できなければ経済活動に大きな制約ができる。そのため、MMTが適用できる国は限定される。まず経常収支が黒字であること。これは輸出競争力があって貿易収支が大幅な黒字、あるいは日本のように海外資産からの収益である第1次所得収支が大きいことが条件になる。そうしたフローの黒字を蓄積して景気変動や為替危機に耐えられる分厚い外貨準備が不可欠だ。また、外貨建ての借り入れに依存していないことも重要だ。過去の国家(ソブリンリスク)のデフォルト(債務不履行)の多くは外貨建て借り入れで発生している。こうした条件を十分に満たせる国としては、主要国であるG7(米、日、英、独、仏、伊、加)が頭に浮かぶ。ただし、EU加盟国で共通通貨ユーロを採用している独、仏、伊は主権国家であるにもかかわらず、通貨主権を持たないので条件に該当しない。中野は、非国定信用貨幣を持ち、財政赤字を制限するEUは新自由主義的だとして成功しないとみている。残るのは、米、日、英、加である。
前述の中曽の発言は、主要国の中央銀行は過去の危機対応の教訓を生かして国際間の協力体制を構築しているので大丈夫だということを訴えているが、同時に基軸通貨である米ドルを供給できるのは米国だけだということを明らかにしているのである。その事実から導かれるのは、MMTの基本命題である無制限の自国通貨発行の利点を最大限生かせるのは米国だけであるということである。基軸通貨国ではない国は、米ドル調達を米国に依存せざるを得ないという問題を抱えている。米国との友好国であれば、危機時には米国の支援を得られるだろうが、米国と対立している国はそうではない。中国はそうした事情を十分認識しており、それが国際的な決済の人民元化を進めて元経済圏をつくろうとしている理由である。
では日本はどうか。今回のFRBによるドル供給の最大の受益者は日本であったことから分かるように、米国の同盟国である日本は米国のドル供給を心配することはないだろう。しかし、もし日本がMMTを発動し、その前提となる自律性をもった国になろうとすれば、話は違ってくるかもしれない。米国はそうした日本を望まない可能性があるということである。「ビンの蓋」が外れると困るのである。そう考えると、日本は外交や安全保障の面で、戦後ずっとそうしてきたように、おとなしく米国依存を続けるのが一番賢明だということになる。
なお、基軸通貨問題に関するMMT的回答は――グローバル化を止め国内産業を保護する、貿易依存度(日本は決して高くはないが)をできるだけ下げる、積極的な財政投資で国内需要を押し上げて海外投資から国内投資への回帰を促す、日本にとってアキレス腱(けん)(石油輸入のために膨大な外貨が必要)であるエネルギーの輸入を減らすために、再生エネルギーへのシフトを加速化するなどで直接・間接にドル需要を減らし、影響を軽減する――だろう。そのために必要分野に重点的にMMTの武器である財政投資を続けていけば可能かもしれない。
◆ 本稿のまとめ――MMTの限界と可能性
(1)中野の考える国家像は以下のように要約できるだろう。
①国家は戦争のために資源を動員する。それを最適化したものが、国民意識と領域を特徴とする国民国家である。資源動員は現在も経済政策という形で継続しており、福祉国家は、戦争と冷戦を背景とした動員の見返りとして実現した「総力戦の民生化」である
②資源動員は市場機能を介することで強化され、同時に資本主義の発展を促した。近代国家が資本主義を育てたのである。しかし資本主義は構造的な不安定性を有しており、経済金融危機を防ぐためには、国家という制度(財政金融政策)によって制御するしかない
(2)こうした理解の上に、中野は地政学的思考を取り入れ下記の現状分析を行う。
①敗戦と冷戦構造は、日米同盟による「二重の封じ込め」を生み、その代償として日本は「強兵」なき「富国」を手に入れた。しかし、冷戦の終結によって日米同盟は日本の「封じ込め」の側面が強くなった。米国は日本に新自由主義的構造改革を求め、日本は防衛政策だけでなく、経済政策においても自律性を失い「強兵だけでなく富国まで失った」
