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「ニュース屋台村」開設10周年を迎えて
『バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ』第246回

7月 28日 2023年 社会

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小澤 仁(おざわ・ひとし)

oバンコック銀行執行副頭取。1977年東海銀行入行。2003年より現職。米国在住10年。バンコク在住25年。趣味:クラシック歌唱、サックス・フルート演奏。

私たちのニュースサイト「ニュース屋台村」は今年7月17日で開設10周年を迎えた。長くもあり、短くもあったこの10年である。この10年の間に延べ35人の方々に執筆いただいた。記事数も計1564本になった。すべて「原稿料なし」で書いていただいたものである。この「ニュース屋台村」にご参集いただいた方々には感謝の言葉しかない。私自身も原稿を書き続けてきた。書くことが専門でもない銀行員の私が「10年書き続けてきた」ことはまさに奇跡である。しかし、書いてきたからこそ分かってきたことも多い。原稿執筆を支援してくれた家族・友人にも深く感謝したい。今回は「ニュース屋台村」開設10周年を迎えて、このニュースサイト設立の経緯や苦労話を書いてみたい。

◆開設前夜までの長い長い道のり

「ニュース屋台村開設10周年」と申し上げた舌の根も乾かないうちだが、物語はその数年前から始まる。2003年4月にバンコック銀行に転職した私は、翌年から日本の取引先の本社訪問を目的として年に2回ほど日本に出張してきた。バン銀がタイに進出している日系企業と取引を行っていくためには、東京三菱銀行(当時)や三井住友銀行など邦銀大手と競争していかなければいけない。ところが、バン銀は日本に支店はあるものの、上場企業との取引はほとんど皆無だった。日本の大手企業とタイでの取引を継続していただくためには、バン銀との取引の必要性を本社サイドでも理解していただくしかない。このため、私は年2回の日本出張を始めたのである。

日本に帰国したタイ駐在経験者を頼りに本社の役員や財務担当者とのアポを取り、面会を試みた。出張前にはタイの経済や政治に関する最新情報をまとめ、本社が必要とする情報を可能な限り取りそろえた。併せて、バン銀と提携してくれそうな邦銀探しに奔走(ほんそう)した。その当時の苦労は拙稿第236回「バンコック銀行日系企業部設立の苦難の歴史―石の上にも10年」(2023年3月3日付)をご参照いただきたい。

年2回の日本出張に際し、日本の事情をうかがうためタイから帰国した有識者にご参集いただいたのが、この「ニュース屋台村」開設のそもそものきっかけである。2010年より前であったと思う。集合場所は、東京駅に近い八重洲の日本料理の割烹(かっぽう)「すみだ川」(八重洲地区再開発のため現在は閉店)。低料金ながら、おいしい魚料理と日本各地の地酒を取りそろえた名店だった。山田厚史主幹や岡本登編集長、「ニュース屋台村」のサイト運営業務を代行していただいている日本語週刊新聞を発行する「バンコク週報」(本社バンコク)などのマスコミ関係者。在タイ日本大使館勤務経験者や日本政府関係者なども集まった。

タイから帰国した者から見た当時の日本の政治・経済の状況は、惨憺(さんたん)たる状況であった。議論を進めていくうちに当時、慶応義塾大学経済学部長だった細田衛士教授(現・東海大学副学長、政治経済学部教授)らも会に参加してくれるようになった。当時の私たちの議論のテーマは「民主党政権の政策」「環太平洋経済連携協定(TPP)の意義」「福島第一原発事故以降の原発政策」「統合型リゾート(カジノ)誘致の是非」などについてであった。

さすがに真の有識者の集まりである。日本の新聞や雑誌などでは紹介されていない情報をベースに、当時の世論とは全く異なる意見を聞くことができた。そして私は、その時初めて「私たちがふだんマスコミを通じて接している情報はごく限られているものである」と確信した。もちろん、参加者たちの持っている情報が質量ともに極めて多く、高かったことにもよる。しかしそれ以上に、参加者が全員海外駐在経験者で日本を客観的に見ていたこと、かつ業種が異なる多様な専門家たちであったことが議論の質をいっそう掘り下げたものにしていた。

銀行員として顧客情報や産業界の動向については少しは理解していたが、政治・社会の見方は素人であった私にとって、まさに「目からウロコ」の話ばかりだった。「これだけの多くの情報と正しい見解が多くの人たちに知られていないのはおかしい!」。単純な私は素直にそう考えた。

スマートフォンの初代iPhoneが世の中に出たのは2007年。私たちが「すみだ川」で喧々諤々(けんけんがくがく)の議論をしていたのは、まだiPhoneが世に出て間もない時期である。インターネットで情報が流れるようになったとはいえ、それを使いこなしていたのは若い世代に限られていた。しかし、米国ではすでにウェブ版新聞が一般化しており、日本でも新聞社各社が試験的にニュースのネット配信を始めていた。「すみだ川」での懇談の席でも自然発生的に「自分たちの情報や見解をインターネットで配信しよう」という機運が高まっていた。みんなで「ぜひやろう」ということになった。

