п»ї 見たい、知りたい、感じたい「4か国回遊生活」への道 『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第6回 | ニュース屋台村

見たい、知りたい、感じたい
「4か国回遊生活」への道
『四方八方異論の矛先-屋台村軒先余聞』第6回

8月 09日 2023年 社会

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元記者M(もときしゃ・エム)

元新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。座右の銘は「壮志凌雲」。2023年1月定年退職。これを機に日本、タイ、ラオス、オーストラリアの各国を一番いい時期に滞在しながら巡る「4か国回遊生活」に入る。日本での日課は3年以上続けている15キロ前後のウォーキング。歩くのが三度の飯とほぼ同じくらい好き。回遊生活先でも、沿道の草木を撮影して「ニュース屋台村」のフェイスブックに載せている。

私は2023年1月の満65歳の誕生日を機に、新聞社を退職した。通信社時代も含めると40年以上、文字周りの仕事に従事してきた。大学生の時はマスコミ業界に就職する者が多かった、今も続く「マスコミ研究会」に所属し記者をめざしてせっせと文章を書き綴(つづ)っていた。もっと遡(さかのぼ)ると、兵庫県赤穂の行き止まりの寒村の分校にたった1人入学した小1の時に当時、先生が淡いピンク色の紙にフェルトペンとボールペンで枠と縦の線を引いて作ってくれた原稿用紙に、Bの濃さの鉛筆で祖父のことを書き、頑固で一本気なところがあった祖父本人からたいそう褒められたことを今もはっきり覚えているから、書くことは小さい頃からずっと苦にならなかったようだ。

◆恩師に寄せた渾身の追悼文

大学時代に休学して、1975年のベトナム戦争終結直後からベトナム、ラオス、カンボジアの3か国から大量に流出した難民のためにタイ領内の各地にできたキャンプや、難民が定住先として第3国に出るまでの間に滞在するバンコク近郊のトランジットセンターでボランティアとして働いた。その体験を元に書いた論文がある総合商社の「全国大学生懸賞論文コンクール」で1席になり、副賞として世界一周の航空券をもらった。

あらかじめ決められたコースではなく、ひと筆書きの要領で行きたいところはどこでも行けるという、条件なしの分厚い札束のようなチケットだった。カナダ行きを希望しながら当時まだ行けずにいたラオス出身の友人をタイの難民キャンプに再び訪ねた後、ドバイ、アテネを経由して初めてアフリカの地を踏み、ナイロビを起点に、南はザンビアまで、西はナイジェリアの当時の首都ラゴスまで見て歩いた。その後、欧州を経由して北米大陸に渡り、タイの難民キャンプで知り合いその後カナダ、アメリカの各地に定住した元難民の友人や、帰国したボランティア仲間を訪ね歩いた。

そして、大学の卒業式を控えたある日。満席の大きな階段教室で、ゼミ生でもないのに在学中に大変お世話になったI先生の最終講義を聴いた。先生は「この中にいらっしゃるかどうかわかりませんが、卒業する皆さんの学友の中にこんな人もいます」と前置きされ、私と初めて研究室で出会った時のことや私の現地での活動などを紹介された。友人が「おまえのことだよ」と目で合図をよこし、思わず涙が出そうになった。

休学するため当時、受講していた講義を担当する各教授の一人ひとりを研究室に訪ね、休学に至った説明と、「なんとか単位だけはください。卒業した暁には日本人の国際性を啓蒙(けいもう)するようなジャーナリストになります」と、就職はおろか卒業もまだ先の話なのに、大風呂敷を広げてずいぶんムシのいい懇願に行ったのだった。どの先生も快く了解してくださったが、中でもI先生は「少し話していきませんか」と席を勧め、「若気の至り」であったろう私の思いを熱心に聴いてくださった。そのうえ先生は「貧者の一灯ですが」と言って、餞別(せんべつ)まで包んでくださった。

後年、インドシナ難民の定住第1期生として来日した現在の妻と結婚した際、披露宴にお招きした先生は、私が難民キャンプから先生あてに書き送り続けた手紙の内容について触れながら、「感情を理性に昇華させよう」と説かれた。

先生は1998年2月、静岡県東伊豆町の病院で心不全のため亡くなられた。享年72。私は当時、ブラジル・サンパウロでの5年間の南米特派員生活を終えて本社外信部に復帰しサブデスクをしていた。会社の自席で新聞の訃報欄を見て、いても立ってもいられず大学に連絡し、「先生の追悼文をぜひ書かせてください」と、ぶしつけなお願いをした。