②単独覇権国となった米国は、中国のグローバル経済への統合を企図したが、それによって時間を稼ぎ力をつけた中国は、米国が主導する国際秩序に挑戦を始めた。米国のグローバル覇権は衰退に向かいつつあるが、中国は東アジアの地域覇権を目指しているだけなので、米国が現実的になってそれを容認すれば、中国との共存は可能である
③しかし米中の妥協による東アジア秩序の安定において、最大の不安定要因は日本である。日本の選択肢は、米中両国への従属を受容するか、自主防衛力を高め勢力不均衡を解消して自律性を高めるか、である。そして後者は米中両国が望まないからである
(3)現在の米中対立の激化を見れば、短期的には共存の実現は難しいようにも思えるが、中野の分析は、国際関係の不確実性を前提にすれば非現実的とは言えないだろう。ただし、日本の選択を制約するものとしての日米安保と平和憲法という「檻」は残されたままである。「檻」からの脱出のために、対米依存一辺倒路線の修正をリベラルに期待してきたが、それが間違っていたのかもしれない。そこで逆転の発想で、第2次世界大戦に向けての総力戦体制を構築し、戦後はそれに携わった人々が結集して、総力戦体制の平和利用としての福祉国家建設を実現した政党、すなわち自由民主党の「覚醒」の可能性を考えてみた。
すなわち――自民党は、1990年代後半から新自由主義への傾斜を強めたが、当時既得権益擁護派として排除された党内保守派を再結集する。スローガンは、MMTを使った積極的な財政支出での地方創生である。それで選挙に勝ち続けることができる。また、憲法を改正して安全保障面での自律性を高めるというのは自民党の結党以来の悲願だったはずである。中野の意図にかかわらず、自民党にとって、MMTは強い権限と(財政という)高い能力を与えてくれる強力な武器になる可能性をもっているのである――。しかし自民党の「覚醒」が、日本の復活をもたらすのか、過去の悪夢の再現になるのかはわからない。MMTは、国民の質を問うのである。
<参考書籍、文献>
『富国と強兵――地政経済学序説』中野剛志著、東洋経済新報社(2016年12月初版)
『反緊縮三派の議論の整理』松尾匡、景気循環学会68号(2019年11月)
(*注1)松尾匡『反緊縮三派の議論の整理』
(*注2)「国民国家」:コトバンク>百科事典マイペディア、「主権」:コトバンク>デジタル大辞泉
(*注3)第23回、24回『1940年体制』参照
(*注4)『新しい地政学』(北岡伸一、細谷雄一編)東洋経済新報社
(*注5)第15回『敗北を抱きしめて』その3参照
(*注6)『MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由』松尾匡、東洋経済オンライン2019年9月6日
(*注7)『アメリカの保守とリベラル』佐々木毅著、講談社学術文庫
(*注8)国際収支では、移転等収支と誤差脱漏を除くと経常収支の黒字は金融収支の黒字に対応する。また、日本の経常収支黒字は、かつては貿易収支の黒字が牽引(けんいん)してきたが、近年は海外に投資した資産からの収益である第1次所得収支の黒字が中心になっており、成熟国型になっている(参考:財務省ホームページ)
(*注9)邦銀の国際与信残高(海外への貸出及び証券投資など)は、約501兆円(2020年3月末)(出所:日本経済新聞2020年6月18日)
(*注10)『金融規制の影響によるドル調達コストの上昇』(野村資本市場クォータリー2016Winter)によれば、リーマン以降の規制強化も影響した複合的要因だとしている
(*注11)日経バーチャルグローバルフォーラム第9回:「コロナ危機への政府対応の評価と今後の課題」(2020年8月29日)での中曽宏大和総研理事長(元日銀副総裁)の講演を要約したもの。その下敷きとなったと思われるレポートが同じ大和総研から『ドル資金需要に対応する中央銀行間スワップ』(2020年4月7日)として公表されている
コメントを残す