小澤 仁(おざわ・ひとし)
バンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住24年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。
タイの元陸軍司令官で現在のプラユット・チャンオチャ首相が軍事クーデターにより「国家平和秩序評議会」議長として実権を掌握したのが2014年5月22日。同年8月25日には、当時のプミポン国王(ラーマ9世)の任命を受けて正式に第37代首相に就任した。それからまもなく8年が経つ。その後、16年10月13日にプミポン国王が崩御すると、同年12月2日にワチラロンコン国王(ラーマ10世)が即位。17年には新憲法が公布され、かねて懸念されていた政治的混乱もなく、プラユット政権はワチラロンコン国王への引き継ぎを無事に完遂した。19年3月には民政移管のための下院議員選挙が行われたが、当初の予想を覆してソムキット元副首相たちによって結党された「国民国家の力の党(以下PPRP)」が第1党となり、プラユット首相が続投した。しかしそのソムキット元副首相も民政移管後に跋扈(ばっこ)し始めた金権政治家たちによって20年7月に放逐された(拙稿21年5月7日付第193回「コロナ禍の中で透けて見えるタイ政治の深層」ご参照)。
新型コロナウィルスによって人々の活動が制限されてきたため、タイ政局はしばらく、あまり動きがないまま推移してきたように見える。しかし現政権の任期満了を来年3月に控え、タイはまた政治の季節を迎えようとしている。今回は、少しずつ動き始めたタイの政局について考察してみたい。
◆タイ政治も利害関係中心で動いてきた
まずタイの政治を理解するうえで重要なことは、現在のタイの成り立ちが「アユタヤ・スコータイ王朝」「ランナータイ王国」「ランサーン王国」の三つからなることである。私たちバンコクに住む日本人がわずかながら触れるタイの歴史や文化は「アユタヤ・スコータイ王朝」のものであり、かなり偏った理解である。さらにこれに「華僑」という人たちが絡んでくる。
こうした事情については拙稿(19年2月22日付第138回「歴史から紐解くタイの政治の現状」)をお読みいただきたい。いずれにしても、バンコクで報道され理解されるニュースだけではタイの政治の実情は理解できない。またタイの政治は「軍事政権vs民主政権」「王室派vs民主派」「タクシンvs反タクシン」といったような単純な二元論で語られることも多い。しかしこうした二元論は主張する人の強い思いが反映されているケースが多く、一方に与した見解を展開すると判断を誤る可能性が高くなる。古来、私たち人間は「勧善懲悪」の話が好きである。宗教における「神」と「悪魔」の絶対性などその典型である。しかし科学の力によって少しずつ私たちは「本能で生きる生物の一類型」であることがあぶり出されてきている。また、SNSの発達により今まで見ていなかった政治の裏側が人々に理解されてきた。日本の政治についても、最近では政策議論よりも政治家たちの人間関係や利害関係で政策が立案されている。田﨑史郎や杉村太蔵など政治の裏側を語るコメンテーター各氏がメディアにたびたび登場するが、これこそが日本の政治が「関係者たちの人間関係や利害関係」中心に動いていることの表れだろう。
タイでも同じことである。軍事政権下では国民の権利が制限される。しかし民政移管後の選挙で選ばれた政治家たちの汚職のすさまじさは軍人の比ではない。タクシン元首相は民主化のリーダーのように語られているが、国家利権に結びついた携帯電話会社の取引で自身に500億バーツ(約1700億円)の脱税の嫌疑がかかったまま海外に逃亡している。残念ながら、これもまた政治の一面なのであろう。私たちタイにいる日本人は、タイの政治状況が私たちの生活とビジネスにどのような影響を与えるかを冷静に見極めることが必要である。
◆陸軍司令官を経験した3人の結束
前置きが長くなったが、タイの政治は今後、どう動くのであろうか? 結論から言うと、以下のようなシナリオで動くと私は考えている。
