山口行治(やまぐち・ゆきはる)
株式会社ふぇの代表取締役。元ファイザーグローバルR&Dシニアディレクター。ダイセル化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社の研究開発部門で勤務。ロンドン大学St.George’s Hospital Medical SchoolでPh.D取得(薬理学)。東京大学教養学部基礎科学科卒業。中学時代から西洋哲学と現代美術にはまり、テニス部の活動を楽しんだ。冒険的なエッジを好むけれども、居心地の良いニッチの発見もそれなりに得意とする。趣味は農作業。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
栃木県那須町に「株式会社ふぇの」を設立した。2年前にNPO法人ネストNASUを設立済みなので、やっと出発点にたどりついた。廃校となった小学校で、振り出しに戻って新人生を歩み始めている。週末農夫の生活から半歩踏み出して、東京の仕事は出稼ぎと考えるようになった。「株式会社ふぇの」の活動は、筆者の別屋台「みんなで機械学習」の延長上にあり、中断していた記事を再開したい。
『AI時代の資本主義の哲学』(稲葉振一郎、講談社選書、2022年)=筆者撮影
最近、「資本論」を書いたカール・マルクスは、経済学におけるゼロの発見者ではないか、と考え始めた。無産階級(プロレタリアート)を経済学の主役に見立て、無産階級による足し算や引き算ではなく、掛け算や割り算において、政治経済の革命的変化を構想したことが、数学におけるゼロの発見に相当する大発見と考えている。前稿(「週末農夫の剰余所与論」第29回、西欧文明は脱皮できるか)では「西洋哲学が誕生した時のように、ビジネスに謎の数学を合体させる強い目的意識を持って、ひとびとに未来があるとすれば、1000年が一瞬であるかのような、文明論的リセットを必要としている」と結んだ。ゼロの発見で立ち止まるわけにはいかない。
ゼロの発見の延長上で考えれば、ジョン・メイナード・ケインズは、経済理論における指数関数の発見者だろう。ブラック・ショールズ方程式は確率微分方程式の「伊藤積分」(伊藤清〈1915~2008年〉が戦時中の1942年に発見した、定義可能な確率積分という概念)がベースになっているので、経済学の数学としては、実数関数と、確率論まで応用されている。複数のプレイヤーによる駆け引きは、ゲーム理論として発展してきた。AI(人工知能)時代の経済学の数学としては、この程度で十分なのだろうか。現代の物理理論である量子力学と比較すると、複素数と行列が活用されていないことに気がつく。量子力学はオブザーバブルの理論(原理的に観測可能な物理量。 位置・運動量・エネルギーなどの物理量を指し、状態ベクトルに作用する演算子で表される)として定式化されてきた。オブザーバブルの理論を、AI時代にふさわしく、データ行列と、量子コンピューターの理論と言い換えてみよう。データ行列の理論に、複素数が自然に導入されるためには、ランダム行列の理論の発展を待つことになりそうなので、100年後の話になるかもしれない。量子コンピューターも100年後には現在のパソコンのように使われているのだろうか。AI時代の経済学の数学は発展途上にある。
経済学を、その基礎概念から検討して、哲学的な文脈で再解釈することは、AI時代に限らず、とても重要な学問的課題だろう。場合によって、「新しい資本主義」などの話もあるので、政治的な判断としても重要かもしれない。「新しい資本主義」をフェイクとは思わないけれども、政治的なマーケティングで終わらないようにしてもらいたいし、政権批判者も哲学的なレベルまで、思想信条を掘り下げてもらいたいものだ。さらに、筆者としては、経済学を数学的な文脈で再解釈することの可能性は、文明論的な大きな転換点になると考えている。具体的には、経済学における「市場」を、経済活動の「場」として、数学的に記述することができれば、人間関係が動的に変化する離散ネットワークとしての「場」のイメージが明確になるだろう。物理学における「場」の理論は、真空の理解、波動性の解析とともに深まった。真空が実在することは、量子力学によって真空のエネルギー準位が計算できて、実験値と一致することから実感できる。マルクスの予測は当たらなかったけれども、無産階級が存在し、しかも増加していることは実感できる。「市場」における自由な取引が、AI技術によってほぼ正確に予測できるようになれば、人為的にランダムな価格変動も制御できて、計画経済でも市場経済でも、人類に未来があるとすれば、将来的には同じことになるのかもしれない。
歴史的には、計画経済が失敗だったことは明らかだ。現在でも、ウイルスの変異における最適解を計算するよりも、はるかに「自然」のほうが速いし正確なので、経済学における最適解が、「自然な」市場にかなわないのは当然だろう。しかし、囲碁・将棋のように、計算機が示唆する最適解の「意味」を、人間のプロが察知して解釈する時代はすでに始まっている。AI技術は計算だけではなく、自律型兵器のように、大量生産が可能なロボット技術でもある。『AI時代の資本主義の哲学』(稲葉振一郎、講談社選書、2022年)では、AI技術によって、労働概念と労働市場が大きく変わる、その経済的な意味が考察されている。近未来の話としては理解しやすい。しかし、AI技術によって、「市場」の概念そのもの、もしくは「自由な市民」における「自由」や「市民」の概念そのものが変化すると考えれば、哲学ではイメージできない世界になるので、数学によって未踏領域を探索したくなる。
