山田厚史(やまだ・あつし)
ジャーナリスト。元朝日新聞編集委員。「ニュース屋台村」編集主幹。
円安が止まらない。ドルに対し、2カ月で20円も安くなった。1ドル=140円が視野に入ったが、通過点でしかない、とさえ言われる。
「円安は日本経済にとって悪いことではない」と言っていた日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁も「急激な円安は好ましくない」と、トーンを変えた。だからといって「円安防止策」を発動する気配はない。日本は無策、防戦に動かない、とみる世界の投機筋は、安心して「円売り」を浴びせる。先物市場で円を売り、安くなったところで買い戻し、差益を稼ぐという流れが定着した。
◆日銀の「円安を加速する市場介入」
「円キャリートレード」と呼ばれる円売りも加速している。資金を円で調達し、ドルに替えて米国の債券や株に投資する。日本国債の金利は0・2%程度だが、米国債なら3%近い利回りだ。米国の中央銀行FRB(連邦準備制度理事会)が、せっせと利上げしているので、米国の長期金利(米国債の利回り)はぐんぐん上がっている。ドルと円の金利差、いわゆる「内外金利差」が大きくなり、円を売ってドル建ての金融資産にマネーを移す動きが広がっている。こうした取引には「為替リスク」が付きまとう。金利を目当てに投資すると、為替(ドル安)で損をすることがある。今はそのリスクは低い。売った先物の円を買い戻す時、円安が進んでいれば、為替差益も稼げる。
日本政府が「なにもしない」ということが円安を煽(あお)っている。
無策どころか、目を凝らすと「円安を加速する市場介入」を日銀はやっている。債券市場の「指し値オペ」である。プロの世界である債券市場で日銀は、インフレを煽るような市場操作を行っている。
長期金利を低く(0-0・25%)に抑え込むため、売りに出る長期国債を日銀が買いまくる。市場金利(長期国債の流通利回り)が0・25%を超えないよう抑え込んでいるのだ。
米国・欧州・アジアの中央銀行がそろって利上げに向かっているのに、日本は逆向き。上昇する金利の頭を日銀はたたきまくっている。
「金融を引き締めれば、今でも苦しい中小企業の経営を悪化させ、倒産を増やす恐れさえある」と黒田総裁は言う。果たして、そうだろうか。
急激に金融を引き締めれば、影響は出るだろう。1990年代の「バブル崩壊」は、マネー全開の金融の蛇口をいきなり激しく締めたため起こった。これを教訓に、金融政策は「市場との対話」つまり、当局が政策の方向性を示し、市場参加者に了解や覚悟を求めながら行う、という手法が定着した。
円安防止には利上げが必要なことはわかっている。内外金利差を縮小する姿勢を日銀が見せれば、先々の金利動向をにらんで市場は円売りに慎重になる。物価に対しても同様だ。これから利上げがある、と市場が受け止めれば、買い占めなど投機に向かうカネは勢いを失う。
◆黒田発言の本音は瀬踏み?
ゼロ金利状態にある政策金利を、例えば0・25%ずつ4回上げたとしても1%である。金融緩和を弱めた、という程度のことで「カネが借りられない」という引き締めの状態とはほど遠い。どこの国も、中央銀行は市場がびっくりしないよう慎重に「対話」をしている。日銀がその路線を採らないのは理由がある。
黒田総裁は講演で「家計は物価高を許容している」と述べて、世間をあ然とさせた。庶民は急激な物価高に悲鳴を上げているが、総裁は「家計の貯蓄は増え、物価の上昇に耐える力がついている」と指摘した。「この程度のインフレなら国民は耐えられますよ」と言わんばかりの発言である。
発言を耳にして「おやっ?」と思った。
総裁の言葉の背後に「国民はどの程度のインフレなら耐えられるのか」を測っている政府・日銀の姿勢が感じられた。「この程度の物価高なら大丈夫」「ここを超えたら危ない」という瀬踏みをしているのではないか、と。
◆心配なのは「中小企業」より「政府の経営」
政府・日銀は「中小企業の経営」を危ぶみ、日本経済を持続的な成長路線に乗せるまで金融緩和を続ける、という。これは外向けの発言で、政府が本当に心配しているのは「中小企業」ではなく「政府の経営」ではないか。
金利を上げてしまうと国債の利払いが増え、財政は身動きが取れなくなる。長期金利(市場での国債利回り)の頭をたたいているのは財政防衛でもある。6月に入ってすでに11兆円の日銀マネーが金利防衛の国債買い入れに投入された。
一方、円安防止のための市場介入は全く行われていない。円高が騒がれた時、政府・日銀は為替市場で「円売り・ドル買い」の介入を連日行った。今は鳴りを潜めている。円安は輸入品の価格を高騰させる。値上がりしている原油や穀物価格をさらに跳ね上げ、インフレを煽る。
中央銀行は「自国通貨の価値を守る」ことが使命のはずだが、黒田日銀は円安と物価高を放置し、金利上昇を抑えることにしゃかりきになっている。なぜか?
