п»ї 日本は「夢と希望の国」か『記者Mの外交ななめ読み』第8回 | ニュース屋台村

日本は「夢と希望の国」か
『記者Mの外交ななめ読み』第8回

3月 07日 2014年 国際

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記者M

新聞社勤務。南米と東南アジアに駐在歴13年余。年間120冊を目標に「精選読書」を実行中。座右の銘は「壮志凌雲」。目下の趣味は食べ歩きウオーキング。

100年後の未来の日本がいったいどうなっているのか。にわかに想像できないし、その時点で僕も含めていまの世代の大半はこの世にいないだろうから、いささか現実味に欠ける。ただし、次世代の日本の話だといって簡単に受け流したり看過したりできない問題がある。日本の将来を左右しかねない「移民」と「難民」にまつわる話である。

人口減少のペースが年々加速するなか、内閣府はこのほど、外国からの移民を毎年20万人受け入れ、出生率も回復すれば100年後も人口は1億人超を保つことができるとの試算を公表した。果たして、移民が労働人口の減少や社会保障の負担増に直面する日本を救うことができるのか。こう自問する時、はなから悲観的にならざるを得ないのは、どうしてなのだろう。

◆2110年の日本人口4286万人

厚生労働省が昨年暮れに発表した人口動態統計の年間推計によると、国内で2013年に亡くなった日本人の数から生まれた数を差し引いた人口の自然減は24万4千人と推計され、過去最多を更新した。日本の人口は2005年に初めて死亡数が出生数を上回る自然減に転じ、06年にいったん増えたが07年から7年連続で減少しており、そのペースは年々加速している。

冒頭に紹介した内閣府の試算では、このまま何もしなければ、2110年には日本の人口は4286万人に減る。現在の外国の人口でいえば、スペイン、アルゼンチン、コロンビアなどの規模にほぼ相当する。

内閣府の試算をさらに詳しくみてみよう。移民を15年以降に年間20万人受け入れ、1人の女性が一生に産む子供の平均数にあたる「合計特殊出生率」も人口が維持できる水準とされる2・07(2012年は1・41)に回復するケースを想定して人口を推計すると、2110年の日本の人口は1億1404万人と1億人台を確保できるという。しかしいくら試算とはいえ、だれも明らかに「とらぬ狸の皮算用」と思うはずだ。なぜなら、計算上の「たら」「れば」のほかに、前提となる「15年以降年間20万人の移民受け入れ」が、どう考えても非現実的だからである。

ここで、日本の人口問題を正面から取り上げるつもりは毛頭ない。ただし、人口の加速度的減少を食い止めるには、移民の受け入れに頼らざるを得ないのが現状だ。しかしその一方で、受け入れる前提としてわれわれ日本人が考えなければならないのは、外国移民にとって日本が本当にめざすべき夢と希望の国であるかどうか、努力次第で幸せを実感できる懐の深い国であるかどうかという点である。内閣府の試算は単なる数字遊びではなく、日本の未来に突きつけられた鋭いナイフのように不気味に思える。

◆ミャンマー難民の第三国定住、不可解な継続

移民とは意味合いが異なるが、日本が受け入れる難民も人口減への歯止めの一翼になり得る可能性がある。大半のメディアは報じなかったが、日本政府は1月24日の閣議了解で、2010年度から3年間の予定でパイロット事業として始めた、タイで暮らすミャンマー難民の第三国定住による受け入れを2年間の事業延長期間が終わる15年度以降も継続することを決めた。

第三国定住とは、すでに母国を逃れて難民となっているが、一次避難国では保護を受けられない人を他国(第三国)が受け入れる制度である。難民は、避難先の国から第三国に移動することによって保護を受けることができ、長期的に定住することが可能になる。

日本政府は2010年度から、当初3年間はパイロット期間として、母国ミャンマーを脱出し、タイのメラ難民キャンプに避難していた少数民族カレン族の難民を対象に計90人の受け入れを目標にこのプログラムを始めた。その後、12年にはパイロット期間を2年間延長し、対象の難民キャンプをヌポ・キャンプおよびウンピアム・キャンプ(いずれもタイ国内、カレン族中心)に広げることが決まった。そして今回、新たに閣議了解でこの事業を継続することを決定したのである。