◆産みの苦しみの立ち往生 「禁じ手」で打開

ところが、そこからが大変である。何の知識も経験もないところからネット新聞を始めるのである。新聞といえば紙の新聞しか見たことのない私たちである。大手の新聞社のように紙面を作ろうとしたが、紙面を埋め尽くせるだけの記事が集まる保証はない。また、紙面の編集をだれがやるのかということも問題である。さらに、資金の工面は誰がやるのか。編集した紙面をどのようにインターネット上にアップするのか――。中高年のおじさんたちが集まり、みんなで頭を抱えてしまった。

こうしたテクニカルな課題はみんなで何回か集まって議論していく中で、少しずつ解決策が見えてきた。大手新聞社で新聞のネット配信にかかわった人を招いて多くのことを教えていただいた。「ウェブ版新聞では紙の新聞のような紙面構成をする必要はない」「インターネットでは専門性の高い記事ほど読まれる傾向があり、記事を粗製乱造する必要はない」「インターネット上に用意されているメルマガ用のソフトウェアを使えば比較的容易にネット配信ができる」――などなどである。記事の投稿やソフトウェアの管理は「バンコク週報」に無料でやっていただくことになった。

しかし、最後まで問題となったのが、「メディアとしての主義・主張の在り方」なるものである。まじめで責任感が強く、かつ社会的にも立派な経歴を持つ人たちである。ウェブ版新聞とはいえ、「どのような立場で、どのような考え方を発信していくか?」という議論が延々と続いた。また「こうしたウェブ版新聞を一度立ち上げたら、どのようにその継続性を担保していくのか?」という難しい問題の提起もあった。繰り返しになるが、責任感が強くまじめな人たちだからこその問題提起である。

こうした試行錯誤が2年以上続いたある日、私はたまらず「禁じ手」に打って出た。「立ち上げてみてうまくいかなければ、その時はやめたらどうですか? また形を変えてやり直すことはできます」。

発起人の中で実業界にいたのは私一人だけであった。実際の事業では失敗など日常茶飯事である。私自身の経験も踏まえて、みんなの説得を試みた。その言葉でみんなの緊張が氷解したように思えた。

「まずはとにかくやってみよう!」。すでに「ニュース屋台村」の名前も決まり、「執筆者それぞれが独自の屋号を担いで屋台を繰り出す」というコンセプトもでき上っていた。現役官僚の人たちはさすがに記事の投稿は見送らざるをえなかった。現役で仕事をしている人は匿名やペンネームで参加するなど形式にはこだわらなかった。執筆者の思想・信条も千差万別である。執筆者は自らの責任において記事を書いていく。最初から多様性を内包した配信媒体となった(「ニュース屋台村」のサイトの立ち上げ理由などは、ホームページの題字下の「筆者紹介」をクリックするとご覧いただけます)。

◆もがき苦しみながら記事のテーマ探し

それにしても、「ニュース屋台村」に執筆を始めて、イヤというほど思い知らされたのは、書くことの難しさである。それまで多くのテーマで講演会をこなしてきた私は「講演の内容をそのまま文字に起こせばよい」と軽く考えていた。講演会では、声の抑揚や強弱さらにテンポなどで聴衆の気を引き付けていく。聴衆がこちらを向いてくれれば、シメタものである。ところが文章は、何もない白紙に文字をしたためていく。情景を含めてすべて自分で作っていかなければならない。

銀行員として企画書はたくさん書いてきた。しかし読者に読んでもらうための文章など書いた経験はない。「ニュース屋台村」向けの文章を書き進めていくうちに少しずつ文章の冒険を行い、時に岡本編集長のダメ出しを食らい、時には褒められるうちに少しずつ「書く力」が養成されてきたような気がする。

私は当時、「文章は白い紙の上に2Bの鉛筆で書く」ことを信条にしていたが、次第にパソコンに直接文章を入力するようになっていた。「鉛筆による原稿書き」と「パソコンへの再入力」という二重作業をする余裕がなくなってきたのである。一時期は音声入力による文章作成も試みたが、こちらは早々にあきらめた。いずれにしても「ほかの人に読んでいただくための文章の作成は、特段の技巧と努力が必要である」ということが分かったのは、私にとって大きな収穫であった。

さらに私にとって書くこと以上に難しいのが「記事のテーマを見つけること」である。当初は「従来の講演会のテーマを焼き直せばよい」と軽く考えていたが、あっという間に書くべきテーマが底をついてしまった。「バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ」なる銀行員視点を基軸とした「屋台名」を選んでしまったため、日常の何気ない風景からテーマを選んでいく必要がある。最初は読者があまり知らないであろうタイ人の生活、歴史、文化、慣習、宗教などを書いていたが、20回も書き進むうちに書くことが無くなってしまった。元々理屈っぽいが感受性に乏しい私は、日常の些細な出来事を切り取って掘り下げるようなことができない。