思い出したのは「調整インフレ」という言葉。30数年前、大蔵省(当時)を担当していたころのことだ。国債依存の財政は当時から懸案になっていた。財政赤字が積み上がり「国債残高100兆円」に大蔵省は頭を抱えていた。
財政再建するには増税・歳出削減が欠かせない。だが、政治家は不人気政策を嫌い、踏み出さない。政治に頼れないとすれば、何があるのか。インフレ待望論が密かに語られていた。黒田氏は当時、消費税を担当する主税局の課長補佐、青年将校のような立場だった。
インフレは通貨価値を毀損(きそん)し、借金を軽くする。インフレで物価が2倍になれば、通貨価値は半分になり、実質的な借金は半分になる。
政治家が増税を決断できないなら、マクロ経済運営を通じてインフレを誘導して、実質的な増税を行う、そんな密かな筋書きが大蔵省内部で語られていた。「インフレは形を変えた増税」「政治に頼らない増税」といわれてきた。
戦後の日本で起きたようなハイパーインフレは、経済に大混乱を起こす。政権は吹っ飛び、大蔵省の責任が問われる。急激なインフレはまずい。「国民が耐えられる」範囲で徐々に進める「調整インフレ」が検討された。
例えば、毎年7%のインフレなら10年で物価は倍になる、つまり実質的な債務は半減する。増税無しで債務半減、そんなうまい話はあるだろうか。
問題は三つあった。①インフレを安定的にコントロールできるのか。物価が上がると投機マネーが動き出し、手がつけられない状況にならないか②物価が上がれば金利も上がる。国債の利払いがかさみ、財政を圧迫する③インフレに庶民は敏感だ。どれくらいの値上がりなら国民は耐えられるのか――。三つとも侮れない指摘だった。やがて日本はデフレに陥り、インフレなど夢のまた夢になった。
◆亡霊のように蘇る秘策
ここに来て、世界経済の潮目は変わった。インフレの芽は膨らみ、米国では最重要経済課題になった。日本も深刻な事態になりつつある。参議院議員選挙(7月10日投開票)に臨む岸田政権の最大の課題は「物価対策」である。
財政はどうなのか。国債残高は年度内に1000兆円を超える。財政に占める国債の依存率は先進国の中でも突出している。防衛費倍増など財源の裏付けがない議論が声高に叫ばれてる。
与野党問わず増税は論外。減税や財政出動で景気対策を叫ぶ政党ばかりだ。財政当局や国債を引き受ける日銀の内部には「政治不信」が広がっている。そして、インフレが巡ってきた。
黒田総裁の「まだ耐えられる」という言葉に本音がにじんでいる、と思った。
円安や物価高は放置し、しばらく金融緩和を続ける。そうすればインフレは拡大し、政府の借金は軽くなる。問題は金利の上昇だ。インフレを放置すれば、金利は上がる(値上がり期待が起こり、それに見合った金利上昇が起こる)。国債金利が上昇すると困るから、ここは絶対に阻止する。債券市場に日銀が介入し、カネに糸目を付けず金利を上昇させない。
物価の上昇は放置しても、国民はまだ耐えられる。財政が苦しむ金利の上昇は抑える。あとは、ハイパーインフレが起きないよう慎重にインフレを管理する。いま、政府・日銀がやってるのは「調整インフレ路線」そのものではないか。
財政のための金融政策である。大蔵官僚だった黒田総裁ならではの政策だ。岸田政権はこの政策を支持している。
増税ができないなら、インフレで借金を減らす。
国債100兆円の時代に夢想された秘策が、「国債1000兆円」を目前に亡霊のように蘇(よみがえ)った。
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