山本謙三(やまもと・けんぞう)
オフィス金融経済イニシアティブ代表。前NTTデータ経営研究所取締役会長、元日本銀行理事。日本銀行では、金融政策、金融市場などを担当したのち、2008年から4年間、金融システム、決済の担当理事として、リーマン・ショック、欧州債務危機、東日本大震災への対応に当たる。
日本銀行の黒田東彦総裁が1月の会見で、異次元緩和に対する自己評価を述べている。「実際にあり得た他の金融政策に比べ、経済の回復を助け、デフレからの脱却を助け、企業収益を改善し、雇用も大幅に伸びた」との高い評価だ。
この主張には、どれほどの根拠があるだろうか。
◆揺らぐ物価目標の位置づけ
はじめに問われるべきは、物価目標との関係だ。異次元緩和の開始から約9年が過ぎた。この間、物価目標2%は一度も達成されていない(参考1参照)。評価するには、まずもって物価目標の位置づけが明確でなければならない。
(参考1)消費者物価前年同月比(除く生鮮食品)の推移
(注)2014年4月、19年10月の消費税率引き上げおよび19年10月、20年4月の教育無償化政策の影響を除く
(出典)総務省統計局「消費者物価指数」を基に筆者作成
物価目標の位置づけは、9年前の総裁・副総裁就任会見の際に、理論的支柱と目された岩田規久男副総裁が明言している。
すなわち、物価目標の達成こそがデフレ脱却の条件であり、目標を達成できなければ言い訳は許されない、という理屈である。この主張は、日銀の前体制を批判していた当時から首尾一貫したものだった。このロジックに従えば、物価目標を達成していない異次元緩和が高く評価されることはありえない。
もちろん、黒田総裁や他の政策委員と岩田前副総裁との立場は異なっていたかもしれない。筆者も、岩田氏のように物価目標を絶対視する考えはない。物価目標はもっと柔軟に考えるべきであり、そもそも目標2%は高すぎるとの考えだ。
しかし、今の日銀はかたくなまでに物価2%に固執する。柔軟な運営の余地をこれほど排除する例は、世界の中央銀行でも稀だ。岩田氏のロジックを踏襲しているようにしかみえない。物価目標への固執と異次元緩和への高い評価は、矛盾である。
◆「経済の回復」は特別だったか
以下では、物価目標との関係は百歩譲り、実体経済の動向を確認しておこう。
参考2は、実質経済成長率の推移である。下段は日銀総裁・副総裁の任期に対応する5年ごとの年平均成長率を示している。
(参考2)実質経済成長率の推移
(注)21、22年度の経済見通しは、日本経済研究センター「ESPフォーキャスト調査」(2022年2月調査)による。ESPフォーキャストとは、民間エコノミスト約40名の予想の平均
(出典)内閣府「国民経済計算」を基に筆者作成
5年単位でみた日本経済は、景気回復期と危機時の繰り返しである。異次元緩和下の9年も、前半が景気回復期、後半が危機時となる。
ただし、後半の景気鈍化は18年度、すなわち新型コロナウイルスの感染拡大以前から始まっていたことに留意する必要がある。また、異次元緩和以前の5年間(2008~12年度)も、リーマン・ショックや欧州債務危機、東日本大震災と、危機の連続であったことを忘れてはならない。
公平を期すため、参考2には、22年度までの民間エコノミストの経済見通しを踏まえた試算値を示してある。多くのエコノミストが、新型コロナの収束とともに、22年度の大幅な景気回復を見込んでいる。
以上を前提に、異次元緩和下の10年間(2013~22年度<見通しを含む>)と、それ以前の10年間(2003~12年度)の年平均実質成長率を試算すると、それぞれ0.69%、0.63%となり、ほとんど変わらない。
異次元緩和が「経済の回復を助けた」といっても、従来の金融緩和と同程度に回復を助けたということである。新型コロナショックへの対応も、リーマン・ショック時と同程度に経済を下支えしたということだ。異次元緩和が突出しているわけではない。
◆雇用の回復の裏側では…
一方、雇用面では、たしかに異次元緩和下で就業者数が大幅に増えた(+約360万人)。しかし、上述のとおり、実質経済成長率は以前と同程度である。すなわち、雇用が伸びる半面、就業者1人当たりの実質成長率(労働生産性)の伸びが鈍化したということだ。
この生産性の伸び鈍化こそが、日本経済の最大の課題であり、賃金が上がらない理由である。雇用の増加だけをとりあげて論じるのは、いかにもバランスを失している。
◆異次元緩和がもたらすリスクへの配慮を
以上を要約すると、次のとおりだ。
第1に、まずもって異次元緩和の位置づけが明確にされなければならない。物価目標2%に固執しながら成果を強調するのは、論理一貫性を欠く。
第2に、異次元緩和は、従来の金融緩和と同程度に「経済の回復」を助けた。それ以上でも、それ以下でもない。
第3に、日本経済の真の問題は、金融政策でなく、生産性の伸び低下にあった。異次元緩和以前の金融政策への批判が、真の問題から目を背けさせたのは残念なことだった。
異次元緩和以前から、日銀は危機に直面する都度、大量の資金供給を行い、市場心理の落ち着きに努めてきた。異次元緩和は、そうした危機時の資金供給を桁違いの規模で行う「劇薬」だった。
劇薬は、心理に働きかける要素が強いため、時間の経過とともに効果が薄れる。一方、劇薬だけに副作用が蓄積する。物価目標2%に固執するあまり、劇薬を常態化させてしまったのが今の姿だ。
当初2年で終える予定だった政策を、9年続けることになった。そのこと自体が異次元緩和のリスクを示している。
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