具体的な話をしてみよう。経済の勉強のつもりで、『令和3年版 経済財政白書』を読んでみた。経済の話題を、ほぼ全て取り上げているようではあっても、基礎概念や数学的な裏付けについては全く言及されていない。例えば、最も重要な経済指標として記載されている「GDP(国内総生産)」の定義や計算方法がわからない。専門家以外には、計算方法の詳細は秘密なのだそうだ。それでも、GDPの国際比較や経時変化の議論であれば問題ない、ということなのだろう。筆者としては、「市場」を「見える化」して、経済活動の「場」について考えてみたかったので、経済指標のメッシュ統計について学びたかった。GDPを都道府県に割り振った統計と、経済センサス活動調査のメッシュ統計(例えば、1Km区画の就労数に関する空間統計)をうまく組み合わせれば、メッシュ化GDPを計算できるかもしれない。経済活動の「場」は、物理的な地域とは限らないけれども、労働市場は地域の影響が大きいはずだ。経済統計に限らず、多くの「統計」は基礎概念を明確にしてからデータを収集する。しかし、データ解析、特にデータの機械学習においては、それらの基礎概念を検討したり、新しい概念を発見したりするためにデータを収集する。「ビッグデータ」と言われることもあるけれども、データ量というよりも、収集するデータの「網羅性」のほうが重要になる。恣意(しい)的で社会的な定義に依存する都道府県などの地域データよりも、メッシュデータを重視するのは、網羅的な機械学習を想定しているからだ。経済白書を機械学習することは難しいけれども、経済指標のメッシュ統計なら機械学習が可能と考えている。地域経済変動の多様なパターンを、AI技術で整理することができれば、国家レベルでの経済政策立案にも役立つだろう。
メッシュ統計の話をしたので、順位統計についても考えてみたい。例えば、スピアマン(英国の心理学者、1863~1945年)の順位相関など、順位統計は使いやすい。しかし、データに内在する順位構造は大変複雑で、従来のような大局的な順位だけではなく、局所的な順位、例えばライバル関係、三角関係、リーダーシップなどをうまく抽出することは、経済活動の「場」としても興味深い。このように網羅的ではあっても凡庸(ぼんよう)なデータ解析では、複素数は出現しない。しかし、無関係であるという関係、例えば順位が確定できない関係も含めたり、関係が周期的に変動する状況を考えたりすると、複素数で相補的な関係(関係行列)を想定する可能性もあるだろう。関数や行列を複素数で記述することは、数学的自由の拡大であり、調和する世界を見いだす強力な方法でもある。経済成長が指数関数で表現されるのであれば、いつまでも経済成長が継続できないことはすぐに理解できる。しかし、指数関数や対数関数を複素数の世界まで拡張すれば、周期的に変化したり、折り畳まれた、まったく様相が異なる世界が見えてくる。そして、素粒子や細胞たちは、そのような複雑な世界をうまく(自然に)取り入れている。資本主義が複雑であっても安定的に発展するのであれば、複素数が「市場」のどこかに、「自然すなわち神」のように潜んでいるのかもしれない。
前稿でも記載したように、筆者は文学部哲学科の隣に、「文学部数学科」を設立することを夢見ていた。しかし、現実の社会は、とんでもない破壊活動の連続で、そのような夢が実現する未来は、人類にはないかもしれないと悲観的になっている。人類とまではいわないでも、日本の未来を楽観するのには、どのような夢があるのだろうか。筆者は日本の数学のレベルは世界トップクラスで、20世紀までのフランス、ドイツ、英国のレベルには達していると考えている。米国やロシアの数学は、戦争が作り出すユダヤ人移民の数学だ。インドの数学は素晴らしいけれども、数学者でも理解できない。九州大学のマス・フォア・インダストリ研究所は10年以上の活動歴がある世界的にもユニークな研究機関だ。本稿では、マス・フォア・ソサエティ(社会数学)について考えてみた。弥生時代の九州に対抗して、縄文時代の東北から、マス・フォア・ソサエティが誕生する夢であれば、実現可能で、AI時代のゲームチェンジャーとなる可能性があるだろう。
稲葉振一郎が『AI時代の資本主義の哲学』で無前提に仮定した「自由な市民社会」は、西欧文明の古典的な理想かもしれないけれども、AI時代の現実の社会は、多様な「ランダムな人びと」の社会となっているだろう。少なくとも筆者は、そうあってほしいと願っている。
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『剰余所与論』は意味不明な文章を、「剰余意味」として受け入れることから始めたい。言語の限界としての意味を、データ(所与)の新たなイメージによって乗り越えようとする哲学的な散文です。カール・マルクスが発見した「商品としての労働力」が「剰余価値」を産出する資本主義経済は老化している。老人には耐えがたい荒々しい気候変動の中に、文明論的な時間スケールで、所与としての季節変動を見いだす試みです。
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