僕は、日本がこの第三国定住のプログラムを開始する前から国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の関係者から相談を受け、私的な立場で「反対」を唱え、仮に始めるとしても、まず日本の受け入れ態勢を十分に整備することが先決だと繰り返し指摘してきた。

◆インドシナ難民受け入れの教訓は十分生かされたか

日本には、インドシナ難民を受け入れてきた過程での貴重な教訓がある。インドシナ難民とは、ベトナム戦争とその後に隣国のラオス、カンボジアで起きた「革命」によって母国を脱出し難民となった人々のことだ。タイへの難民流出が激しくなった1970年代後半、当時日本は難民条約に加入していなかったが、政治的措置としてインドシナ難民の一時滞在を認め、その後閣議了解により受け入れを決めた。

これによって日本政府は79年にインドシナ難民への本格的な支援を始め、定住促進のための具体的業務を財団法人アジア福祉教育財団に委託。同財団は難民事業本部を設置し、同年12月に姫路定住促進センター(兵庫県)、80年2月に大和定住促進センター(神奈川県)を開設した。これらの施設ではインドシナ難民のための日本語教育、社会生活適応指導、職業のあっせん・紹介、定住後のアフターケアなどの支援を行い、外務省によれば、78年から受け入れが終了した2005年末までの間に日本が受け入れたインドシナ難民の定住者数は計1万1319人に上る。

こうしたインドシナ難民の定住受け入れの実績は、現在のミャンマー難民の第三国定住の研修プログラムにも色濃く反映されている。①来日が決まった人たちに簡単な日本語や日本での生活について教える約1カ月間の出国前研修②来日後に約半年間、約430時間の日本語教育、生活に関する研修、職業紹介に関する支援を行い、定住への準備を進める③施設を出て半年間の定住先候補地の事業所での職場適応訓練を経て、地域社会への軟着陸(定住)を図る―という一連のプロセスは、インドシナ難民の受け入れによって整備された研修プログラムをほぼ踏襲したものである。

しかし、こうした研修プログラムが果たして現実にきちんと対応したものかどうか、これまでに来日したミャンマー難民の足取りをつぶさにたどっていくと、明らかに疑問符がつく。

◆第三国定住の受け入れ数、目標の半分

日本がこれまでに第三国定住の枠で受け入れたミャンマー難民は、合計13家族63人。内訳は第1陣(2010年度)5家族27人、第2陣(11年度)4家族18人、第3陣(12年度)ゼロ、第4陣(13年度)4家族18人。受け入れの目標枠は年間30人なので、目標通りなら4年間で120人になるはずだが、実際にはほぼ半数にとどまっている。

このうち、第1陣では3家族14人が三重県鈴鹿市に定住し農業に従事。うち2家族は子供の進学を契機に定住してから2年後に埼玉県に転居し、それぞれ飲食業、リネンサプライ業に従事している。また、別の2家族13人は千葉県東金市に定住し農業に従事していたが、その後、東京都内に転居。1家族はホテル清掃業に従事。別の1家族はリサイクル業に従事しているが、来日後の出産を契機に妻が働けなくなり、生活保護を受けている。

2陣は埼玉県三郷市に定住し、靴製造工場、リネンサプライ業に従事。このうちリネンサプライ業にパートで働いていた女性はその後退職し、現在は弁当店のパートとして働いている。

第3陣は当初、3家族16人が来日する予定だったが直前になって全員辞退し、最終的に受け入れはゼロとなった。ミャンマー難民を積極的に受け入れてきた米国や豪州と比べて親族や知人が少ない心細さや、日本で暮らす第1、第2陣定住者から「なじめない」という声が届いていたことなどが背景にある。

第4陣は4家族18人で13年9月に来日した。現在、東京都新宿区内の施設で日本語や日本での生活などについて研修しているが、まもなく終了し4月には定住候補地に向かう予定だ。