①上院250議席、下院500議席で運営されているタイの国会は来年23年3月に任期満了となり、それまでに下院議員選挙が行われる。選挙法の改正により下院議員選挙のうち400議席が地方区、100議席が比例代表制になる見込みだ。地方区については東北部、北部、南部にしっかりとした地盤を持った議員が数多く存在し、これらの人たちが勝ち上がってくる見込みである。比例代表制は党名を記入するが、従来から広く名前の知られた民主党、タイ貢献党(タクシン派)が比較的強い。
②上院250議席は次回選挙時までは指名制となっており、軍人勢力(プラユット首相などのグループ)に近い人たちが選任される。このため上院・下院議員合同の首相指名選挙では軍人勢力主導で次期首相が任命される可能性が極めて高い。
③国会議員の多くは自らのポストと利権を求めて行動する。このため下院議員の多くは政権側につくことを望んでおり、最終的に下院も軍人勢力によって過半数が掌握されると思われる。
こうして見てくると、「タイの政治の大枠は、今後数年は変わらない」可能性が高い。しかし「次期首相が誰になるのか?」「次期政権を支える政党はどこになるのか?」などについては現状、全く不明であるとしか言いようがない。今まさに国会議員たちは自分たちのポストと利権を求めて動き出しており、これがタイの政局を作り出しているのである。政局は常に流れており、「現在の状況が今後も続く」という保証はない。こうしたことをご理解いただいたうえで、タイのメディアで現在、時々取り上げられる政治トピックスについて、私なりの解釈をしてみたい。
まずプラユット首相の動静である。昨年9月の首相不信任案で不信任票を投じたタマナット農業相(当時)は即時解任され、今年1月には17人の同志と共に与党PPRPを離党し他党に入党した。その後、タマナット派は小法案に反対票を投じるなどプラユット首相に揺さぶりをかけている。タマナット一派が反対に回ると下院での与野党の勢力図が均衡するため、タマナット氏は政治ゲームを仕掛けている。彼にとって目下の関心事は、失った二つの大臣ポストを取り戻すことだといわれている。タマナット氏がPPRPの幹事長時代に彼の後ろ盾となっていたのがプラウィット副首相である。このためプラユット首相とプラウィット副首相の不仲説がメディアによって喧伝(けんでん)されている。そもそもこの2人にアヌポン副首相兼内務相を加えた3人が軍人勢力の中核をなす。いずれも陸軍司令官を経験した生粋の軍人であり、もしこの3人が仲たがいを起こすと、軍人勢力は大きく退潮する。それぞれが自分たちの臣下を持っており、局面ごとにぶつかり合うこともある。しかし最終的には、この3人の結束は崩れないと思われる。それは、
①長らく軍人としてやってきた彼らには規律の精神が染みついている
②3人ともその結束が崩れれば彼らの力が落ちることを知っている
③2014年のクーデターの首謀者3人が権力の座から落ちれば犯罪者になりかねない
以上の理由からである。この3人の結束さえ崩れなければ、前述の政治の大枠についての私のシナリオも崩れない。
◆首相の任期問題とソムキット派らの動向注目
プラユット首相にはもう一つ、頭の痛い問題がある。それは17年憲法に規定されている「首相の任期最長8年」問題である。本稿の冒頭でも触れた通り、プラユット首相は今年8月で首相任期の上限となる8年を迎える。「首相の任期は民政下の時期のみが該当し、軍政時代はカウントされない」という観測気球も上がっているが、司法関係者に聞くと、かなり強引な解釈になるようである。11月にタイで開催予定のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の議長国を理由に、首相任期の期限延長を国会で議決し乗り切る可能性もある。しかし最後は、「伝家の宝刀」である憲法裁判所の判断で決まるかもしれない。いずれにしても政権与党であるPPRPはタマナット氏によって揺さぶりをかけられ、プラユット首相も自身の首相任期問題を抱えている。このため、「来年3月までに組閣される次期政権の中核政党がどこになるか?」「また首相のいすには誰が座るのか?」などについては、現状では全く不明である。