タイのテーマが尽きた後は「海外居住者から見た日本の国力衰退」をテーマとした。ここ数年はようやく日本の大手新聞や経済誌も「日本の衰退」をテーマに記事を書くようになってきた。しかし10年ほど前には日本の衰退記事はほとんど見なかった。タイに住んでいれば日本の家電製品の敗退や漫画・ゲーム・文化活動などがどんどん他国に取って代わられているのを肌で感じる。日本の国力の低下は、海外で暮らす私たち日本人にとって致命傷になりかねない。こんな危機感から日本の国力の低下を発信してきた。

一部の人からは、私は「反日主義者」だとのお叱りも受けた。当時の日本は安倍晋三首相の長期政権の下、「強い日本」や「アベノミクス礼賛」のニュースであふれ返っていた。人は「不都合な真実」は見ようとしない。いまだにネットでは「ニッポン、すごーい」の記事がたくさん流れている。それでも「真実を見なければ将来がない」という信念で、日本の衰退をテーマとした記事を書き続けてきた。なにせ当時、日本ではこうした記事はほとんどなかったのだから。

安倍首相退陣のころからであろう、日本の衰退をテーマとする記事が大手新聞や経済誌の一部で少しずつ見られるようになった。影響力のあるマスコミがこうした話題を取り上げるなら、私が「日本の衰退」を記事にする使命は終わった。

次に取り組んだのが、「日本再生への政策・施策提言」である。バンコック銀行の新入行員研修制度である「小澤塾」の塾生が、「地方創生」や自動車・船舶などの「産業別分析と産業育成策」をテーマに論文を書き、これらの論文を「ニュース屋台村」に寄稿する。私自身も「GAFAの研究」「新人事制度の提言」「AI(人工知能)と人間の脳の違い」などをテーマに書いてきた。

手前みそだが、最近ではこうしたテーマの記事を「ニュース屋台村」で発表した数か月後に、経済誌が同じテーマで追いかけ記事を書いているのを目にする。もちろん、記事の内容は専門家から情報を得ている経済誌の方が上である。しかし私たちが提起した新たな視点が、少しでも日本再生に貢献しているならばうれしい限りである。

こうした「日本再生への施策提言」のほかに時々、私が取り上げるテーマは「自分史の披露」である。人生70年も生きてきて失敗ばかりしている。それでも失敗しなければ分からないことはたくさんある。こうした私の失敗物語を読者の方々と共有できるようになってきた。自らの恥部をさらけ出すことも、いとわなくなってきたようである。いかに私がもがき苦しみながら、記事のテーマを探してきたことがお分かりいただけるであろう。

10年もの間、記事を書き続けることは、私にとっては七転八倒の苦しみであった。それでも、もがき苦しみながら書き続けることで、日常を注意深く見聞きし、多くの問題意識を持つことができた。さらに、書き続けることでそうした問題意識を一つひとつ掘り起こし、文章にすることで自分の見解として整理してきた。「ニュース屋台村」に書き続けたことで、本当に多くのことが勉強できたと感謝している。

◆これからも書き続けるだろう、たぶん…

最後に、「ニュース屋台村」の執筆陣について触れておきたい。「『ニュース屋台村』を通じて収益化を図りたい」という当初の発起人の淡い期待はいまだに実現できずにいる。こんな硬派でかつ過激なニュースサイトに広告を出そうなどという企業はないのであろう。このため、執筆陣の方々に原稿料を払ったことはこれまで一度も無い。にもかかわらず、延べ35人の方々に投稿していただき、現在も8人の方々が継続的して原稿を書いてくださっている。

この10年の間、執筆陣を増やしたり、このニュースサイトを世の中にもっと知ってもらったりする努力は何度かしてきた。しかし残念ながら、時流は私たちに逆風である。いまや、人々はあまり活字を読まなくなった。映像であっても、より時間の短いTikTokなどに流れていく。正しい真実より自分の好みが優先される時代なのである。それでも私たちはたぶん、「ニュース屋台村」をこれからも書き続けるであろう。

私たち執筆陣は年に2回ほど東京で集まり、夕食を共にしながら情報交換をする。知識・教養・人格とも素晴らしい人ばかりである。こうした素晴らしい人たちとの「つながり」だけが「ニュース屋台村」の報酬といえば報酬である。こうした人たちの存在を確認でき、意見交換ができるのはめったにない機会である。

私たちはこれからも、執筆陣探しと「ニュース屋台村」の読者拡大を目指していく。10年は一つの節目。ぜひ多くの方々に独自の屋台を繰り出して記事を書いていただき、情報発信を続けていきたい。どうかこれからもよろしくお願いいたします。

※「バンカーの目のつけどころ 気のつけどころ」過去の関連記事は以下の通り

第236回「バンコック銀行日系企業部設立の苦難の歴史―石の上にも10年」(2023年3月3日付)

https://www.newsyataimura.com/ozawa-115/#more-13646

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