本来ならゼミの教え子が書くべきだろうが、大学当局は先生と私の関係を知って、私の一文を「学報」に掲載してくれた。推敲(すいこう)を何度も繰り返し、一文字、一文字を吟味しながら入稿した。いま振り返ってみて、記者として数え切れない数の原稿を書いてきたが、「渾身(こんしん)の一作は」と問われれば、これに勝るものはないかもしれない。

◆在宅勤務は退職に備えた助走だった

定年退職後に無職になることに何らためらいも未練もなかった。愛用のシステム手帳に残りの日数を毎日書き記し、むしろ、指折り数えながらずっと心待ちにしていた。文字周りの仕事から完全に離脱するのではなく、自分の思いを書く場と、初稿を読ませていただく場の両方があるわれわれのニュースサイト「ニュース屋台村」だけで十分だと思った。

定年退職後あるいは中途退社後、大学の教壇に立ったり、さまざまなメディアで活躍したりしている友人・知人は多い。しかし、やせがまんでも何でもなく、うらやましいと思ったことは一度もない。

抜かれ抜かれて抜かれまくった社会部時代の特オチ(特ダネの反対。全社が報じているのに1社だけ落とすこと)の経験は数知れず。そのたびに泊まり番の後輩から明け方に、電話で「抜かれています」とたたき起こされ、恥を忍んで後追いを繰り返した。海外勤務になってからは抜かれることはなくなったが、トラウマのようになっていて、いまなお大学を卒業できなかった夢とともに、特オチ・後追いの夢で起こされることがある。

内勤のデスク業務で出先の記者の原稿をさばいていた時も、校正・校閲のミスによる「おわびと訂正」に神経をすり減らしてきた。どんな仕事も報酬をもらっている以上、責任をもって遂行しなければいけないが、そこは人間。単純なヒューマンエラーのほか、書いた本人しか知り得ない内容が時に誤報の“地雷原”になることがある。

その尻ぬぐいをすることもデスク業務の一つではあるが、原稿をボツにしたり全面的に書き換えたりすることもかなりのストレスとして蓄積されていく。たまに、「書ける」記者がいると、その記者にばかり仕事を振ろうとしてしまう。結果的に、こちらが楽がしたいわけだが、「こんなことに時間を費やすのはムダだ」と、自分の至らぬ点を棚に上げて独りブツクサ言うことも再三あった。

幸いというべきか、退職するまでの3年間はコロナ禍のためほぼ毎日、在宅勤務だったので出社せずに済み、規則正しい生活のリズムの中で自分のペースで仕事ができた。退職後の生活への軟着陸に向けた助走と位置づけられるような、まさに貴重な時間だった。

◆気掛かりは介護施設にいる母のこと

コロナ禍前から、退職後は日本、タイ、オーストラリアの3か国をその国の一番いい時期に訪れ、滞在しながら生活する、名付けて「回遊生活」の夢を抱いてきた。日本では、初めての地方勤務地だった長崎や九州を再訪したいし、まだまだ行ったことがない場所のほうが断然多い。バンコクはASEAN(東南アジア諸国連合)各国の取材拠点として家族と共に8年間生活したところ。シドニーには難民として1980年代にオーストラリアに定住した妻の母や弟妹が住み、これまで近郊の多彩な国立公園の中を海風に吹かれながらウォーキングを楽しんできた、季節が日本とは真逆のお気に入りのところだ。

その夢をずっと心の中に温めていたが、退職を迎えた今年1月、気心の知れた同僚や友人に退職のあいさつとともに、「回遊生活」に入ることを初めて明かした。これまで蓄積されていたストレスとおさらばし、あくまで自分本位で残りの人生を楽しみたい、と公に宣言したのだ。

もちろん、心配事がないわけではない。母(93歳)は2年前から実家と同じ町内にある介護施設で生活している。入所させるに当たり、兄と繰り返し話し合ったが、在宅介護のままでは「老老介護で共倒れになる恐れがある」とのケースワーカーのアドバイスもあり、最終的に決断した。

その母が2021年暮れに施設内で転倒、左大腿骨(だいたいこつ)を骨折し、22年1月初めに手術のため入院した。3月に退院して施設に戻るまでの間、折からのコロナ禍のため面会は一切許されなかった。退院後、施設から近くのクリニックへ定期的にリハビリに通うタイミングを見計らって兄夫婦がクリニックの待合室で短時間面会できただけで、この間に母の認知症とみられる症状は一気に進んでしまった。

今年5月に施設での面会が許されるようになったので妻と帰省して兄夫婦と共に面会したが、車いすの母はほとんど目を閉じたまま、こちらの呼び掛けにわずかに反応したものの自ら言葉を発することはなかった。しかし幸いなことに、兄によると、7月末に面会した時、車いすの母は顔色もよく、「きょうは何か用があったん?」と兄に話し掛けてきたといい、面会時の写真を見る限り、母は健常者と変わらない、私が知る元気な頃の母の表情だったので、一安心した。