こう書いてくると、「軍人勢力は今すぐにでも権力の座から滑り落ちてしまう」ように聞こえるかもしれないが、決してそんなことはない。プラユット政権を支える政権与党の民主党、プームジャイ党とも引き続き政権内にとどまることを明言している。また今年2月には、一度は失脚したソムキット元副首相が新党を旗揚げして政治の世界に戻ってきた。日本の政財官界になじみの深いソムキット氏は「経済の専門家」としての呼び声が高い。コロナ禍で傷ついたタイの経済を復活させるには、彼の手腕に頼るしかないかもしれない。ソムキット氏はそもそもプラユット首相と個人的に近く、プラユット首相の意向を受けて政界に復帰したようである。PPRPがソムキット氏によって立ち上げられ政権中核党になったように、次期政権の中核党がソムキット新党となる可能性がないとは言えない。
さらに、20年9月にタクシン元首相とたもとを分かったスダラット元保健相の動きも要注意である。スダラット氏はアユタヤの出身で、バンコクでも人気が高い。前述のシナリオでも書いたように、タイの地方では地盤を持った政治家が多く存在する。しかし都市部の政治家は別である。時の政治の動きに敏感であり、かつ利権にありつけなければ自身の政治家生命も絶たれてしまう。スダラット氏はタイ貢献党時代にこうした都市部の政治家たちを束ねてきた。タクシン派から独立したスダラット氏は現政権とも緊密なパイプを持っているようである。先だって行われた下院のバンコク補選では「タクシン派であるタイ貢献党の候補が勝った」とメディアでは報道されている。しかし当選者は、実際にはスダラット氏のグループの人間のようである。
現行の選挙法では「議員は離党すると自動的に議員資格を失う」という規定がある。このため、タイ貢献党内には都市選出議員を中心に多くの離党予備軍が存在する。スダラット氏がこうした人たちを引き連れていけば、「台風の目」になるかもしれない。さらにスダラット新党とソムキット新党が合流するという仰天シナリオまで準備されているようである。
これに対して、最大野党であるタイ貢献党の実質的オーナーであるタクシン・チナワット元首相はどう対応しようとしているのであろうか? 現行憲法下では、タイ貢献党が政権党になるのは不可能なことはタクシン氏も十分承知しているはずである。次の次となる5年後の国会選挙での捲土重来(けんどちょうらい)を期して、できるだけ多くの影響力を温存しようと、タクシン氏は懸命に努力しているようである。
幸いにも、タイ貢献党にはポストや利権が無くても選挙に勝てる、北部や東北部の議員が多くいる。現状ではタイ貢献党は次期選挙においても200議席前後の議席を獲得できる可能性が高い。しかしプラユット氏などの軍人勢力が個別にタイ貢献党議員の切り崩しを図っており、その結果を見極めるには時期尚早のようである。
◆落としどころは決まっている
タイでは5月に通常国会が開会される。この新国会では新年度予算、憲法改正、選挙制度改定、緊急事態宣言の取り扱い、プラユット首相の任期問題、不信任案審議などの案件が山積みである。こうした案件の審議をしながら、議員たちは自分のポストと利権を求めて合従連衡を繰り返すはずである。こうした動きは4月ぐらいから出てくるだろう。
タイの政局は視界不良だが、落としどころは決まっている。シナリオとして先述した通り、来年以降のタイの政治もプラユット氏などの軍人勢力が中心となって政権運営が行われていくということだ。落としどころが見えているならば、タイの政治は当面はゴシップ的に見ていくのが賢明であろう。
※『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』過去の関連記事は以下の通り
第193回「コロナ禍の中で透けて見えるタイ政治の深層」(2021年5月7日付)
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第138回「歴史から紐解くタイの政治の現状」(19年2月22日付)
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