63人のミャンマー難民定住者の来日後の足跡をあえてこまごまと記したが、ここには到底書き切れないほどの辛苦の生活があったことは容易に想像がつく。残念なことだが、いまなおつらくて苦しい生活が続いているかもしれない。なかには日本に来たことを後悔し、名実ともに民主化が進めばいずれミャンマーに戻りたいと考えている人もいよう。

◆国際貢献をアピールする苦肉の策

こうした現状のなかで、ミャンマー難民の第三国定住プログラムを2015年以降も継続するとした閣議了解をいったいどう解釈すればよいだろう。

外務省はプログラムの意義について「日本はアジア初の第三国定住難民の受け入れ国」「難民問題の恒久的解決のため経済的支援を超えた国際貢献・人道支援」「難民が受け入れ地域に定着することで地域の活性化に資することなどが期待」と強調。今回の閣議了解を受けて、新たにマレーシアに一時滞在するミャンマー難民を受け入れ対象にした。また、タイの難民キャンプから受け入れてきた現在の日本定住者が家族の呼び寄せを希望した場合はこれを認めるほか、受け入れる家族が収容されているタイの難民キャンプを現在のメラ、ヌポ、ウンピアムの3カ所に加えメラマルアン、メラウウも対象に指定した。

一見、受け入れの対象を広げた弾力的な措置のように見える。しかしその実は、タイのキャンプにいるミャンマー難民は年間30人の受け入れ目標を確保できる見通しが立たないことから、「国際貢献・人道援助」を標榜する体面上、なんとか数字合わせをしようと苦肉の策に出たように僕には思える。

◆日本を出ることでつかんだ夢

難民にとって、日本は「夢と希望の国」なのか。努力が報われる国なのか。ごく身近な例を紹介しよう。僕は学生時代に休学してタイの難民キャンプで働き帰国後、姫路と大和にあった難民定住促進センターを何度か訪れ、これらのセンターで研修したラオス難民の仲間とその後、バンドを組んで活動していた。30数年以上も前のことだ。

メンバーの6人(うち2人は日本国籍を取得)はいまも互いに連絡を取り合っているが、定住したはずの日本に住んでいるのは、ギター兼ボーカルの「地付き」の僕だけである。リーダーのキーボードはアメリカに移住しカリフォルニア州ホリスターで日本食レストランを経営、ベースも米カリフォルニア州サクラメントで日本食レストランを興した。ドラムスはタイで農園を経営、ギターはラオスに戻り林業に従事。リードボーカルはシンガポールに渡り観光業を営んでいる。正直なところ、彼らが日本にずっと残っていたら、今のような成功を手にすることは到底できなかったのではないかと思う。

彼らが来日後に経験した日本の習慣や日本語にまつわる苦い思い出は、いまでこそ笑い話ですまされるが、当時はいたたまれない気持ちにさいなまれた(当サイトの拙稿『読まずに死ねるかこの1冊』第4回〈2013年9月13日〉「『ネコ』印と『イヌ』印 どっちがおいしい?」の項をご参照ください)。同じ日本人であることに罪の意識すら感じた。その思いはいまも変わらず、それがミャンマー難民の第三国定住に反対する大きな理由になっている。

◆第三国定住という新たな「黒船」

日本がインドシナ難民を受け入れ始めた当初、マスコミはインドシナ難民の存在を日本にとっての「黒船」だと表現した。「カネは出すが、人を出しもせず受け入れもしない」という国際社会の批判をかわすため、「国際貢献・人道支援」の具体的な試金石となったのがインドシナ難民の受け入れである。

学んだことも少なくなかったはずだが、定住者の追跡調査など課題を放置したまま、第三国定住という新たな「黒船」に向き合うことになった。夢と希望を抱いて定住したミャンマー難民にとっては大迷惑であり、パイロット期間の最終年度にあたる、受け入れがゼロだった第3陣の12年度で区切りをつけるべきだったと思う。

日本政府は「国際貢献・人道支援」や「アジア初の第三国定住難民の受け入れ国」を前のめり気味にアピールするあまり、難民の来日後の将来への配慮がおろそかになってはいまいか。彼らに犠牲を強いるような現状が続くなら、日本が近い将来、大量の移民を受け入れることなど夢のまた夢である。

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