それでも、高齢ゆえいつ何時(なんどき)、母の体調が急変するかわからない。母の在宅介護が始まった数年前から、兄からはことあるごとに「覚悟はしておくように」と言われてきた。

「回遊生活」を始めると、日本を長期にわたって不在にしている間に、母に万一のことがあるかも知れない。母がこれまでなんとか生き永らえてこられたのは、兄夫婦の献身的な介護があったからで、私はといえば、毎日のウォーキングの途中に必ず参拝する4か所の神社で母や家族の健康と多幸を祈願するしかない。自分への言い訳と言われても仕方がない。

大学の先輩の中には、高齢の両親の介護のため退職して10年間ずっと介護に明け暮れ、まったく遠出ができないまま去年相次いで亡くなった後も、相続などの問題の対応に追われているケースや、自宅で100歳を超える母親の世話をしながら好きだったゴルフやクラシックのコンサートからすっかり遠ざかってしまった友人のケースなど、介護や介助が必要な者が家族の中にいると、行動範囲はおのずと制限されてしまう。実に悩ましい現実である。次男坊の私が高校卒業以来、東京の大学に進ませてもらったうえに、日本の反対側に位置する南米大陸や、学生時代からの念願だった東南アジアの地で縦横無尽に取材活動に従事できたのは、両親の近くにずっといてくれた兄夫婦のおかげで、ただただ感謝の言葉しかない。

◆今だからこそ、今のうちにできること

私が無職の年金生活者になったことで、年々見直され減少する年金額と「回遊生活」に伴う出費を心配してくれる人もいる。確かにそうだろう。

ただ、例えば、バンコクでは、最高級ホテルとしてだれもが知るマンダリンオリエンタルに泊るわけではない。バンコクでは、4年前から駐在する息子の集合住宅にわれわれ用に一部屋空けてもらい、ノンカイ、ウドンタニ、ピマーイなどタイ東北部では妻の親せき宅や1泊5000円前後のホテルに滞在する。また、「回遊生活」先として新たに4か国目に加えたラオスでもビエンチャンの義弟宅を拠点にして移動すれば、滞在費はある程度、切り詰められる。円安と現地の物価高のダブルパンチは仕方がない。移動の足をタクシーから冷房のない乗り合いバスか、思い切って徒歩に切り替えるなど、節約するだけのことだ。

ブラジル・サンパウロ駐在時に知り合った日本外務省の元外交官で現在は夫人の母国・中米エルサルバドルに住む友人から、「今だからできること。今のうちに人生を謳歌(おうか)すべきだ」と言われたことにも、大いに勇気づけられた。

「回遊生活」を続けるには、確かにそれ相応の体力が必要だ。飛行機に乗って海外との間を自由に往来できるのは80歳まで、としたら、残りは15年。今まで特オチの恐怖など仕事のストレスに嫌というほど苛(さいな)まれてきたわが身にとって、「回遊生活」の計画をあれこれ練る時間はまさに至福の時である。

退職までの過去3年間、在宅勤務が幸いしたのは、毎日15キロ前後のウォーキングを楽しめたことだ。知らず知らずのうちに体力と脚力がついてきたし、「ウォーカーズハイ」と呼ばれるような恍惚(こうこつ)感で心が解き放たれ、アルコールを1滴も飲まずとも食事が楽しめる生活が習慣づいた。

そして、「回遊生活」を始めるに当たって肝に銘(めい)じたのは、自分勝手だとあからさまに言われない程度に「自分本位」であること。傍若無人、厚顔無恥だと後ろ指をさされない程度に、遠慮も忖度(そんたく)もできるだけしないこと。さらに、わが家のトイレの壁に掛けてある徳川家康の遺訓の日めくりカレンダーの中で毎月12日のページに書かれている「人生に大切なことは、五文字で言えば上を見るな。七文字の方は身のほどを知れ。」ということだ。

倹(つま)しく、自分の身の丈に合った生活をまず念頭に置きながら、「回遊生活」がこれからの私の15年にどんな彩りをもたらしてくれるのだろうか。見たい、知りたい、感じたい――。「自分ほどの田舎モンはどこにもいない」と自慢できるほどの、近い将来必ず消滅集落になる山奥の寒村の環境が育んでくれた人一倍強い好奇心。緊張がすっかり緩んだいま、その弾みでそれはさらにいっそう強まった。ストレスやプレッシャーとは無縁の、ウキウキと心躍る生活がいよいよ始まった。

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