引地達也(ひきち・たつや)
仙台市出身。毎日新聞記者、ドイツ留学後、共同通信社記者、外信部、ソウル特派員など。退社後、経営コンサルタント、外務省の公益法人理事兼事務局長などを経て、株式会社LVP(東京)、トリトングローブ株式会社(仙台)設立。一般社団法人日本コミュニケーション協会事務局長。東日本大震災直後から被災者と支援者を結ぶ活動「小さな避難所と集落をまわるボランティア」を展開。企業や人を活性化するプログラム「心技体アカデミー」主宰として、人や企業の生きがい、働きがいを提供している。
先週に引き続き、全国のコミュニティFM局に番組を配信している衛星ラジオ局「ミュージックバード」の「未来へのかけはし Voice from Tohoku」の先週放送分をお届けする。
今回は岩手県陸前高田市からの思い。東日本大震災から3カ月後、陸前高田市の伝統行事である動く七夕は、市街地に収容していた山車が流され、毎年8月に催される行事は開催が危ぶまれた、物資支援に訪れた私に、今回登場する福田利喜さんら実行委員会から開催への協力を呼びかけられた。それがご縁だった。
(ラジオ内容始まり)
◆届かなかった妻のメール
東日本大震災からまもなく3年。 このコーナーでは、被災地の今を、現地の方々ご自身が綴った思いを、生の声で語っていただきます。
今日お伝えするのは、岩手県陸前高田市の地域活性化のNPO役員を務める福田利喜さんです。 福田さんは震災直後、消防団長として地域の救出作業に奔走し、市役所に勤める妻、晃子さんの遺体と対面したのは、震災から10日後でした。
震災から2年後、津波に襲われた市役所と市民会館の解体作業をする際に、 現場から晃子さんの携帯電話が発見されました。 電源を入れると、3月11日の午後3時22分、「大丈夫?公園に避難中」という利喜さん宛てのメールが残っていました。利喜さんには届かなかったメールです。晃子さんがどのような状況で亡くなったかは、今も分からないままです。
【福田さん朗読】
平成23年3月11日の午後3時30分を境に、私を取り巻く環境が一変した。 最愛の家族を亡くし、多くの友人もまた犠牲になりました。
あの日から1000日が経過した今日、一体、何が変わったのだろう。瓦礫(がれき)で埋め尽くされた町はきれいに片付けられ、今では草原と化している。
早朝には、旧市街地を鹿が我が物顔で闊歩(かっぽ)しています。その後は、高台造成工事のダンプカーがひっきりなしに何もない町を駆けていく。
何もなくなった町、陸前高田。1000日経った今も、何もない。でも、少しずつ、少しずつではあるが、生活を取り戻そうとしています。本当に自分で生活できるには、あとどれくらいかかるのだろうかと、この町の現状を見ると、思わずにはいられません。
来年には、一部で高台移転が始まり、災害公営住宅への入居も始まり、区画整理事業、宅地造成、巨大な防潮堤工事と、ハードの整備が動き出していますが、そこには人々の生活が見られません。営みの再建が、今、最もやらなければならないことだと痛感しています。
自分がこの町から多くのものを与えられて育ってきました。今度は、この町を再生するために、次世代へ引き継ぐために、行動しようと思っています。
【エンディング】
陸前高田市は、およそ1700人が犠牲になり、人口流出も深刻です。未来のまちづくりに向けて、福田さんは奔走しております。
震災の風化を食い止めようとつくられた歌、『気仙沼線』。詳しい支援活動は「気仙沼線普及委員会」のフェイスブックでご覧ください。
(以上放送内容終わり)
◆七夕が起点となった心の復興
壮麗で点灯する動く七夕の山車は、地域ごとの組に分けられ、そのにぎやかさを競うのだが、震災で残ったのは3基のみだった。山車の復活と七夕の開催は当時の地域の悲願であり復興への狼煙(のろし)。開催に向け、私は東京で動いた。クリエーターや広告代理店の社員らでチームを作り、資金協力者を探し、復興の一助になればと、イベントに大物ミュージシャンに登場してもらおうと交渉もした。
その時の交渉で初めて味わったのは、被災地と東京の温度差だった。震災から3カ月後の東京は日常を取り戻し、ズタズタとなった、そしてズタズタとなったままの被災地などなかったかのように、静かに協力を断られた。この苦い思い出が、私にとって、その後、風化を防ぐ活動をする原動力になっている。
動く七夕は、地元の頑張りにより、これまでの市街地ではなく、高台の学校の校庭で開催された。手作りの山車の準備作業は私のフェイスブックの表紙ページに掲載されてる。(www.facebook.com/hikichitatsuya)。
私が交渉した大物ミュージシャンの参加はかなわなかったが、人気の男性デュオ、コブクロが歌を披露してくれた。自分の仕事の成果に対して悔しくとも、開催できたのを心から喜び、そして私にとって陸前高田の未来に希望を見た震災5カ月後の話である。
しかし、現在の陸前高田は大きな漁港がありながら、加工業が少ないという産業構造により主要産業の絞込みができないまま、人口流出が続く。一方で町は「復興予算のため」の公共事業で再生しようとしている。建てた施設の維持にかかる「復興後」の維持費などを心配する声も出てきている。
「住まう人が生きる町にするため」の復興でなければならない、と福田さんは力説する。今回の言葉は、復興に携わる人々への投げかけである。動く七夕を復活させた人の思いと行動こそが復興の原点であるように思えてならない。
今回の福田さんの放送は、ユーチューブでもご覧いただけます。
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