п»ї 障がい者と過ごしたメルケルから遠ざかった悲しい16年 『ジャーナリスティックなやさしい未来』第235回 | ニュース屋台村

障がい者と過ごしたメルケルから遠ざかった悲しい16年
『ジャーナリスティックなやさしい未来』第235回

6月 20日 2022年 社会

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引地達也(ひきち・たつや)

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◆深まらなかった日独の議論

今春、ドイツのシュルツ首相が来日し、岸田文雄首相との日独首脳会談が行われた。第2次世界大戦後の世界で、先の大戦の猛省が国際社会に強く求められた日独の位置付けは、ウクライナ情勢を受けて少しずつ変化を余儀なくされている。

自由と民主主義の価値観を共にする日独ではあるが、その未来像をどう考えていくかの対話は近年、停滞していたというべきであろう。16年にわたって首相を務めたメルケル前首相と同様に、日本では安倍晋三氏が首相の座にいたことによる、2人の志向性の違いのようなものが壁になったように思う。

メルケル前首相の中国重視と安倍前政権による米国のトランプ政権へのすり寄りは、対話の停滞を決定づけた事実となった。「ヨーロッパの母」が引退した今、なおさらに彼女の出自や政治哲学、その倫理観などをモデルに、戦後の日独の在り方の議論も深められたはずだったが、機会を失った。

◆障がい者との暮らし

特に私はメルケル前首相から、彼女が旧東ドイツの出身であることで尊重する「自由」とともに、障がい者と政治を語る機会を得たかったと思う。当時の西ドイツのハンブルクで出生した彼女は牧師の父親の赴任により東ドイツの小さな町テンプリンで育ち、ライプチヒ大学で物理学を専攻し博士号を取得した。

彼女の青春は、東ドイツのシュタージ(秘密警察)監視下の社会のただなかにあり、彼女の政治姿勢では「自由への渇望」が行動原理になっているとされる。それに加えて、彼女が人間を見る時の視点の重要な要素に「障がい者との暮らし」があると私自身は考えている。

それはテンプリン時代のことで、評伝『アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著/清水珠代・訳 東京書籍 2021年)には彼女が過ごした敷地が「ヴァルトホーフ」(森の館)と呼ばれ、「農場、牧師の研修施設、障害者のためのプロテスタント系施設があった」と書かれている。

森の館では障がい者が施設の職員とともに生活し、働いていたという。メルケルの幼なじみはこう話している。

「アンゲラとはここで一緒に障害を持った子供たちを仲間に入れながら育ちました。彼らとつき合い、彼らから大きな影響を受け、多くのものを与えられ、人間について多くのものを学びました。アンゲラ・メルケルが難民に寄せる共感もこの頃の経験が大きいと思います」。

メルケル自身も後にこう語っている。

「1日の大半を彼らと共に過ごし、同じ年頃の子たちのほとんどが違和感を持つようなことを普通だと思う癖がつきました」。

障がい者やマイノリティーを理解するには、生活を共にする以上の学習はない。それが子供の頃にごく自然に行われていたことに、メルケルの人格形成に大きく影響し、宰相になった後もその感覚はそのままで、彼女は思考し政治決定を行ったと見るのは私だけではない。それが「難民の受け入れ」に際立った対応を見せたことにつながったのであろう。

◆聞けなかった生の声

2005年11月にドイツの首相に就任したメルケルが在任中に来日したのは、2007年8月、2008年7月、2015年3月、2019年2月、6月。そのたびに日独首脳会談が行われ、毎年の主要国首脳会議(G8)でも開催地で日独首脳会談は行われているから、対話は継続していたのだが、その際に彼女の肉声は聞こえてこなかった。

東日本大震災後に原発政策を転換したドイツとの「深い」対話は自らの立場を危うくするとの当時の政権の判断もあったかもしれないが、そんな時期こそ真摯(しんし)な対話に臨んでほしかったと思う。

フランスのマクロン大統領はメルケルについてこう述べている。「彼女の気質と方法、それは絶え間ない対話です」。

「ヨーロッパの母」と言われた宰相の対話を同時代に日本で生きた私たちが実感できなかったことは、やはりいまさらながら、悔しい。引退したら、おそらくは多くを語ろうとしないであろう彼女であるからこそ、なおさらにその思いは強くなる。

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